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万屋ですがなにか。  作者: 狼花
VOLUME Ⅱ
47/53

File twenty-three やはり家は良いものです。

 

 

 

 着々と近づいている。





★☆





 強行突破といったものの、テオは元々慎重な性質だ。真正面から城門を抜けるような真似はせず、テオがキープしているという『抜け道』――城門脇にある通用口の鍵を()()()テオは持っており、その小さなドアを抜けて一行は首都に入ることができた。警備軍しか使えないはずの通用口の鍵を持っていることに対して、イザードが散々テオに説教している間に、エリオットとイシュメルは周囲の安全を確かめる。人の目がひとまずないことを確認して、彼らは移動を開始した。


 下町の地理は完璧にテオもエリオットも把握していた。地の利はこちらにあり、傭兵とうっかり鉢合わせしそうになっても回避ができる。そうして何度か路地を変えながら下町を進んでいくと、前方にふらりと現れた者がいる。一瞬身構えかけたが、すぐにテオが制した。


「ヨシュアくん。久しぶりだね」

「皆さん、お元気そうで何よりです」


 この場にそぐわない朗らかな挨拶が交わされた。身一つで何をしているんだとエリオットは思ったのだが、出迎えに来てくれたに決まっている。ヨシュアはこちらに歩み寄り、身振りで後退を指示した。


「下がって下がって。この先は傭兵のたまり場になっています、迂回しましょう」


 迂回ばかりで、通行可能な道を絞り込むのがなかなか難しい。だがヨシュアはもう傭兵の巡回ルートなどを把握しているようで、きっちり先導してくれた。相変わらず有能な男だ。

 それにしても、とエリオットは辺りを見回す。


「人の気配がほとんどないな」

「外出を禁じられているんですよ。それでなくとも、傭兵がうろうろしている場所には行きたくないですけどね。ただ、食料調達は避けられないので、出歩くときは戦々恐々です」


 下町の市場周辺まで来ると、ヨシュアの言った通りちらほらと買い物客の姿が見え始めた。こんな状況でも、商店は一応機能している。傭兵たちは、そこまで脅かすつもりはないらしい。ただ首都から出ないように包囲しているだけか。


「それより、おひとり見慣れぬ方が増えていますね」


 ヨシュアがちらりと振り返る。イシュメルのことだ。本人より先にエリオットが口を開く。


「傭兵団の仲間で、俺の師だ。心配はいらない」

「心配なんてしていませんよ。ただ、どこかで覚えのある顔だなあと」

「……どういう意味だ?」


 イシュメルが声を低める。ヨシュアは前方に視線を戻し、笑みを含んだ声だけを飛ばしてくる。


「エリオットさんの所属していた団はジェイク傭兵団。貴方はジェイク団長ではないようだから、おそらく副長のイシュメル殿。なに、その名を大統領府のどこかの資料室で見た覚えがあるだけですよ」


 それだけと言っておきながら、絶対にヨシュアはすべてを把握している。胡散臭いという感情を通り越して嫌悪の表情を浮かべたイシュメルを、エリオットが「こういう奴なのだ」と宥めた。「心配は無用」という言葉はヨシュアではなく、イシュメルにこそ告げるべき言葉だったと後悔した。

 下町の知り合いたちの姿を数名確認できてほっとしたらしいテオは、幾分か緊張していた表情をほぐしている。やはり慣れた土地や人というのは、こんな状況でもよいものだ。


 最後尾を行くイザードが、やや前方を歩くイシュメルの背中に声をかけた。――イシュメルは下町に入るのが久々なのだろう。物珍しげだ。


「イシュメル。覚悟はできているのか?」

「父に会う覚悟か?」


 肩越しに振り返ったイシュメルは、小さく笑みを浮かべる。


「久しぶりだと告げるだけだ。そんなに緊張してもいないし、覚悟を固めるほどのことでもなかろう」

「……やれやれ、お前はいつでもどこでも余裕だな」

「心の平静と言ってくれ」


 背後で交わされる年長組の会話に、逆に緊張してきたのはエリオットだ。そういえばイシュメルは大統領の息子――その大統領は、いまヨシュアが保護して万屋にいる。エリオットとオースティン伯爵の再会とは訳が違う。三十年ぶりの再会は、どんなものなのだろうか。

