File twenty-six 決着の時です。
俺のやることは、終わった。
★☆
――残り時間は、あと六十分。
いつの間にそんなに時間が経ったのだろう。懐中時計にちらりと視線を落とし、エリオットは眉をひそめた。抑制魔装具を起動してから、もう二時間。あまり時間は残されていない。
研究塔の内部は殺風景で居心地がいいとは言えなかったが、とにかく清潔ではあった。殺菌消毒が徹底されていて塵ひとつない、そんな状況だ。しかしいまエリオットらがいる場所は、まったく真逆の場所であった。こもった煙のせいで視界が悪く、足元には小石や建物の破片などが転がっている。漂っているのは土っぽい匂いと煙の匂い、それから――血の匂い。床や壁がところどころどす黒く染まっているのは、多分人の血液だ。
ここは研究塔に隣接する、大統領府の中だ。
「襲撃から何日か経ったというのに、まだこの惨状とは……一体どれだけの爆発が起こったんだ」
充満する煙を吸い込まないようにしながら、イシュメルが呟く。キースリーのクーデターは、議会の場で起こった一回の爆発が引き金になったと聞いている。とすればこの煙はその議会の場から流れてきているはずだが、それがこんなにも残るものなのか。
研究塔と違う、大理石の床。豪華な絨毯。ぬくもりのある木製の調度品。平時はさぞ穏やかな廊下だったのだろうが、今では血と死臭が漂う場所でしかない。
――あのあと、テオは研究者の口を割らせてキースリーの居場所を聞き出した。それによれば、キースリーは研究塔にはいない、早々に大統領府に移った、という答えが返ってきた。しかも、先に魔物化した住民たちはすべてキースリーが引き連れて行ったというのだ。
それだけ聞ければ充分だと、テオは移動を始めた。まず助け出した少女を、先程のシェルターまで送り届けてナディアに託しておいた。ついで、研究棟内に傭兵も研究者ももはやいない、脱出をするなら今だと促した。イザードが道順を教えて、警備軍の主導で住民たちは地下水路を通って離脱する。単純な道のりだから大丈夫だろうし、行きにエリオットがそれとなく目印を残してある。それを辿れば街まで戻れるはずだ。
そうして一行は研究塔を出て、大統領府へ向かったのだ。そしてそこはもはや――廃墟であった。
キースリーがこちらにいるというのなら、最低限の片付けくらいはしてあるのかと思った。しかし予想に反して、建物内は襲撃された当時のまま静寂を保っている。戦いの爪痕と、倒れた警備軍の隊員たち。イザードと制服が違うから、彼らは治安維持隊ではなく戦闘部隊だろうか。彼らは不測の事態にもかかわらず、本当に果敢に戦ったのだ。警備軍と同じだけ、傭兵たちの死体も転がっているのだから。
あとは、ぽつぽつと貴族らしい人間の死体もある。逃げ遅れたのだろう――こうなってしまうと、ひそかに生存を信じていた人間たちは絶望的だ。今の大統領府内に、生あるものの気配は全くない。
だがそれでも、テオは「まだ間に合う」と断言している。
「魔砲は魔装具の一種だ。量産型の魔装具なら必要ないけど、新しい魔装具を造るには新しい変換機の回路が必要なんだ。それは俺にしか造れない。だからキースリーも必死で俺を探していたんだろう」
「ということはつまり、魔砲は未完成?」
「多分ね。加えて、各地のエナジーの源泉は俺たちが散々停止させてきたでしょ。弱体化はしているはずだよ」
先を行くのは、やはりチコ。次に、内部に詳しいイザードが続く。だが、慣れたはずのイザードでさえいまの大統領府内の位置を把握するのに四苦八苦している状況だ。ところどころ瓦礫で塞がっている通路もあり、迂回をしていたので尚更だ。
「しかしおかしいな。研究塔に傭兵がいなかったのはこっちに人員割かれているからだと思ったが、ひとりもいないではないか」
