File twenty-four 奪還作戦開始です。
大丈夫、みんなで勝つ。
★☆
平穏によく似た仮初の休息の時が破られたのは、それから丸二日後のことだった。
この間ヨシュアとイアンは下町奪還のための打ち合わせにかかりきりで、殆ど顔を見ていない。テオとイザードも、大統領府への侵入経路をああでもない、こうでもないと考えあぐねている。イシュメルは繁華街のほう、時には上流階級区にまで偵察に行っていた。おかげで傭兵の層の薄い場所、厚い場所が徐々に絞り込めてきている。
ベッドから起き上がれないほど疲労したのは魔装具の効果が切れたその時だけで、次に目が覚めたときにはもうエリオットも活力を取り戻していた。明らかに以前より体調が悪いのは自分でも分かる。潜入の時にしっかり戦わねばならないので、もう意地を張らずにリオノーラとオースティン伯爵の看護を受けていた。なんと食事の用意をしてくれたのは大統領アレクシスで、政界で頭角を現すより前はどん底の貧困を味わったことがあるらしい。その時の経験から自炊は得意なのだとか。意外すぎる。
昼食も何とか腹に収めて、エリオットはぼんやりと自室の天井を見つめていた。腹の上ではチコが丸まって寝ている。それもこれももう見飽きた風景だ。身体は疲れているのに、目を閉じても眠れそうにない。周りは妙に静かで、窓の外から小鳥のさえずりすら聞こえてくる始末だ。実は魔物化もキースリーのクーデターも、起きてなどいないのではないか――そんな風に錯覚してしまいそうなほど、穏やかな昼下がりだ。
と、突如大きな物音がした。驚いて顔をあげる。どうやらリビングのほうからだ。チコもまた飛び起きて、キュウキュウとエリオットに擦り寄ってくる。
チコを抱えて廊下に出てみると、やはりリビングのほうから話し声がする。そちらへ行くと、イアンが帰ってきていた。先程の音はイアンが扉を開けたときのものらしい。だが余程強く開け放たなければ、あんな音はしないはずなのだが。
「何かあったのか?」
「! エリオット」
テオが気付いて振り返る。少々情けなく思いながら、エリオットは手近にあった食卓の椅子に腰を下ろす。テオたちの様子では、彼らもまだ何が起こっているのか分かっていないらしい。
その情報をもたらしたのはイアンだ。
「大変なんです。傭兵が下町の住人たちを連れ去ろうとしています!」
「ど、どういうこと……?」
リオノーラが不安げに眉根を寄せる。
「突然、市場にいた人たちを無差別に拘束したようなんです」
「これは……何か『足りないから補充した』感が満載だね」
顎に手を当ててテオが呟く。イザードが表情を引き攣らせた。
「な、何が『足りない』というんだ……?」
「さあね? ……けど、黙って見過ごすわけにもいかないか。うまく行けば、既に連れ去られた人たちがどこで何をしているのかが分かるかもしれない」
「――ええ、その通りです」
テオの声に賛同したのはヨシュアだった。少し遅れて万屋の店内に入ってきたヨシュアは、まるで悪戯を仕掛ける前の悪童のような表情をしている。楽しそうというか、生き生きしているというか。
「今なら傭兵たちが一か所に集まっています。叩くには絶好の機会です」
「そっちの準備はできているの?」
「なんとかね。物わかりのいい人たちばかりで助かりました」
「そっか……じゃあ、やるしかないね」
テオの赤い瞳も、何やら妖しげに光る。波長が同じこのふたりが揃っていると、妙な寒気を感じて仕方がない。
テオはこちらを振り返った。
「エリオット、イザード、イシュメルさん、それからチコ。予定は狂ったけど、出かけるよ。支度して」
「い、今からか!?」
「ヨシュアくんたちが下町の傭兵を一網打尽にする、俺たちはその混乱に乗じて大統領府に侵入するんだ。ほら急いで」
それを聞いてイザードはバタバタと荷物を漁り始めた。常日頃から何が起きても良いように装備は整えているが、それにも限度がある。特にイザードは使用回数の限られた銃を使う。予備が色々と必要なのだ。
エリオットも一度部屋に戻り、剣を手に戻ってくる。と、そこで待っていたテオが何かをエリオットに差し出した。
「エリオット、これを」
「ああ」