 リオノーラとも、イアンとも、両親とももうすぐ会える。否応なしに緊張は高まるというものだ。


 市場の通りから一本奥の路地に入り、緩やかな下り坂を進む。何度、買い物袋を提げてここを下っただろう。何の変哲もない、住宅と住宅の間の路地でしかなかったはずなのに、二か月も離れれば懐かしくてたまらない。

 ここを下って、角を右へ。少し進んで、次は左へ。その路地を抜けた、真正面――そこに掲げられた、『万屋カーシュナー』の看板。「ただし荒事却下」という付け足しの一言が、さりげなくその横で存在感を示している。


 我が家、と呼ぶべき場所だ。


「いやあ、帰ってきたねぇ。なんだろ、うちってこんなだったっけ」


 テオが苦々しく笑う。その感覚はなんとなく分かる――それだけ当たり前の景色だったということだ。


 躊躇いらしいものを一切見せず、テオは万屋の扉を押し開けた。一歩室内に入れば、いつもしていたコーヒーの香り。それはいま、随分と薄れてしまったように感じた。

 部屋中の視線が自分に集中している。テオはそれに気づいて、笑みを浮かべた。


「ただいまー」





 あんぐりと口を開けていたのはリオノーラだ。貴族のご令嬢らしくないその顔で、彼女はテオを凝視していた。まるで射抜いてしまうのではないかと思うほどだったが、テオのあとから入ってきたエリオットを見て彼女の硬直は解けた。

 ソファを蹴り倒す勢いで彼女は立ち上がり、玄関まで駆けつけた。そしてその勢いのままエリオットに抱き着く。エリオットもある程度予測していたため、余裕を持ってその華奢な身体を受け止めた。


「お兄様ッ!」

「リオ……! 良かった、怪我ないな」

「僕は平気だけど、みんな、みんな……!」


 たくさんの血と死を見たのだろう。それでも気丈に振る舞う妹の頭を、そっとエリオットは撫でる。その妹の頭越しに、イアンとオースティン伯爵と目が合う。驚きと安堵の入り混じった表情だ。


「テオさん、エリオットさん!」

「戻ってきてくれたか……」


 ふたりとも、疲労の色が濃い。当然か、この家で隠れながら、心休まらない日々を送っていたのだ。疲れるに決まっている。

 ただいまと告げたテオの笑みが、若干強張る。その視線の先を追うと、奥にいた老人がこちらに歩み寄ってきていた。


 一度見た覚えのある――そう、大統領アレクシス。

 テオとアレクシスの間にある妙な緊張感。庶民が大統領という雲上人と向き合ったというだけのものではない。確執、因縁、わだかまり。その他諸々の、複雑な感情だ。そういえば頑なにテオは大統領と顔を合わせることを避けていた。


 カーシュナーを巻き込み殺してしまったテオの負い目と――テオがカーシュナーを手にかける間接的な原因を作った大統領の負い目か。


「大統領閣下、ご無事で何よりです」


 やんわりと微笑んだテオに向け、アレクシスは頷いた。


「彼らのおかげでな……随分と久しぶりだな、ティリット。ざっと十年ぶりか」

「ええ。カーシュナーが亡くなったときに会ったきりでしたね」


 カーシュナーという単語にアレクシスがぴくりと反応する。テオは身体をずらし、後ろにいたイシュメルを示した。


「けど、今日は俺以上に懐かしい人がいるんじゃないですか?」

「……む?」


 最後に室内に入り扉を閉めたイシュメルと、アレクシスの視線が交差する。途端、アレクシスの目が大きく見開かれた。手や口元がわなわなと震え、一歩アレクシスはイシュメルへ近づく。対するイシュメルは淡々とした様子で、いつもと変わらない。背筋をきりっと伸ばし、父の視線を受け止めていた。