殿を務めるイシュメルが呟く。まさか大統領府を襲撃したときに、全員が警備軍に討ち取られたはずもない。キースリーの傍にいるのだろうか。
チコはひょいひょいと瓦礫を越えて走っていく。チコには何でもない道でも、百八十近い長身の持ち主四人ではそうもいかない。
瓦礫を飛び越えて着地した場所に、運悪く石ころほどの残骸が転がっていた。それを踏んで足を滑らせたのはエリオットである。
「う、わっ……!?」
よろめいても倒れなかったのは、眼前にイザードの分厚い背中があったためだ。おかげで無様に転がることはなかったが、したたかに鼻をイザードの背中にぶつけてしまい涙目になる。
「おい、大丈夫か?」
「いって……う、うん、ごめんイザード」
後ろから同じように瓦礫を飛び越えたテオが、軽く顎をつまんだ。
「……ここまで、濃度の高いエナジーを散々浴びてきたからね。そろそろ抑制器が追いついてこなくなったのかもしれない」
「タイムリミットが近い、か……確かに、少し空気が重苦しい感じはするな」
イザードが頷く。エリオットは息を吐き出し、顔を上げた。
「行こうぜ」
ここまで来て、諦めるわけにはいかない。
★☆
「キュウっ」
チコが立ち止まったのは、何か会議室のような一室の中だった。巨大な円卓が無残に横倒しになっていて、この場で壮絶な乱闘があったことを物語っている。煙とエナジーの気配は濃く、しかも死体の数はどこよりも多い――ここが爆発の中心地か。
その壁際にある、瓦礫の前でチコは止まったのだ。つまり「ここほれキュウキュウ」なのか。そういうことなのか。
「おいおい、嘘だろ。ここは議会が行われていた大会議室だぞ。仕掛けなんぞどこにも――」
「犯人は現場に戻るって言うじゃない? それにこの大統領府は、数百年前まだこの国が王政だった頃に王城として造られた建物だ。仕掛けの一つや二つ、残ってると思うよ」
テオが言いながら進み出る。元は王城なのか、だから敷地内に塔があったりやたら外観が豪勢だったりしたのか。
「俺が見たどの資料にも載っていない、秘密の空間――よくまあ、キースリーは見つけられたね。……いや、見つけて隠したのかもしれないな」
「感心していないで、お前もさっさと手伝わんか!」
イザードが瓦礫を持ち上げようと手をかけたので、テオが笑って手を振った。
「この大きさじゃ、四人でも無理でしょ。下がって下がって――『crush』」
「おわっ!?」
何の前触れもなしに発動したテオの術によって、巨大な瓦礫は木端微塵に吹き飛ばされた。傍にいたイザードは、半ば爆風に巻き込まれる形で飛びのく。イシュメルは転がってきた破片をひょいと避ける。
「き、貴様ぁ、私ごと吹き飛ばすつもりか!?」
「心外だな、ちゃんと『下がって』って言ったじゃない」
「忠告から実行までが早すぎるんだこの馬鹿者が!」
ここにきて緊張が途切れたのか、テオもイザードも普段通りだ。その方がいいのかもしれない。どうせ、この先で嫌でも緊張することになるのだから――。
瓦礫の裏側にあったのは、地下へ下る階段だった。平常には巧妙に隠されていたのだろうが、襲撃騒ぎでその仕掛けが解けたのだろう。どこへ続いているのか、一片の灯りさえ見えない。
テオが光源系魔装具を階下へ向けて掲げる。だいぶ距離がありそうだ。
「降りようか」
イシュメルが颯爽と階段を降りはじめる。左腕は剣の柄にかかったまま、一切気を緩めていない。
ほぼ垂直の階段をくだりきり、折り返してさらに下へ。次第に壁材が塗装された綺麗なものから、古めかしい石材に代わった。おそらくこれが、数百年前の遺構。歴史に何の興味のないエリオットでも、思わず過去に思いを馳せてしまうほど年季のあるものだ。
視界が開ける。階段が終わったようだ。
薄暗い空間。地下とは思えない広さと、天井の高さ。異様な雰囲気――肌がチリチリするくらいの、不自然な威圧感。