それはテオ特製のエナジー抑制器。最後の一つを、整備したいとかでエリオットはテオに返していたのだ。そこにある金具を引き抜けば、エリオットはまたしばらくの間戦う力を得ることができる。
「少し改良して、三時間程度はもつようにした。それでも十分な時間とは言えないから、迅速に行動しないとね」
「……ありがとな。いろいろ忙しいだろうに、俺のために」
「やだなあ、何を今さら気持ち悪い。男から面と向かって礼を言われても、俺そんなに嬉しくないよ?」
「おい、俺の感謝の気持ち返せ」
半眼でテオを睨み付けると、準備を終えたイザードとイシュメルが玄関まで戻ってきた。エリオットはイシュメルの姿を見て「あっ」と声をあげる。
「髪、結ったんですね」
「だいぶ長くなってきたからな。こちらのほうが、気持ちが引き締まる感じがする」
ジェイク傭兵団が壊滅したその時、右腕と共にばっさり失われたイシュメルの髪の毛。この二か月近くで、彼の髪は少しずつ伸びていた。結ってみれば、さすがに以前と同じだけの長さはなくとも、シルエットは完璧に『ジェイク傭兵団副長イシュメル』だ。かつて双刀使いとして憧れを集めた、傭兵団のブレーンの姿だった。右腕と右の剣を失っても、それは変わらない。
エリオットは掌の中の魔装具に視線を落とした。それからテオが頷いたのを見て、一気に金具を引き抜く。また、あの水中をもがくような感覚がエリオットを襲う。これは何度やっても慣れそうにない。
やっと息を整えたところで、エリオットは顔を上げた。身体は軽い。これから三時間で、すべての決着をつけなければいけない。
「お兄様……」
リオノーラがおずおずと近づいてくる。エリオットは振り返り、妹の頭を撫でた。
「母さんを助けて、帰ってくるからな。待っててくれ」
「うん……絶対だよ」
兄を見つめて、リオノーラは頷いた。いい子だ、とエリオットが微笑む隣で、テオはアレクシスに声をかけた。
「こちらのことはヨシュアくんに任せてあります。閣下の出番は市街地戦のとき――その時が来たら、ヨシュアくんが的確な指示を出してくれるでしょう」
「分かった。……イザード・シェルヴィー治安維持隊隊長。キースリーの捕縛を任ずる。やむを得ぬ場合は構わぬ、討ち取れ」
「了解であります」
「イシュメル、彼らのことを守ってやれ」
父親の願いを聞いたイシュメルが「無論」と短く返答をする。イシュメルは己に、皆の盾であることを課しているように思える。彼にとってはそれは、当然のことなのだろう。
オースティン伯爵がエリオットの前まで歩み出た。
「エリオット。一度失ったと思っていたお前がこうして生きていてくれた。……二度目は、耐えられぬ。必ず生きて戻ってきてくれ」
「はい。……行ってきます」
その言葉を口にしたのはひどく久々な気がした。家族に見送られて、エリオットは万屋を出る。路上に仁王立ちしたテオは、目線を北へと向ける。遠くに飛び出て見える、ひときわ高い建造物――あれが大統領府。
「さあ行こう。目指すは大統領府、キースリーのもとだ」
★☆
下町の広場には大勢の人間が集められていた。数はおよそ二十人ほど。すべて市場にいたところを傭兵に捕らわれた者たちだ。老若男女を問わず、この広場に集められた。そしてこの後、またどこか別の場所に連れて行かれるらしい。
先日連れ去られた下町の住民の中で、帰ってきた者はいない。そのことが余計に住民の不安を煽り、幼い子供や女たちは泣き出してしまう。男たちはなんとか隙を突いて逃げられないかと模索するが、周りは多数の傭兵が囲んでいる。彼らの持つ剣は、一般人からすれば凶悪な武器。卓越した剣技も嫌というほど見た。その恐怖が男たちを消極的にさせていた。
傭兵たちが近付いてくる。ついにどこかへ移動するのだ。僅かに期待していた助けもなく、絶望に沈む。中には死を覚悟した者もいたかもしれない。
そのような状況で聞こえたその声は、まさに天の声だっただろう。
「――おや、こんなところで何の集会ですか? 随分と物々しいではありませんか」
「だ、誰だ!?」
傭兵たちが驚いて振り返る。彼らは様々な理由で驚愕していた。まず、自分たちに悠々と声をかけてくる者がいたこと。そして、背後を取られたことに気付かなかったことだ。それだけで彼らは、声の主が只者ではないと気付いたかもしれない。