「イシュメル」


 絞り出されたのは名前だけだった。イシュメルは軽くアレクシスに頭を下げる。


「お久しぶりです、父上」

「生きて……お前、生きていたのか」

「ええ、まあ」


 リオノーラやイアン、オースティン伯爵は唖然としていた。大統領を父と呼んだイシュメルの存在は、貴族の彼らに大きな驚愕をもたらしたのだ。アレクシスの子は、十年前に亡くなったエルバート・カーシュナーのみ。そのカーシュナーの存在でさえ、知らぬ者が大半だった。それなのにいまここに来て、もうひとりの息子があらわれた。驚かぬわけがない。


「その右腕は、どうした……?」

「魔物に食われました。それよりも、随分やつれたようですね」

「人のことを言える立場か」

「ご尤もだ」


 アレクシスの知るイシュメルは、十代の少年の姿のままだっただろう。しかし四十代半ばとなったイシュメルを見て一目で息子と分かるからには、幼いころからイシュメルはイシュメルだったらしい。


「……お前はもう、死んだものと思っていたのだ」


 アレクシスはぽつりと呟く。


「本当の意味で死んでいなくとも、お前は二度と家には戻らないだろう――だから、イシュメルは死んだと思うことにしていた」

「……」

「妻が死に、エルバートを死に追いやり、私はすべての血族を失ったと思っていた。だが、お前がいたのだな。よく戻ってきてくれた……」


 常の貫録はどこにいったのか、そこにいたのは息子の無事を喜ぶ年老いた父親だった。イシュメルは軽く肩を竦め、父親に背を向けた。


「見苦しいですよ、大統領閣下。多くの犠牲の上に立つ者は、常に顔を上げていなければならない。それが貴方の姿勢だったはずでしょう」


 淡泊なイシュメルと、何とも言えないアレクシス。二人の間に朗らかに、しかし強引に割り込んだのはテオだ。


「まあまあ、イシュメルさん。お年寄りは涙脆いと言いますし、その辺にしてあげてください」

「テ、テオッ、貴様!?」


 イザードが真っ青になってテオの失言を聞きとがめたが、当のアレクシスがテオに同意して頷いてしまったので叱るに叱れなくなる。

 エリオットの中の大統領アレクシスのイメージは、このほんの数分で随分と軟化していた。なんだ、アレクシスもただの父親じゃないか――そんな当たり前のことに驚くばかりだ。素っ気ないイシュメルは彼らしいと言えばそうだが、照れ隠しもあるように見える。

 手放しに再会を喜べないのは、ふたりがいい大人だからなのだろうか。


「……ひとつ、聞きたいんですけど」


 話が途切れた隙に、エリオットが口を開く。オースティン伯ウォルターが振り返った。


「どうした?」

「母さんはどうしたんですか? 部屋で休んでいるとか……?」


 それはまるで禁忌の一言のようだった。母という単語を口にした瞬間、ウォルターが目を逸らす。リオノーラが俯く。イアンが何か言いかけてやめる。

 言葉にするのを避けている――それは、なぜ。


「行方不明です」


 きっぱりと答えをくれたのはヨシュアだった。


「オースティン伯爵夫人ナディア殿は、傭兵襲撃の混乱の中で行方知れずになりました。私の知る限り死体はあがっていませんので、おそらく連れ去られたのではないかと」

「行方知れず……」


 どこか自分がほっとしていることにエリオットは気付く。エリオットが想定した最悪の事態は、既に母の命がこの世にないということだった。それに比べれば、拉致など――助け出せばいいだけではないか。簡単ではないだろうが、希望があるだけマシだ。


「エリオットくん、コーヒー淹れてくれない?」


 唐突にテオがそう要求してきた。こんな時に何をのんびりと、と誰もが思っただろう。だがテオにとってコーヒーはある種の鎮静剤だ。腰を据えて話をするときには、コーヒーを飲まないとやっていけないらしい。


「いいけど、そもそもコーヒーはあるのか?」

「なかったら買ってきて!」

「ふざけんなよ」

「あ、補充してあります。いつ皆さんが帰ってきてもいいように、切らさないようにしていたんですよ」

「そうだったのか。ありがとうな、イアン」


 イアンの言葉通り、キッチンの棚の中にはいつものコーヒーのストックが大量に入っていた。食器も綺麗だ。この二か月近く、リオノーラとイアンはしっかり万屋を守ってくれていた、それがうかがえる。