中央に鎮座している、巨大な兵器。黒一色で統一された、禍々しい砲台――あれが魔砲。間違いなく最大の魔装具のひとつだ。
そしてその前に佇む細身の男。見覚えがある、あれがキースリー。
さらに、キースリーを取り囲むように控えているのは、魔物。魔物化した人間たちだ。ずらっと、その数は軽く十を越えている。息をのんだエリオットの隣で、テオがいっそう表情を険しくした。
こちらに気付いたキースリーが振り返る。五十代も半ばであろう痩せこけた顔に、妙な笑みが浮かんでいる。両手を広げてこちらに歩み寄ってくる様は、親しげですらあった。
「やあ、テオドール。待っていたよ」
「ファーストネームで呼ばれるほど、貴方と親交を持った覚えはないんですけどね」
テオは不愉快そうだ。エリオットも同感である――何か気味が悪い。人間味がないといえばいいのだろうか。これだけの非道を行い、多数の人間を虐殺した。そしていま魔物を侍らせて微笑む神経――理解できない。
「私は君を尊敬しているし、親しみを持っているよ。何せ君は魔装具開発の第一人者。君がいなければ、この二十年でこれだけの発展は望めなかっただろう。君はベレスフォードの歴史に確実に名を残すはずだ」
対話を試みるテオを守るように、エリオットとイシュメルは左右に動く。魔物化した人々を警戒してのことだが、あれだけ本能的に襲ってきた魔物たちはぴくりとも動かなかった。キースリーが何らかの方法で従えているのだろうか。
テオは溜息をつき、話題をやや転換した。
「貴方ですよね。レナードに、その魔装具の開発を指示していたのは」
「その通り」
「ネルザーリの街で、人が魔物化する実験を行っていたのも?」
「私だよ。すべて私だ」
「……なぜ? そんなことをして何になるというんです?」
キースリーは笑う。以前は酷く陰気な人だと思ったが、このときの印象はまるで違う。悪戯を楽しむ子どものような、そんな顔。これが本性なのだろうか。
「テオドール、君は優れた魔装具技師であり、エナジー研究者だ。ならば一度でも考えたことはないかね、『魔物化とは進化である』と」
ぴくり、とテオが反応する。その言葉は、エリオットも何度か聞いた覚えがあった。ほかならぬ、テオの口から。
「動植物は多量のエナジーを浴びると、性質が変異する。一般にはその変異したものを魔物と呼んでいる。私たちはそれを『退化』と考えるが、本当にそうか? 魔物化することで、剣も魔術も通じにくい、強靭な肉体を得るのだ。進化以外の何物でもないだろう?」
「確かに強靭な肉体は得ることができる。しかし理性は失われ、本能のまま凶暴化するんです。人間の歴史は、高度な知能によって発展してきたんですよ。それを失うことの、どこが進化なんです?」
テオはかつての自分の言を真っ向から否定した。しかしキースリーの余裕な態度は崩れない。
「すべての存在が凶暴化するのかね? この場に、その例外が何体もいるではないか」
顎で示した先に、魔物化した人々が佇んでいる。
「ここにいる者たちは、心も体も魔物に馴染みきった精鋭たちだ。人だった頃の記憶はないが、人と同じだけの知能を持っている。だから私の言葉を解し、指示に従ってくれる。君たちの連れているその魔物の幼体も同じではないかね?」
視線を向けられたチコが、キュウと鳴いて全身の毛を逆立てた。確かに――チコは人語を理解している。敵味方の区別もついている。それは前々から分かっていたことだ。
「魔物の姿は醜いが、それは比較の問題。人類がすべて魔物化すれば、そんなことは些細な問題となるだろう」
「人類すべての魔物化――それが貴方の望みなのか」
テオの声が低くなる。明らかな怒気を含んでいた。ここまでテオがキースリーに対し敬語を用いてきたのは、心を冷静にしておくためだ。
「少し違うよ、テオドール。私の目的は『人々の救済』だ」