広場の入り口に佇んでいたのは、何の変哲もない細身の若い男だった。言わずと知れたヨシュアである。暗殺をも請け負うヨシュアにとって、気配を消すことなど造作もない。下手をすればエリオットでも気付かないだろう。
「非武装の一般人に剣を突きつける――野蛮ですね。もはやどこぞの蛮族でしょうか」
「貴様……俺たちはキースリーって偉い奴から直々に指示を受けているんだ。逆らうと、ろくなことねぇぜ?」
「脅しでしょうか? 残念ながら、下町の住人をひっとらえる程度のことしか命じられなかった貴方がた『下っ端』が何を言ったところで、私には効果がありませんよ」
わざと強調した『下っ端』という言葉は、彼らの自尊心を手酷く傷つけていた。下っ端の自覚は、誰よりも彼らが持っていたものだ。ヨシュアはその心理を的確についていた。
おそらく傭兵たちは、捕えた下町の住民たちを人質に取れば良かったのだろう――そうなれば、さすがにヨシュアも軽々しく動けない。けれど血が昇った傭兵たちは、そんなことを考える暇さえなかったようだ。
「殺してしまえ!」
「そうやってすぐに武力に頼る。キースリーも性質の悪い傭兵ばかりを集めたものですね」
呟いたヨシュアに向けて、傭兵たちが剣を抜いて猛然と距離を詰めてきた。ヨシュアは逃げるそぶりも見せない。
と、唐突にヨシュアは懐に手を入れた。引き出された右手に握られていたのは、銃型の攻撃系魔装具である。抜きざまに安全装置を下ろして、続けざまに発砲する。青いエネルギー弾が発射され、至近距離から撃たれた前衛の傭兵たちが、悲鳴を上げて倒れていく。麻痺弾であった。特に狙いを定めずとも、身体のどこかに当たれば即効する代物だ。護身用として、民間にも出回っている。
経験上、エリオットとイシュメルを凌ぐ傭兵はそうそういないとヨシュアは踏んでいる。そんな彼らでさえ魔装具には不慣れで、遠距離から攻撃されれば手こずるという。ならば数だけ揃えたような傭兵たち相手では、護身用の魔装具も強力な武器になる。誰であろうと、初見の攻撃に慣れるには時間がかかるはずだ。
今の銃撃で、十人程度は削れた。傭兵たちも、十発も見ればさすがに防御や回避を覚える。潮時を悟って、ヨシュアは身を翻した。そして一目散に広場から駆け出していく。傭兵たちは逃げたヨシュアを追う。倒れた仲間も、捕えていた住民たちさえも放り出して、である。
広場に残ったのは十人ほどの気を失った傭兵たちと、捕らわれた住民たちだけだった。思わぬことに唖然とする住民たちの前に、広場の脇からひとりの少年が駆け込んできた。イアンである。
「みなさん、無事ですか!?」
息の切れた声で、イアンは無事を確かめる。その言葉で、住民たちは「助かった」ということをようやく実感できただろう。誰もが安堵の表情で頷き、無事を喜び合う。イアンもまたほっとした様子で胸をなでおろす。
「良かった」
「イアンくん、何がどうなっているんだい? さっきの男は……」
顔見知りの女性が問いかける。イアンは微笑んだ。
「大丈夫、あの人は味方です。……僕たちは、下町を傭兵の手から解放しようと動いているんです」
おお、と住民たちの間で歓喜の声があがる。その中でも若い男衆が名乗りを上げた。
「俺も、俺もやるぞ!」
「そうだ、イアンが戦ってくれているんだ、俺たちも!」
「一緒に行かせてくれ!」
ヨシュアは最初から、こうして申し出てくれる人間を想像していた。まさしくその通りの展開になって、イアンは内心で舌を巻いている。だが――戦力も少ない今では、心強い。
「ありがとう、お願いします。手始めにまず……ヨシュアさんが倒してくれた傭兵を縛り上げておきましょう」
そう、イアンはそのために、ヨシュアがいなくなったあとの広場にやってきたのだ。男たちがおうと頷きながら、イアンが持参したロープを使ってまとめて傭兵たちを拘束する。武器もしっかり没収した。
本来イアンは荒事を好まない――武器らしい武器も使ったことがない。多分、そんなものを持ったらそれだけで震えてしまう。死をこんなに近く感じたことも、人を拘束することも、勿論初めてだった。