 慣れた手つきでエリオットは人数分のコーヒーを淹れる。なんと九人分だ。むしろよく九つもマグカップがあったものである。


 テオはコーヒーを一口すすって、「これだこれだ」とご満悦である。それで満足したのか、テオはカップをテーブルに置いてやっと本題に入った。


「……で、なんでオースティン伯爵夫人が連れ去られたの?」

「さあ?」

「はは、即答か」


 素早いヨシュアの回答に、さすがのテオも苦笑気味だ。とはいえたった五日、しかもこれだけの人数を守りながら敵情を探るのは、いくらヨシュアでも不可能だったはずだ。


「しかし、行方不明になっているのは夫人だけではありません。身分や性別、年齢を問わず、多数の人間が拉致されているようです。下町の貴方の知人の方も、何名か」

「その法則性は?」

「私には無差別に拉致しているようにしか思えないですね」


 ヨシュアは懐から一枚の紙を取り出し、テオに差し出す。彼が調べられた範囲での、行方不明者のリストだ。それに目を通したテオも、首をひねる。確かに共通点らしきものは見つからないらしい。

 ――それよりも、人名を見ただけで大体の人間が分かるテオの記憶力がどうかしているような気がする。


「無差別だろうがなかろうが、何か目的があって連れ去ったのは確かだろうね。……ところでひとつ確認しておきたいのですが」


 テオはそう前置きをして視線をヨシュアから外す。その先にいたのは大統領だ。


「大統領。俺たちはネルザーリの街で、人の魔物化実験が行われているさまを見てきました」

「なんだと……!?」

「これに関して、貴方の関与は……ないと見ていいんですね」

「無論。人間が魔物化するほどのエナジーを消費することは、固く禁じていた――つもりだった。そのようなことになっているとは知らなんだ……申し訳ない」

「ふむ。それじゃやはり、この件はキースリーやらレナードやらの独断というわけですね」


 人間はどれだけのエナジーを浴びたら魔物化するのか。それを調べてどうするつもりだったのだろう。魔物化しないように基準を作っていたのか、あるいはその逆か。


「俺たちのするべきことは三つ――街を徘徊する傭兵たちを追い出すこと。行方不明の住民たちを探すこと。そしてキースリーを捕えることだ」


 テオが三本の指を立てる。途方もないことだ。ここにいる九人――実質戦えるのは五人だが――この人数で、首都コーウェンを奪還しなければならないのだ。いくら都市中枢に詳しい大統領やオースティン伯、テオがいるからといってそれは出来得るのか。


「お前の魔術はどうなんだ? さっきみたいに、傭兵を一つまみに……」


 イザードがテオに問いかけると、テオは苦笑を浮かべた。


「当てにしてくれるのは嬉しいんだけど、敵味方入り乱れる街中で傭兵だけを拘束するってのは難しいね。何より、そんな規模の大きい術を使ったら俺死んじゃう」


 朗らかだが、その「死ぬ」は本当の意味の「死ぬ」なのだ。イザードも即座に首を振って、この案を却下する。


「傭兵の雇い主はキースリーだ。雇い主を失ってなお、傭兵たちが戦うとは考えにくい――キースリーを捕えて大統領が姿を見せれば、おのずと傭兵も鎮圧できるはずだ。そのためには警備軍の戦力を当てにするしかないのだが……さて、どの程度期待して良いのだろうな」


 イシュメルがちらりとイザードを見やる。イザードは深刻な表情で腕を組んでいる。いま真っ先に住民の護衛と傭兵の駆逐をしなければならないはずの警備軍を、自分たちは首都に入ってから一度も見ていない。拘束されたか、殺されたか、逃亡したか――あるいはキースリーに寝返ったか。


「――下町を占拠している傭兵は、四十名ほどです」


 唐突に口を開いたのはヨシュアだ。全員の視線が彼に向けられる。


「そもそも傭兵の絶対数が少ないですからね。王都周辺の傭兵たちを掻き集めても、下町にはその程度の人員しか割けなかったのでしょう。何せキースリーの本命は、大統領府の掌握でしたから」