「馬鹿げたことを……」
「最後まで聞きたまえ。生物にはエナジーを取り込む限界値があり、その限界を超すことで魔物となる。そして致命傷を負うことで元の姿に戻り、それまで溜めこんだエナジー量もゼロに戻る。これは君も分かっているな?」
それまで体調を崩していたユリが、魔物化したことで健康になったように。一度限界を超えれば、すべてはリセットされるのだ。
「それはこの世界、私たちが生きる大地も同様だ。遥か昔から、この世界は多量のエナジーを生み出し、そして還元していた。そう遠くない未来に世界も限界を迎える。そうなれば――高濃度のエナジーが蔓延する、とても生物の生きられるような環境ではなくなってしまうだろう」
「……!」
「それを防ぐのだ。この砲撃型魔装具で、人為的に多量のエナジーを噴出させる。一気に『世界の魔物化』が進むが、同時に人類も魔物化する。魔物の肉体であれば、人類も高濃度エナジーの環境下での生存が可能だ。人と同じ知能を持つのだから、文明はまた築ける。何も問題はない」
魔砲は、兵器などではない。キースリーなりの、人々を救う装置だというのか。
だが、だとしても――。
「……一理ある」
「お、おい、テオ」
ぽつりと頷いたテオに、イザードが眉をしかめる。しかしテオもそれだけで終わらない。
「理解はした。考え直せとは言わない。けど、納得もしない」
「ほう?」
「世界がどうのこうの言われても、俺にはさっぱり実感が湧かない」
「では君はなぜ私を阻止しようとするのかね?」
テオは微笑んだ。怒りも動揺も鎮めて、落ち着いた表情だ。
「人を魔物化させたくない。あとにも先にも、俺の意志はこれだけだ」
――そうだ。テオは最初から一貫していた。キースリーの目的を聞いても、なんら揺らがない。
「随分と自己中心的な考え方だね。人間は散々、他の動植物を魔物化させてきたというのに」
「確かにそうだ。でも、人間ってそんなものでしょ? 魔装具を生み出し、多用した人間の業は、一生背負っていくものだ。俺もそれに関わった者として、覚悟はしている。けど、それとこれとは別――断言できる、貴方のやり方では誰も幸せになれないと」
「理由は?」
「魔物化して幸せだった人なんてひとりもいなかったからだ。この先も、きっと」
テオは身構えた。攻撃系魔装具は装備していない。彼自身の魔術で、戦うつもりだ。
「別の方法を見つけるよ。安心して生きられるために」
「十五年以上隠遁していた君が、今更かね?」
「今更だからこそ。『世界に優しく』――それが口癖だった、カーシュナーのために。遅くなったけど、気持ちが大事なんだ。きっと、カーシュナーはそう言う」
カーシュナーは、優しい人だったのだ。他人に親切とか、そういうことじゃない。もっと大きな意味で、優しい人だったのだと思う。その優しさをテオに託して、カーシュナーは死んだ。テオにとってキースリーを止めることは、絶対の使命だ。キースリーのやり方は、世界に優しくないから。
テオの隣で、エリオットもじりじりと前進する。イシュメルとイザードとチコも臨戦態勢だ。敵意を感じたか、魔物たちも、ゆらりと動き出す。
「できるかね? 君が忌避していた、魔物化した人間を相手に」
「それが、俺のやるべきことだから――」
テオのその言葉が終わると同時に、魔物が二体同時に飛び掛かってきた。その動き、確かに先程相手にした魔物とは格が違う。統率のとれた、戦いを知っている動き――。
その魔物は何かを手に持っていた。エリオットは一撃を避けながら、至近距離に来たその物体を見て目を見張った。
それは剣――ひょろ長い魔物が持つと玩具のように見えるが、れっきとした長剣だ。
「ま、さか……こいつら、元は傭兵……!?」
「よく気が付いた。さすが傭兵は、魔物となっても格が違う」
愉悦の表情で、キースリーが頷く。
