153. 15年と11ヶ月目③夜 まもなく1歳ノゾミちゃん。
ザルソバから、好ましいと思っていた相手がいたとミノリが聞かされたその日の夜。
オンヅカ家の面々は基本的に家族全員が揃って夕飯を摂ることにしていたのだがこの日はシャルとノゾミが席にいない。
というのも、既に授乳期を終えているものの、まだ定期的に飲みたいからという理由でシャルから授乳させてもらっていたノゾミが、明日で1歳になるのを期にこれを以て卒乳したいとミノリ達に申し出たことで今は別室でシャルから授乳をさせてもらっていたからだ。
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「はい、それじゃノゾミちゃん、いいですよ」
「わーい!」
家族に対して敬語を使う癖が完全に身についてしまったが為に、実の娘にまで敬語を使うようになってしまったシャルが服をまくってからノゾミを抱きあげると、暫くして『ずぉおぉぉぉおっ』という普通の授乳ではありえない怪音が室内に響いた。
何を隠そう、これがノゾミの授乳時に発する吸引音である。
まるで掃除機のようなこの異音を初めて聞いたシャルはもちろんのこと、家族全員もシャルはこのまま肉体ごとノゾミに吸い尽くされてしまうのではないかと不安を感じたのだが、ただ音がすごいだけでシャルの身体にはなんら異変をもたらさない安全な音だとわかり、今ではオンヅカ家の日常の生活音の一つとなっていた。
しかし、その音もノゾミの卒乳である本日を以て聞く機会は今後無くなる。それはノゾミが成長している証でもあるのでシャルはその事を素直に喜んだのだが、それと同時に何故か『寂しい』という感情も湧き始めてきた為、相反する二つの感情に一人心が揺さぶられていると、先程まで響いていた怪音が鳴り止んだ。
どうやらノゾミは最後の母乳を堪能しきったようでノゾミはシャルの胸から口を外した。
「ぷはっ、ごちそうさまシャルママ! さっきも言ったけど今日でノゾ、シャルママのおっぱい飲むのおしまいにする! 今までありがと!」
「そうですか……少し寂しいですけど、もうノゾミちゃんは明日で1歳になりますもんね。……すっかりお姉ちゃんになりましたね」
「!! そうだよシャルママ! ノゾはもうおねーちゃんになるんだよ! あ、でもシャルママのおっぱいが張って辛い時は言ってね、ノゾ飲んであげる!
……あ、でもノゾが飲まなくてもネメママが飲むのかな? 時々シャルママの体からネメママのにおいするから」
「ぶっ……そこまでわかっちゃうんですかノゾミちゃん!? えーっと……その事はネメお嬢様にはもちろん、家族の誰にも言わないでくださいね?」
「え? んー、よくわかんないけどわかった! ノゾ言わないね」
知能はかなり発達しているけれどまだ知らない事も多く、特に夜の営みについてはネメとシャルが何かをしているという事はわかるけど、具体的には何をしているのかまではさっぱりわからないらしいらしいノゾミに、これ以上暴露しないようシャルはやんわりと釘を刺した。
(うぅ……前にお姉様からノゾミちゃんに夜の営みの音が聞こえているみたいだからもう少し防音魔法をしっかりしてって注意されたばかりだというのに嗅覚面でも気づかれているとは……。すごい子だなぁと思うけれど、ノゾミちゃんの事を私とネメお嬢様だけで育てていたとしたらかなり大変だったかも……お姉様たちには感謝です)
1歳になろうかという段階で既に5歳児並みの体格で知能も見た目相応。体力と魔力はネメやトーイラ並みにあり、聴覚もミノリほどでは無いが、それでも人並み以上という規格外なところ満載のノゾミなのだが、ここにきて嗅覚まで人一倍優れていることがわかり、その大物ぶりにシャルは嬉しく思う反面、一緒に育ててくれたミノリをはじめとしたオンヅカ家の面々に頭が上がらない思いでいっぱいだ。
さて、そんなノゾミはすっかりおばあちゃん大好きっ子になっているようで、運動をしたり本を読んだりという時以外は大抵ミノリと一緒にいる事が多い。
「それはそうとノゾミちゃんはお姉様……えっとミノリおばーちゃんと一緒にいる事が多いですよね」
「うん! ノゾね、おばーちゃん大好き! 特におばーちゃんのおへそ! 絶対いつかおばーちゃんのおへそをノゾのものにするの!」
「へ、へそ……。そ、そうですか……」
(そういえばノゾミちゃんが私のお腹にいた時からネメお嬢様はやたらと私のお腹に向かって臍がどうのこうの言ってましたけど……あの胎教がここまで影響するとは思ってもみなかった……あはは……)
ネメの英才教育の賜物……というよりも弊害の方が妥当と言えそうな、ノゾミの臍に対する執拗なまでのこだわり。その事に対してシャルが少し苦笑いを浮かべているとノゾミはそんなシャルの顔を見て何故か顔をハッと驚いたような顔になり、そして……。