「それはそうだね」

「対する下町の人間は何千人と存在します。その中には屈強な若い男も、何人もいるでしょう。いくら腕の立つ傭兵と言えど、数十人の人間に遠距離攻撃を仕掛けられたら対応できないのでは――?」

「何が言いたい?」


 テオの問いを受けて、ヨシュアはにっこりと微笑む。そして穏やかな表情で、さらっととんでもないことを口に出した。


「下町の勇士を集めれば、四十人の傭兵などあっという間に退治できるんじゃないですか?」

「民間人に命がけの戦いをしろと!?」


 イザードは完全に呆れかえっている。だがヨシュアはけろっとした顔だ。


「命がけの戦いなど、とうの昔に始まっていますよ。魔物化の危機、傭兵の蹂躙――現に殺された者も出ている。すべての住民にとって、もはやそれは他人事ではない」

「し、しかし……」

「それに、誰が正々堂々戦うなんて言いましたか。下町の複雑な地形を利用して遠距離から罠にかけ、じわじわと各個撃破ですよ」

「物騒だなおい」


 顎をつまんで考え込んでいたテオは、頷いて顔を上げた。


「確かに勝機はあるかもしれない。けど、問題はどうやって協力を仰ぐかってことだ。それだけの人数を集めるとなれば、段どりも情報伝達も複雑になる……いや、まずは協力してくれる人がいるかどうか」

「何を消極的な。『下町の万屋さん』に民衆が絶大な信頼を置いていることを、貴方がたは知らないんですか」

「そうだよ。下町のみんな、お兄様とテオのことをすごく頼りにしているんだよ。お兄様の妹ってだけで、僕にも優しくしてくれるくらいだもん……みんな手伝ってくれる」


 リオノーラの賛同の言葉に、イアンが頷いた。


「僕にとっても下町は大切な場所です。それを取り戻す手伝いをさせてください」


 エリオットはヨシュアを見やる。この男にしては、やけに熱を注いでいる風ではないか。やる気満々すぎて怪しいとすら思えるほどだ。


「そこまで推すってことは、策があるんだな?」

「ええ。でなきゃ言いません」

「意外だな、案外熱血なんだ」

「貴方がたが私をどう思っているかはなんとなく分かりますが、私だって首都は生まれ故郷。多少の愛着はありますよ」


 まずは下町の解放。それが成功すれば繁華街、貴族街と抵抗の波は広がっていく。いま何よりこの街の住民が必要としているのは、「立ち上がれ」と導いてくれる者の存在だった。誰かが声をあげれば、状況は一転するはずだった。

 ヨシュアたちが市街地の傭兵たちを引き受けてくれるだけでも、テオらの負担は大きく減る。後顧の憂いなく敵陣へ潜入できるのは、確かに有難い。


 テオの決断も早かった。彼は頷き、すべてをヨシュアに託すことにしたのだ。


「分かった。声かけは俺とエリオットでやる。そのあとのことは君に任せるよ」

「はい」


 それを聞いたときには、エリオットも出かける準備を整えていた。今は何より時間が惜しいのだ。傭兵の数も少ないようだし、多少は動き回れるだろう。


「行こうぜ、テオ」

「……身体は平気?」


 不安げに問われて、エリオットは微笑む。


「まだ大丈夫さ」

「ならいいけど、あまり……」

「『無理はするな』、だろ。分かってるよ」


 後のことはイシュメルとイザードに任せ、エリオットとテオは万屋を出た。ヨシュアは早速策を練って紙におこしている。一体どのような奇策を出してくるつもりだろう。


「……俺の力が万全なら、俺とイシュメルでも下町くらいは取り戻せるかもしれないのに」

「こらこら。出来ちゃいそうなのが怖いけど、あまり卑下しないで」

「冗談だ。で、誰に協力を仰ぐ? 下町で人望があって、若く力のある男……だよな」


 まず集めるべくは、下町の『指揮官』となってくれる存在だ。最高司令官のヨシュアからの策を聞き、それ通りに人を集めて動かす。そのための少数精鋭。


「目星はある程度ついてるよ。で、そのことで君に呼んできてほしい人がいるんだけど」


 そうしてテオが出した名前を聞いて、不敵にエリオットは口角を釣り上げたのだった。





★☆





 あまり万屋に人を集めすぎると目をつけられる。そう考えたため、ヨシュアは協力を申し出てくれた者たちのもとへ自ら出向いて行った。勿論事前にテオとエリオットから説明済みで、ヨシュアの身柄は証明されている。