行き場を失い、藁にも縋る思いでキースリーに従った傭兵たちを。キースリーを信じて、彼の剣となった傭兵たちを。
ぶつり、とエリオットの頭の奥で何かが切れた気がした。
「――貴様ぁッ!」
力の加減はしなかった。そんなことをすれば、こちらがやられる。
腹の一突きでも魔物は倒れなかったが、横手からイシュメルが一太刀浴びせたことで魔物は人に戻った。すかさずテオが癒すが、その時にはもう次の相手が襲ってきている。死体の山を築き上げるのは簡単だ。だがエリオットたちは、それよりはるかに難しい戦いを強いられていた。
「知っているか。古代には魔装具という媒体を使わず、エナジーによる魔術を行使できた人間がごろごろいたそうだ。テオドール、君のように。おそらく君の家系は、細々とその時代から能力を守り続けていたのだろう。自覚があったかは知らんがね」
エリオットの耳に、キースリーの声が飛び込んでくる。
「彼らがどんな末路を辿ったのか教えてやろう。エナジーを行使し続けた者たちは、等しく魔物化した! 君はどうなのかね、テオドール!?」
エリオットの動揺は一瞬だった。けれど戦いの中で一瞬の気の緩みは致命的だ。振り下ろされた魔物の腕を斬りあげ、飛び退く。
魔術を使って魔物化する人が続出したから、昔の人々は魔術を手放したのだろうか。数十年前までエナジーは危険なものだと伝わっていたのは、先人たちがその危険を知って、過ちを繰り返さないための戒めとして伝えたからだろうか。だとすれば、その教えを無視してエナジーをエネルギーとして利用したのは、やはり間違いだったのか。
テオは何も言わない。事実なのか――?
そう思ったとき、前方で光が発生した。思わず目を閉じてしまうほどの強い光だ。キースリー、いやその後ろの魔砲が光を放っていた。
淡い、緑の光。――エナジーだ。
「ぐッ!?」
途端に、呼吸が苦しくなる。テオの作った抑制器以上のエナジーが充満して、処理能力を上回ったか。いや――限界など、とうの昔に過ぎていた。
よろめきながら後退するエリオットと対照的に、目の前の魔物は雄叫びを放った。彼らにとってエナジーは動力源、さらなる力のもとだ。
「そこの傭兵、かなりエナジーに蝕まれていると見える。一思いに楽にしてくれよう」
キースリーの声が自分に向けられていると、エリオットは気付く。慌てて剣を構える。緑の光が一直線にこちらへ飛んでくる。
あれを浴びたら、多分、一貫の終わり――。
どん、と横から衝撃が来た。訳も分からずエリオットは床に倒れ込む。一転して起き上がると、エリオットを突き飛ばしてテオがエナジーを受け止めているではないか。
何で? 素手で。
「テオッ……!?」
「大丈夫」
エナジーを受け止めていたのはテオの左腕だった。
無事のはずがない。超高濃度エナジーの恐ろしさは、何度も体験してきたのだ。テオのもとに駆け寄り、光が消えた後の彼の腕を引っ掴む。
そこにあったのは、本来ならばあり得ないものだった。
「な……!?」
傷はない。ただ衣服は無事でなかったようで、直撃を受けた二の腕の部分の裾は切れてしまっていた。
その下にあったテオの腕の皮膚は――人間のものではなかったのだ。
赤黒い肌。日焼けとか火傷とか、そんな程度のものではない。
その肌は、いま目の前にいる魔物たちと同じ色をしているではないか。
「……言ったでしょ。俺はエナジーに対して、耐性以上の抗体みたいなものを持ってるって」
テオはなんてことはないように、エリオットを諭す。
「キースリーの説明は正しいよ。俺の左腕は、もう魔物化しているんだ」
「どう、して……」
「症状が出たのは何年も前だ。でもどういうわけか、左腕だけで症状の進行は止まったみたいでね。おかげでこの部分でだけなら、エナジー攻撃を食らってもなんともない」