それでも躊躇う暇はない。躊躇えば次の犠牲者が生まれ、せっかく陽動を一人買って出てくれたヨシュアの行動が無駄になる。何より、テオやエリオット、リオノーラと過ごしたこの街を取り戻したい。今だけ、今だけは躊躇うまいと心に決めた。でなければ、最初からこの作戦に参加するものか。
父コールマン男爵と、義理の母の安否は知れない。学校の友人たちも、どうなったか分からない。イアンは生き延びねばならなかった。せめて、目の前にいる人たちと助け合いながら。それが、今の自分にできることだと信じて。
市場の大通りを除けば、下町の路地はどこも狭い。せいぜいふたり並べる程度だ。ヨシュアは軽快にその路地を駆けていくが、それを追う傭兵は二十人近くいる。しかも今のところ分岐路もないわけで、飛び道具を持たない傭兵たちは大人数で狭い路地を駆けていくしかなかった。
「やあ、よくついてきますね」
走りながらちらりと後方を振り返ったヨシュアが苦笑を浮かべる。それもそうだろう、単純な体力は傭兵たちのほうが断然あるはずだ。
次第に傭兵たちの列が縦に伸びてきた。持久力のある者、足の速い者が前に出て、そうでない者が後ろに下がったのだ。
――縦に伸びた隊列は、横からの不意打ちによる分断に弱い。
突如として、隊列の中程にいた傭兵たちの足元に縄が出現した。路上の砂の下に、巧妙に縄が隠されていたのだ。それを両側からふたりの人間が持ち上げてぴんと張った、それだけだ。だがこれが効果的だった。縄に足を引っかけた傭兵たちが転び、後続の者たちが止まりきれずに巻き込まれる。あっという間に路地では玉突き事故が発生した。
二重三重に折り重なって、なんとか起き上がろうとする傭兵たちに、さらなる追撃が行われた。住宅の屋根の上に待機していた人間が、上空へ銃型の魔装具を向ける。撃ちだされたのはエナジー弾ではなく、漁などで使われる投網のようなものであった。
地上へ落下しながら網が広がる。文字通り『一網打尽』にされた傭兵たちは、網の中でがんじがらめだ。その光景を見下ろして、屋根の上にいた青年が笑った。
「ちょろいぜ。よし地上班、そいつらを捕まえるぞ!」
その声に応じて、住宅の中や庭に隠れていた住民たちが現れる。
屋根の上で指示を出したのはグレンだった。下町のリーダーの息子である彼は、父親に代わり奪還作戦に名乗りを上げたのだ。以前に巨匠ブルーノの見送りや地域別体育大会でその人柄を知ったエリオットが、直々にお願いに行ったところ快諾してくれたわけである。若く人望のある彼が声を上げたことで、追従した面々も多い。
グレンはヨシュアと残りの傭兵たちが駆け去った方向を見やる。屋根の上からでも姿は見えなかった。
「あとは頼むぜ、みんな」
ヨシュアを追う傭兵たちの数は、グレンたちのおかげでさらに半減した。繁華街の方へ逃げているため、段々と道幅も広くなり分岐路も増えていく。傭兵たちも二手、三手に別れて行動を開始した。様々な方向からヨシュアを追い詰めようという算段だ。
だが甘い。彼らはこの下町の地理を知らないのだ。彼らが選んだ分岐路は、最終的にひとつの場所へ合流する。そこへ至る道は、どこも急な上り坂であった。
合流地点には当然のこと、下町の勇士が待機していた。率いているのはハワード――地域別体育大会で東組をまとめた、あの熱い熱い組長だ。テオはその暑苦しさに辟易していたものの、彼の恵まれた体格と団結力は稀有なものだった。そして仁義に篤いハワードも、快く協力してくれた。
「今日この日を俺は待っていたぞ! 下町を奴らの好きにはさせんぞぉ!」
「よっ、ハワード組長!」
「せっかくエリオットとカーシュナーが頼ってくれたのだ! 体育大会の団結を再び見せつけようではないか!」
いまハワードとこの場にいるのは、全員が東組の人間たちだ。暑苦しいことこの上ない。東組カラーであった『青い鳥』色のハチマキを締めて、やる気満々だ。
合流地点となっている開けた場所には、下り坂が三つある。予定通りならばヨシュアは真ん中の坂を上ってくるはずだ。
と、見張り役についていた若者が声を上げた。
「組長! ヨシュアさん、来ました!」
「よし! では行かん!」