 そして驚いたことにイアンも同行したいと言い出した。本来武闘派ではないはずのイアンは、ここぞとばかりに男気を見せている。エリオットやリオノーラなどは心配で仕方ないのだが、要領のいいイアンのこと、きっと上手くやってくれるのだろう。そこまでして下町のために戦ってくれる彼に、エリオットは頭の下がる思いだ。


 エリオットはその間に昼食の用意をしている。リオノーラがそれを手伝って、在りし日の万屋の風景を見ているかのようだ。テオはそう思いつつ、ソファに腰を下ろす。対面には大統領アレクシスが腰かけていた。


「……すまないな」

「どうしたんです?」

「君たち若者が、身体を張って戦ってくれるというのに、今の私にはなんの力もない。もどかしいものだ」


 その言葉にテオは顔を上げ、首を振る。


「それは違いますよ、大統領閣下」

「というと?」

「下町の人間にとって、大統領という存在は遠いものです。おそらくここで閣下が声を上げたところで、賛同する者はいないといっていいでしょう。ま、これは下町の住民の多くに選挙権が与えられていない弊害といえますが」


 遠慮も何もない言葉に大統領が声を詰まらせる。だがテオは朗らかに続けた。


「しかし繁華街や上流階級区では違います。驚異的な支持率を誇る閣下の声ならば、現状に手をこまねいている連中が必ず呼応するでしょう。下町の住民の間でつけられた火種を、閣下の檄で繁華街や上流階級区に拡げる――要は適材適所ってことですよ。閣下の存在は俺たちの切り札だ、なるべく最後まで取っておきたいんです」

「……見ないうちに、だいぶお前は物言いが落ちついたな。辛辣なのは変わらないが」

「はは、それだけ年をとったんですよ、俺も」


 茶化したテオの前で、アレクシスは居住まいを正した。年の割にピンと伸ばした背筋は、見事なものだ。


「我々はお前に、長いこと不自由を強いた。嫌な思いもたくさんさせた。それでもお前は、いつでも力を貸してくれた。礼を言わせてくれ」


 アレクシスは深々とテオに頭を下げた。これにはテオも、壁際に佇んでいたイザードとイシュメルも目を丸くした。いつだって堂々としていたアレクシスが、他人に頭を下げたのだ。息子のイシュメルや、頻繁に顔を合わせていたイザードが驚いているのだから、かなり稀なことだ。

 テオは苦笑した。――蟠りは解けた、そんな表情だ。


「――俺はただ、自分の生活する場所を守っているだけです。それが偶然、閣下の意思と一致した。それだけのことで、礼を言われることではありませんよ」


 素直じゃないなぁ、とエリオットは呆れて溜息をつく。ありあわせの食材でも、パンとサラダとハムエッグを作るくらいはできた。怖くてまだリオノーラに味付けは任せられないが、具材を切るくらいなら彼女も手馴れたものだ。


 サラダボウルを食卓に置く。食べられる人から食べるようにするため、料理はどれも大皿だ。取り皿も多く出しておいて、洗い物に取り掛かろうとしたその時――それは緩やかにやってきた。


「……?」


 くらっと視界がぶれる。勘違いかと思ってしまうほど、弱い眩暈だった。――エリオットが、思わず自分の病状を忘れてしまうくらい。

 額に手を当てる。自然と足から力が抜けていき、傍にあった棚に手をついてなんとかこらえた。


「テ……テオ」


 自分の声が妙に遠い。それでも言葉はしっかりテオに届いたらしい。テオはすっ飛んできて、エリオットの肩を支えて立たせてくれる。


「体調悪い?」

「ああ……急に……」

「――ざっと、二時間半か。思っていたより、もったほうだね」


 冷静に分析するテオと対照的だったのは、リオノーラとオースティン伯爵である。リオノーラは真横で急に倒れ込んだ兄を見て、どうしたらよいのか分からずにおろおろしている。