知らなかった。半年以上一緒にいて、何も気づかなかった。いや、そんなのはおかしい。テオだって夏には半袖の服を着る。こんな、左腕が魔物化しているなど、見れば気付くはずなのに――。
「普段はね、普通の肌の色をしているんだ。濃いエナジーに触れたときだけ、特徴が出る。……ごめんね、隠していたわけじゃないんだけど」
「なんでそんな……なんでもないみたいに……!」
「なんでもないんだよ。使えるものは何でも使う、俺はそういう人間だ。それに、特に不自由もないんだ。むしろ役に立ってる。今みたいに君を助けることもできるし……」
テオは腕を前方へ掲げた。彼の周りで、突風が巻き起こる。
特大の魔術が、来る。
「魔物は、エナジーを浴びれば浴びるほど強大化する――『gale』!」
その術は、見た覚えがあった。風を操る、テオの十八番。強烈な真空破を見舞う術だが、今回のそれは桁違いの威力だった。
何せ、その一撃で残っていた魔物十体以上を一度に人間に戻してしまったのだ。これにはイシュメルもイザードもぽかんとするしかない。背の高い魔物たちで視界が遮られていたが、彼らが倒れたおかげでキースリーを真正面に捉えることができた。
「なかなかどうして、君は強いな」
感心したようにキースリーが呟く。ようやくこれでキースリー本人を相手にできる――しかし、実際はそう甘くはなかった。
魔砲のある場所のさらに奥から、またしても複数の魔物が現れたのだ。エリオットが舌打ちをする。
「キリがない!」
テオとて、そう何度も魔術を連発はできない。早めにキースリーをなんとかしなければ。
魔砲が再び起動する。あの眩い緑の光が満ちていく。またあの衝撃が来るのかとエリオットが身構え、テオが庇うために前に出る。
しかし、魔砲の光は途中で消えてしまった。キースリーもこれには驚いた様子で、魔砲を振り返った。
「これは……」
「なるほど。劇団『エース』がやってくれたってことだね」
その言葉で、エリオットははっと顔を上げた。セイラたち劇団が、エリオットらに代わって残りの源泉を止めに行ってくれたのだ。いまこの瞬間、すべての源泉の装置が機能停止した。魔法の弱体化も、これで成った。エリオットを苦しめたエナジー攻撃も、これでこない。人類すべてを魔物化する計画も、とにかくこのときは阻止できた。
キースリーはそれでもまだ余裕があった。奥の手があるのか。
「過小評価してもらっては困るよ。各地の源泉とのネットワークは、あくまで『威力増強』のためのもの。単独でも、それなりの威力は出せる――」
一度は弱まった光が、再び強くなった。テオが身の危険を感じて結界を張ったのと、光が弾けるのはほぼ同時だった。
ドーム型の結界に守られたエリオットたちは無事だったが、周囲は白煙に覆われていた。煙が張れて視界が利くようになって、テオは結界を解く。
魔砲はそのままそこにあった。魔物たちもゆらゆらと佇んでいる。
ただ違うのは、キースリーがいた場所に、人間ではなく魔物がいたこと。
「まさか、キースリーも魔物化した……?」
「……愚かな男だ」
テオが呟く。魔砲を操作して魔物を凶暴化させる者はいなくなったが、状況はあまりよくない。魔物たちは統率を保ったまま、じりじりと近づいてくる。
と、イシュメルが前に出た。
「テオ、エリオット。周りの奴らは私たちに任せ、お前たちはキースリーを止めろ」
「イシュメル……!」
「奴らは統率を保っている。まだキースリーが指揮をしているということだろう。奴を止めねば、彼らは止まらん」
つまりイシュメルとイザードは、多数の魔物を相手にしながら傷つけず殺さずの戦いをするというのだ。彼らはキースリーの非道の被害者。きちんと人の姿に戻してやらなければならない。そのためにはテオの治癒術が不可欠だ。
キースリーを倒すまで、イシュメルたちが時間を稼いでくれる。
「……頼みます!」