「あ! でもねでもね! ノゾはシャルママもネメママも勿論大好きだよ! それにトーイラおねーちゃんとリラおねーちゃんもみんな大好き!!」
どうやらノゾミは『ノゾミはミノリ以外の事はあまり好きではないと母であるシャルが勘違いしてしまったかもしれない』と思ってしまったようで、まるでフォローするかのような言葉を言いながらシャルにノゾミは笑顔を見せた。
「……うん、ノゾミちゃんがみんなのことを大好きなのはもちろんわかっていますし、私たちみんなもノゾミちゃんのことを愛していますよ。だから、これからも自分のペースで育ってくださいね。私にとってノゾミちゃんが成長することがそれが一番嬉しいんです。……もし私がいなくなってもノゾミちゃんなら大丈夫」
ノゾミの笑顔に応えるように、柔和な表情でノゾミの頭をやさしく撫でたシャルだったが、一緒に口にした言葉の中に『寂しい』という気持ちまでもが無意識の内に自虐という形で現れてしまった。
「いなくなっても……? シャルママどこか行っちゃうの?」
「あっ、ちがうんです。なんでもないですよノゾミちゃん」
その言葉を聞き逃す事はせずに、シャルをまっすぐ見つめるノゾミ。
慌てて自分から漏れ出てしまった失言を否定しようとしたシャルだったが、ノゾミから向けられた綺麗で曇り一つないオッドアイの瞳を見返すことが出来ずに目をそらしてしまった。
そして、その反応こそシャルが無意識の内に抱いてしまっていた失言の理由であり、昼前にザルソバの元へ向かう際にシャルへ声がけしたミノリも『シャルが何か悩んでいる』と気がついてしまった『ノゾミと接することのできる時間の少なさ』という悩みでもあった。
というのも『まだ1歳にもなっていないノゾミを森の外に出すのは危ない』という家族全員の総意により、ノゾミの行動範囲は現在家の周りを中心とした森の中までだったのに対して、浮遊魔法が使えるネメとシャルが担当している家事は遠方の町まで行きやすいという点から買い出しが主で家にいない時間が多い。
そうするとネメとシャルがノゾミと接する事の出来る機会は買い出しを終えてからとなるのだが、ノゾミは午前中に読み聞かせや体を動かさない遊びをした場合は午後は必ず運動、逆に午前中運動したら午後は逆に読み聞かせ、というように一日中運動だけをしたり読み聞かせだけをしてもらったりするような事はしなかった。
これはノゾミが家族の誰かと遊んでもらう事に対して時間の格差をなるべくつけたくないという気持ちの現れでもあったのだが、それはノゾミの実の母親であるにもかかわらずネメとシャルは買い出しから帰ってきた際にノゾミに読み聞かせをしたり体を動かさない遊びをしてあげられるかは運まかせという状態を作り出してしまっており、『家族一丸でノゾミを育てている』と考えているネメはともかく、『結ばれて子供を作る』という事自体が種族レベルの悲願であったシャルにとってはノゾミの事をとてもかわいがりたいのにもかかわらず、確実に構ってあげられるのは買い出しに行かない日ぐらいしか無くなってしまっていた。
その上、家族の中で唯一シャルがノゾミにしてあげられた授乳も今日で終わり。
そのせいでシャルはますますノゾミに構ってあげられる機会が減る事になり、寂しい気持ちをますます募らせてしまった結果、ミノリまでもがシャルが思い悩んでいるのに気がついてしまう程に態度に出てしまっていたのだ。
「……シャルママっ」
「わ、どうしたんですかノゾミちゃん」
そんな寂しい気持ちが膨らんでしまった母の心情を感じ取ったのかシャルに抱かれたままの状態だったノゾミは甘えるようにほっぺをシャルの体にくっつけた。
「シャルママが少ししょんぼりしてるの、ノゾ感じる。シャルママがいなかったらノゾ、生まれてないよ。だからシャルママはノゾにとって必要なの。ノゾを産んでくれてありがとう。だからしょんぼりしないでシャルママ……。シャルママがノゾの事を一番大好きだって気持ち、ノゾにはいっぱい伝わってるよ」
「……そうですね、ありがとうノゾミちゃん。……ごめんなさい、私、少し弱気になってしまっていました。あなたは私にとってかけがえのない宝物ですよ」
優しく微笑みながらシャルはノゾミを抱きかえした。
そのまま暫く静かに抱き合っていた母娘だったが、何かを思い出したらしいノゾミが口を開いた。
「……あ、それでねシャルママ、もうすぐノゾ1歳になるから、シャルママにお願いしたい事があるの」
「え? なにをお願いしたいんですか?」
確か誕生日にはプレゼントを贈ったりすると伴侶であるネメから聞いていたシャルはこれがそうなのかなと思いながら、一体何をノゾミが欲しがっているのか尋ねると……。