 イザードもまた駆け寄ってきて、テオとは反対側からエリオットを支えてくれた。と、その瞬間にエリオットの足から一切の力が抜けた。突然なことで、テオとイザードが慌ててエリオットの身体を引き上げる。


「お、お兄様!?」


 リオノーラが縋りつくも、テオが「ちょっと待って」と制したためにそれ以上声をかけられない。イシュメルが開けてくれた扉を出て、テオとイザードはエリオットを部屋へと運ぶ。

 エリオットをベッドに寝かせて、テオは症状を診始める。その隙にリオノーラが詰め寄ったのはイザードだ。


「ねえ、お兄様どうしたの!? どこか、悪いの?」

「……人間の魔物化については、話した通りだ。エリオットもそうなのだ、こいつもエナジーを浴びすぎて魔物化する寸前になっている」

「う、嘘だよ……だって、お兄様はさっきまで普通に!」

「あれはテオの作った魔装具の効果。一時だけのものだ」

「嘘……嘘だよ……!」


 リオノーラは信じたくないという様子で、何度も首を振る。その眼には涙がうっすら溜まっていた。ウォルターもまた深刻な表情で、ベッドに横たわるエリオットを見つめている。部屋の戸口に立ったアレクシスが、ぽつりと呟いた。


「エルバートと、同じか……」


 イシュメルが震えているリオノーラと、彼女の肩を支えているオースティン伯に向き合った。


「それでもエリオットは、戦う意志を固めたのだ。それを尊重してやりたい」

「そうまでして戦ってくれるのか。みなのために……」


 伯爵が呟くと、ベッドから「そうじゃないんです」と弱々しい声が聞こえた。まだなんとか意識を繋ぎとめているエリオットが、父に声をかけていた。


「俺は、俺がこの先を生きるために……戦いたいんです。誰のためでもなく、自分のために、自分の力で」

「エリオット……」

「だから……大丈夫」


 エリオットは微笑んだが、その額にはじんわりと汗が浮かんでいる。なのに顔は真っ青だ。冷や汗が出るほどの苦痛を感じながら、それでも微笑む息子にオースティン伯は何も言えなくなってしまう。


「少し眠って。体力を取り戻しておかないと」

「ん……」


 テオに促されたエリオットが目を閉じる。彼が寝入ったのを確認して、テオは立ち上がった。リオノーラはそんなテオを目で追いかける。何か解決の手立てはないのかと、問うている目だ。


「……怪我ひとつさせない、とは約束できない。でも必ず、生きて帰らせるから。だから俺を信じて、リオノーラ」

「信じる、けど……」


 生きて『帰らせる』とはなんなのだ。それではまるで、テオは帰ってこないような言い方――。


「テオも帰ってこないと、嫌だよ。お兄様と一緒に、テオも、イザードさんも、イシュメルさんも。じゃないと僕、許さないから。末代まで祟ってやるから」

「はは、それは怖いな。承知しましたよ、お嬢様」


 茶化したように笑っているけれど、本当に分かってくれたのか。柔和なようでいて頑固なテオだ。いざという時は、きっと自分の身を犠牲にする。リオノーラにとってはエリオットが一番大事だけれど、テオのことも同じくらい大事で大好きだ。二人そろっていてくれないと、困る。でなければ、誰がこの万屋を守るのだ。

 イザードとイシュメルにリオノーラは目線を送る。察してくれたのか、ふたりとも頷いた。何かあれば、テオを強引にでも連れて戻ってくる――そう目が語っていた。


 祈ることしかできない。待つことには、いつまで経っても慣れそうもなかった。それでもリオノーラには待つことと祈ることしかできないのだ。神さまがいるのかいないのか知らないが、いるならみんなを守ってくれ。エリオットのことはテオがなんとかしてくれる。テオのことはイザードとイシュメルがなんとかしてくれる。

 だから、全員無事で帰って来られますように。

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