テオが答えるより先に、エリオットが頷いた。テオの腕を引っ掴み、魔物たちの間をすり抜けて包囲から抜け出す。それを見送り、背を預けあったイシュメルとイザードが武器を構える。
「できるか、イザード」
「ちときついな」
「ふっ、泣き言を言うな。それでも警備軍か」
「うっさいわ」
状況は不利なのに、ふたりとも憎まれ口をたたき合う余裕くらいはあった。年長者は、これしきで動揺しないのである。
キースリーの前まで飛び出したエリオットが剣を構える。少し後ろに待機したテオが指示を出した。
「今までと同じだ。致命ギリギリの一撃を」
ちらりとエリオットはテオを振り返る。――殺さなくていいのか。視線だけでそう問いかけると、テオは苦笑を浮かべた。
「この大惨事の責任を取ってもらわないといけないからね。そう簡単に死んでもらっちゃ困るよ」
「それもそうか」
「おっかないね、君。殺せって言ったら殺せるんだろ」
「その必要があるなら」
エリオットは傭兵だ。幾度も死線は潜り抜けた。テオより余程、戦いに慣れている。どこを斬れば敵が死ぬのか、熟知しているのだ。
しかしテオがやめろというのなら、殺さない。正直、腸は煮えくり返っているが仕方がない。
息が苦しいのは、連戦のせいか。それとも限界が近いのか。
これだけ戦えば、エリオットも魔物化した人々の対処にも慣れた。振り下ろされる腕を避けて懐に飛び込み、突きを入れる。これがしぶとい。エナジーが充満していることもあって、痛覚が鈍っているようだ。剣を突き入れてもびくともしない。
剣を引き抜き、エリオットは傷口と全く同じ場所に蹴りを叩きこんだ。これにはキースリーも怯む。もう一撃叩きこんだところで、キースリーは人の姿を取り戻した。
さすがというべきなのか、キースリーは意識を失っていなかった。だが話すのが精いっぱいのようだ。テオが治癒術をかけたが、死なない程度の処置である。拘束しておくためにも、そのくらいに留めたのだろう。
「――あ、甘いのではないか、テオドール……?」
息も絶え絶えのキースリーが、テオを見上げる。テオは魔砲に歩み寄りながら言う。
「後になってみれば、あの時に死んでいればよかったと思うかもしれませんよ」
一体キースリーにこのあと何をさせるつもりなのか、この男は。
魔砲の操作盤を立ち上げたテオは、迷いなくキーを叩いていく。技術者というのは初めて見る機械でも簡単に動かせるものなのか。いや、そんなはずはない。
しばらくして、魔砲が停止した。うるさいくらいだった稼働音も止み、絶え間なく吹き出ていたエナジーも消えた。そのおかげか、エリオットも少々身体が楽になった気がする。
イシュメルたちが相手をしていた魔物たちも、動きが鈍ったようだ。しかし魔物の数が多いことに変わりはない。急いで加勢に入らねば、イシュメルたちが倒れてしまう。
「! く、はッ……!?」
身体が楽になったのは、僅かな間のことだったようだ。ずしりと重みが来て、エリオットは床に膝をついてしまう。
そのときに懐から懐中時計が滑り落ち、床の上に転がった。時計の針は、前に見たときから六十分進められていた。
(限界、か……)
「エリオット! 大丈夫!?」
テオが駆け寄ってきて支え起こす。エリオットは頷き、顔を上げた。
「テオ……さっきの魔術、また使えないか」
「え?」
「イシュメルたちを助けてやってくれ。みんなを、元に戻して……」
するとテオは首を振った。
「駄目だ。君がもうそんな状況なのに、俺がこれ以上強い魔術を使ったら……!」
「いいから! 早くしろ、まだ抑制器が効いているうちに……!」
強い語調にテオは気圧されたようだ。少し躊躇った後、立ち上がって駆け出していく。それを見送って、エリオットは目を閉じた。
母たちはみんな無事だった。
キースリーを倒せた。
魔砲を止められた。
魔物化した人たちを元に戻せた。