「妹! ノゾ、妹ほしいの!! いっぱい!」
「ぶふっ! え、ちょ、待ってノゾミちゃん、1人2人じゃなくていっぱい!?」
ノゾミが欲しいものは、物ではなく人だった。また娘ができたら欲しいなどとネメと話してはいたが、まさかノゾミから大量に妹を求められると思ってもみなかったシャルは思わず噴き出してしまった。
「うん! 今もネメママとシャルママはがんばってるみたいだから、そしたらノゾミに妹ができるに違いなくて、だからノゾ楽しみなの」
「!? も、もしかして、夜に私たちの寝室、覗いたりしました……?」
もし2人の営みをまだ1歳にもなっていないノゾミが見ていたとしたら確実にミノリから大目玉を食らうと瞬時に察したシャルは戦々恐々の思いでノゾミに尋ねたのだが、ノゾミは顔をきょとんとさせた。
「え? ううん、何をしてるか知りたかったけどおばーちゃんに入っちゃダメって言われてたし、音とにおいしかノゾわからないから知らないよ。だけどノゾとおんなじ感じの魔力がシャルママのお腹の中に少し溜まってるの見えるもん。だからシャルママとネメママがこのままがんばればいつかはノゾに妹できるってわかるの」
「え、ノゾミちゃん、魔力が見えるんですか!?」
「うん、見えるよ。ネメママの魔力がシャルママのお腹の中に入り込んでる感じ」
「そうなんですか……いや、まさか見えるとは思ってなかったですね。だけどそっか……2人目が可能なんですね私……」
魔法生物のような存在だからなのかノゾミの目は魔力の流れを可視できているようで、ノゾミの話を信じるならばシャルの下腹部にネメの魔力が溜まっているのが見えるらしい。ノゾミを出産した後もこうしてネメの魔力が体内に溜まっていることを考えると、シャルは再び子を為す事ができる可能性がある。それならまた子供を産みたいという気持ちがシャルの中で再び芽生えだしてきた。
「……うん、わかりました。ノゾミちゃんの妹ができるようにがんばりますね。人数については後でネメお嬢様と相談する事になりますけど……」
「やった! ノゾ楽しみ!!」
ノゾミが嬉しがる姿を見て、決意を新たにしたシャルだったが、ふと、以前にミノリから聞いていたことを思い出した。それは数ヶ月前にノゾミが欲しがっていたあるモノについてだ。
「あれ、そういえばノゾミちゃんはペットが欲しいとお姉様から聞いたことがあったんですけどそっちはいいんですか?
……ちなみに私みたいなのがほしいって言ったのは聞かなかったことにしてます」
「うん、そっちは大丈夫!」
おそらく嬉々とした表情でノゾミに首輪をつけられている自分の姿を想像してしまったのだろう、言葉の終わり際、シャルは『無我の境地』を体現したような表情になりながらそう尋ねたのだが、意外にもその問いに対してノゾミは首を横に振った。その答えを聞いてどうやらペットについてはもういいのだろうとシャルは判断しかけたのだが……。
「だってもう決めてあるから!!」
意味深な答えがノゾミの口から続けて返ってきた。
「え、き、決めてある……って……へ? ノゾミちゃん、それって一体……」
……どういうことなのかシャルには全くわからなかった。
というのもそもそもこの森からノゾミは出た事は一度も無いとみんなから聞いていたシャルは、動物自体がいないこの森でにペットとなるべく存在を見つけるのはほぼ不可能な事だとわかっている。
だと言うのにノゾミの言葉は何をペットにするか既に定めているような口ぶりだ。
そう考えるとかなり選択肢が限られてくる……どころか全くないはずなのだが、一体ノゾミは何をペットにしたがっているのだろうか?
(え、もしかして何を……じゃなくて『誰を』だったり……?)
混乱したように目を白黒させたシャルは、詳細をノゾミに聞こうとしたのだが……。
「ふわぁあ、ノゾそろそろ寝るね。シャルママ、おやすみ」
シャルが尋ねる前にノゾミはあくびをすると、感覚的に今夜シャルとネメが『何か』をするに違いないと察したようで、ミノリ達の寝室で寝る為にいそいそと部屋から出て行ってしまった。
「え、あ、ちょっとノゾミちゃん……まぁ、いいかな。明日聞くことにしよう。それはそうと……妹をいっぱいかぁ。一体何年かかるのやら……。ネメお嬢様とも相談してみよう」
ちなみにこの夜、ノゾミが妹をほしがっているとシャルから聞かされたネメは何故かものすごく張り切ってしまい……そのせいでシャルもネメも翌日思い切り寝坊をしてしまうのであったが……ある意味シャルは運が良かったのかも知れない。
ノゾミが発した意味深な言葉の真意がわかってしまう『とある騒動』が、シャルたちの寝ている間に起きてしまったのだから。