ハワードらのすぐ傍に、数本の巨大な丸太が鎮座していた。この日のため、急いで集めたものだ。ハワードは自分の背丈よりも大きなそれを軽々一人で持ち上げる。そしてその丸太を――。
「ていっ」
ヨシュアが上ってくるという坂道に放り投げたのである。
ごろごろと坂道を下る丸太。サイズは道幅にジャストフィット。回転をかけてどんどん加速しながら、丸太は坂道を下っていく。さらに追加でもう二、三本放り込めば任務完了だ。
坂の上から丸太が転がってくる。その愉快な光景に思わず微笑んだヨシュアは、ぎりぎりまで己の背中で丸太の存在を後続の傭兵たちに隠した。そして軽々と跳躍し、ヨシュアはひとり丸太を飛び越える。
ヨシュアの背中で見えなかった丸太を傭兵たちが認識したとき、既に取り返しのつかない地点まで丸太は肉薄していた。剣を抜く暇すらなく、丸太は傭兵たちに突撃した。それでも勢いの止まらない丸太は傭兵たちを巻き込み、さらに坂を下る。
結局坂の開始地点まで押し戻されてしまったところを、そこにも待機していた住民たちが拘束してしまう。なんとも呆気ない勝利だ。
分岐路を進んでいた傭兵たちも、ハワードらから同じように丸太を放り込まれ同じ結末を辿った。大部分の傭兵たちは、こうして捕獲されたのである。
このとき下町の傭兵は、全員が捕獲されたわけではない。数人の傭兵は下町を巡回中であった。騒ぎに気付いた彼らが仲間たちに合流できれば、もう少し違った結末があったかもしれない。
だがそうできなかったのには、勿論理由がある。
騒ぎを聞きつけて合流しようと動き出した彼らの前に、ひとりの男が立ちはだかったのだ。
高く結い上げられた白髪。切れ長の険しい眼差し。衣服の下に隠された引き締まった筋肉。肩に担いだ大剣――。
「ふん。まったくどうして、エリオットも厄介な役回りを押し付けてくる。久々に顔を見たと思ったらやっぱりこれだ。おまけにイシュメルまで」
恨み言を吐きながらも、彼は嬉しそうですらあった。息子のように思うエリオットと死んだと思っていた旧友イシュメルから頼られたのはまんざらでもないということだ。
スペンサー。ジェイクの兄としてかつては傭兵団に籍を置いていた男。今は武器商として生計を立てながら、傭兵間の情報にもっとも長けた存在だ。
彼がエリオットから頼まれたのは、取りこぼした傭兵の捕縛だった。ここまで団結して良くやってくれた下町の住民たちだが、さすがに傭兵たちと真っ向からぶつかるのは分が悪すぎる。傭兵には傭兵を――そういうわけで、スペンサーに協力を申し出たのだ。
「ま、いいさね。傭兵の不始末は傭兵がつけてやる。一時の欲に溺れ悪逆を尽くすような輩には、きつい灸が必要だ。……なあに、手加減はしてやるよ。俺の腕も本調子じゃないんでね」
この場にあってスペンサーは上機嫌ですらあった。歌うように呟きながら、摺り足で一歩傭兵たちに近づく。大剣を肩に担ぎ、時折ぽんぽんと肩を叩く様子はどこぞの番長にしか見えない。首都を襲撃した傭兵たちは、大半が首都近郊で活動していた者である。彼らはスペンサーの存在を、勿論知っていた。彼が腕を負傷して、傭兵をやめたということも――。
一対多数の有利な状況にありながら、傭兵たちが恐れおののくのは、スペンサーが醸し出す異常な落ち着きと貫禄ゆえか。彼は確かに、最強の傭兵団を率いたジェイクの兄であった。
「――今までチョイ役でしかなかった憂さを晴らさせてもらうぜ。悪く思うなよ」
ヨシュアはそのまま下町を抜け、繁華街へと上がった。下町に一番近いこの地区では、既に下町の騒ぎは聞きつけている。といより、ヨシュアたちは騒ぎを大きくするためにわざと派手に立ち回ったのだ。
下町の住民たちはできることをやった。次の舞台は、繁華街へ移る。その先は、上流階級区へと。
「首都コーウェンの民よ! 大統領、アレクシス・D・ブロウズである!」
朗々とした声が響く。齢七十を目前とした男の声とは思えぬほど、張りがあり通りの良い声だ。拡声器もなしに届くのがその証拠である。
繁華街の一角に姿を現したアレクシスと、その傍にはオースティン伯爵もいる。下町の混乱に乗じて、ふたりはこの場にやってきたのだ。