やるべきことは終わったのだ。
身体が重い。調子が悪くても目くらいは開けられたのに、今はそれすら億劫で仕方がない。音という音が聞こえなくて、ただ自分の呼吸音だけが響く。
――ああ、まだ生きている。まだ、俺は人だ。
魔物になるのは、どんな感覚なのだろう。剣で斬られるのは、魔術でえぐられるのはどんな感覚なのだろう。痛いのだろう。もしかして、魔物化すればそんなことも感じないのか。
魔物化した傭兵たちは、かなりの手練れだった。理性がなくなれば、テオたちを傷つけてしまう。優しい彼らは、きっとエリオットを傷つけることができない。
(いまここで、一思いに――)
多分、そうすれば俺もテオたちも苦しくない。
俺のやることは、終わった。
自分の始末は、自分で――。
「こら、エリオット。何してるの」
そんな声が聞こえて、エリオットは目を開ける。おぼろげな視界の中に、ぼんやりと浮かぶシルエット。分かる、テオだ。イシュメルとイザードも、傍にいるのが分かる。
握っていた剣を、あっさりとテオに取り上げられる。今まさに、その剣で腹を割こうと思っていたのに、呆気ないものだ。
「やることが終わった? 馬鹿なこと言うな。君が生きて帰らなきゃ、何の意味もないんだよ。君の帰りを待つ人が、何人いると思ってる? 君は知っているでしょ、大切な人を失った時の辛さを――同じ想いを、みんなに味あわせるつもりかい?」
テオはエリオットを支え起こして、壁に寄りかからせて座らせる。
みんなぼろぼろだ。ここまでずっと、戦い続けてきた。誰もが限界のはずなのに、この上エリオットの始末まで任せなくてはいけない。それが申し訳なくて――辛くて仕方がない。
自然と、涙がこぼれた。それを拭おうと手を持ち上げる。その手が鼓動に合わせ明滅を繰り返しているのを見て、エリオットはぱたりと手を下ろした。
「お前は少し、他人を頼ることを覚えたほうがいいな」
「イザードの言うとおりだ。師が弟子を見捨てるなど、あってはならぬことだ」
イザードとイシュメルも、そう言って頷く。テオは微笑んだ――気配がした。
「君がいないと、万屋の仕事が回らないんだ。頼むよ、エリオット」
乾いた笑いが、自分の口から洩れた。
「……ほん、と……人使いの、荒……」
意識が遠くなる。そしてまた、僅かに鮮明になる。それを何度も繰り返した。
強靭な意志がそうさせるのか、エリオットはそう簡単に魔物化をしない。だが、だからこそ苦痛は長引いた。
魔物化が近いのは分かる。しかし踏みとどまる。これまでに何度も、魔物化した人々を見てきたから。自分もああなってしまうのかと恐れた。
なにか手元で音がした。胡乱気にそちらを見やると、テオからもらった抑制魔装具が、粉々に砕けていた。テオが踏み潰したわけでも、落として割れたわけでもない。負荷に耐え切れず、ひとりでに壊れてしまったのだ。
死ぬのか、俺は。
(死にたく、ない……)
死んでもいい、死ぬ覚悟はしている。そんなことを口では言いながら、実際はこんなものだ。
そういえば、テオと初めて出会ったときも、こんな状況だった気がする。弱ったエリオットを、テオが助けてくれた。「助けて」と、無様に縋って。
「ごめん……先に、謝っておく……俺、あんたたちを……傷つける、かも」
「はは、気にすることじゃないよ。今まで散々鬱憤も溜まってたでしょ? いいストレス発散かもよ」
「貴様がエリオットに散々負担をかけておいて、何を言うか」
イザードが軽口をたたく。テオも苦笑していた。
また意識が遠のく。
聞こえていたテオたちの声が聞こえない。白っぽかった視界も、どんどん暗くなっていく。
これはもう、戻れないタイプの意識の遠のき方だ。
『大丈夫、ちゃんと助けるから――手荒にするよ、ごめんね』
テオの声が遠くから聞こえてくる。
意識が完全に遮断された。