行方の分からなかった大統領とオースティン伯爵の無事な姿に、民衆も傭兵も騒然とした。誰もが大統領の次の言葉を待つ。
「この度の騒動の首謀者である補佐官キースリーは、国家を混乱に貶め人民の生活を弄ぶ罪人である! 罪人の謀反に加担した者どもも、等しく同じ咎を負うこととなろう。民たちよ、立ち上がれ。既に下層地区では住民たちの決起により、大半の傭兵が捕縛された。勇敢なる者たちよ、彼らに続け!」
鶴の一声だった。硬直していた民衆はその言葉で歓声を上げ、傭兵たちに挑みかかったのだ。剣を抜いて応戦すればいいものを、傭兵たちはなんと無残にも逃げ出した。圧倒的な数と気迫の違い、そして今更ながら国家謀反の罪に問われたことに恐れをなしたのだ。
繁華街はあっという間に下町の騒動の再来となった。その様子を見て、アレクシスが小さく息を吐き出す。
「民衆の暴動を扇動するとは、統治者失格だな」
「閣下の政治と、キースリー補佐官の政治――民衆は閣下を選んだ。それは最初から知れていることです」
オースティンが宥める。多くの民衆に慕われた自分を、アレクシスはこのとき実感した。キースリーにまんまと嵌められたのは自分だ。それは自分が弱く、これまでの統治に驕ったせいであろう。
それでも皆が自分を信じてくれるというのなら、恥を忍んで皆の前に立つ。彼らの行動に、責任を取るために。
「……後は頼むぞ、ティリット」
彼らが何をしようとも。責任は、自分が取る。
★☆
民衆による大暴動のおかげで、あれだけ幅を利かせていた傭兵たちの数は激減していた。エリオットたちはテオの先導で、傭兵と接触することもなく移動できた。
「地下水道を辿って大統領府に潜入するよ。ルートは頭に入ってる、心配しないで」
テオがそう言ったが、元より心配などしていない。殿を務めるイシュメルがふと背後を振り返った。
「……繁華街のほうでも、騒ぎが始まったようだな。概ねうまくやっているようだ」
「大丈夫かな、みんな……」
エリオットはそれだけが心配だ。素手の民間人が幾ら束になっていようと、傭兵はやはり戦いのプロ。心配は尽きない。
そんなエリオットを諭すように、イシュメルが肩を叩く。そう――気にしても、仕方ない。信じるしかないのだ。絶対にできると断言したヨシュアやイアンたちを。
テオが足を止める。彼の足元にはマンホールがあった。地下への入り口だ。
「みなさん」
突如、頭上から声がした。はっとして顔を上げると、傍の家の屋根の上にヨシュアがいる。彼は身軽に路地まで飛び降りた。
「ヨシュアくん。首尾はどう?」
「予想以上の戦果ですよ。大統領たちのおかげで、決起する住人も増えました」
それを聞いてひとまず安心する。するとヨシュアは朗らかだった表情を引き締めた。
「捕えた傭兵の口を割らせました。彼らは捕えた住民を、大統領府の研究塔へ連れて行っていたそうです。そこで研究員に引き渡して、そのあとのことは知らないようですが」
「研究塔か……ますます、怪しいね」
研究塔という響きだけで、何か良からぬことに住民たちが巻き込まれているのは想像に容易い。そんなところに母が送り込まれていると考えただけで、エリオットは寒気を感じてしまう。
「それから警備軍ですが、戦闘部隊の殆どが死傷。治安維持隊の大部分もまた、研究塔へ連行されたそうです」
「! ……なんとしてでも助け出さねばな」
イザードがぎりっと奥歯をかみしめる。治安維持隊はイザードの部下たち――助け出す人が、また増えた。しかし警備軍のエリートである戦闘部隊の殆どを失うなど、大統領府の中にいる傭兵たちはどれだけ強いのだ。
「ありがとう、ヨシュアくん。街のことは頼むよ」
「はい。皆さんもお気をつけて」
ヨシュアは頷いた。テオはエリオット、イザード、イシュメル、そしてエリオットの方に引っ付いているチコを見回した。
「それじゃ行こうか」
出撃の合図は、たった一言だった。敵の中枢に飛び込む者たちとは思えない。だがそのくらいが丁度いいのかもしれない。下手に力むより、自然体でいる方がずっといい。
目的は捕らわれた人々の救出。そしてキースリーと魔砲を止めること。
ヨシュアやイアンたちが成功させた首都奪還計画を、無駄にはしない。




