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万屋ですがなにか。  作者: 狼花
VOLUME Ⅱ
45/53

File twenty-one 僕たちも戦うんだもん。

 

 

 

 僕たちは、僕たちにできることを。





★☆





 通信を切ったヨシュアは、溜息と共に通信機を上着の内ポケットにしまいこむ。そうして、空を仰ぐように振り返った。


「やれやれ……参りましたね、これは」


 市街地のど真ん中に立つヨシュアの背後に見えるのは、大きな大統領府とそれを取り囲む貴族たちの住まいだ。

 いま、それらの建物は細く煙を上げていた。風にたなびくそれは、微かにヨシュアの鼻に火の臭いを運んでくる。


 大規模な爆発が大統領府で起こったのが、二十分ほど前のことだ。

 いつもと変わらぬ様子で買い物を楽しんでいた繁華街の客たちが、轟音で一瞬静まり返ったのは壮観といえば壮観だ。その後硬直が解けて、一斉に彼らは逃げ出した。ヨシュアもまた混乱の渦中にいて、人の流れから抜け出そうと四苦八苦していた。


 そこへ現れたのが、鉄の武器を持った大勢の人間――傭兵たちだった。

 敵なのか味方なのか判別できぬまま繁華街は傭兵たちによって占拠され、一般市民は家から出ないようにと剣を突きつけられた。手出しはされなかったが、剣を向けられた時点で彼らは味方ではない。ヨシュアは傭兵たちの目をかいくぐってその場を離脱し、素早く情報を掻き集めた。それから少し離れた路地で、テオに連絡を入れたのである。


 随分と思い切ったことをしたものだ。ヨシュアはそう思わずにはいられない。いつかことを起こすだろうとは思っていたが、まさかここまでするとは。

 おそらくキースリーは、各地の傭兵を金で雇ったのだろう。今時エリオットのように清廉潔白な傭兵というのはほんの一握りしか存在せず、大部分は食料と金に飢えて死にかけの状態だ。盗賊に身を落とす者も多いし、汚れ仕事を買って出る者も多い。それらの事情をよく理解したうえで、キースリーは大金をちらつかせて傭兵を囲い込んだ。この国で最強の戦力を持つ傭兵を、一気に掌握したのだ。

 そして自ら手引きし、このクーデターを引き起こした。今頃大統領府はキースリーに押さえられているだろう。そこまでの手腕は見事だ。


 しかし、大統領アレクシスは行方知れずだと漏れ聞いた。真っ先に押さえなければいけなかった大統領の身柄を逃すとは、どうもぬけていると思わずにいられない。そもそもベレスフォード国民――もっといえば首都コーウェンの民の大統領への信頼感は絶大だ。彼は驚異の支持率を得ている。だからこそ、六期連続当選などという前代未聞の偉業が達成されているのであって、それは当然の帰結。

 ならば、補佐官のキースリーが『大統領を殺して政権を握った』などと住民に知れたらどうなるか。――間違いなく、市民による暴動が起こる。キースリーを支持する者はいないと言ってもいいだろう。現状では大統領は行方不明だが、それでも同じことだ。大統領がどこかで発見保護されれば、大統領を先頭に立てて反抗運動が始まる。


 こういう時は、病死や事故死を装って大統領を殺し、『大統領から後のことを任された』と宣言して政権を握るのがもっとも自然ではないのか――などと、少々論点のずれたことを考えている自分に気づき、ヨシュアは小さく頭を振った。キースリーの策に穴があるからこそ、こちらもまだ取れる手段があるのだ。今はそれを考えなければならない。


 あの愉快な二人組――などと言っては烈火のごとく怒られそうだが――リオノーラとイアンはどこに行ったのか。今日はまだ姿を見ていない。万屋にも行っていないだろう。もし上流階級区にいて傭兵に見つかっていたら、それは面倒だ。傭兵たちの中には無条件に貴族を嫌う者が多いのだ。

 この厳戒態勢の中で行動するのはかなり危険なのだが、そうも言っていられない。あのふたりを見殺しにしたら、冗談ではなく社会的に抹消されそうなのだ。まだ消えたくはないので、ヨシュアは慎重に行動を開始した。





「リオノーラ、こっちへ……!」


 ぐいと腕を強く引かれ、よろめいたリオノーラはそのまま住宅と住宅の間の細い路地に身を隠した。その際に転んで、引っ張ってくれたイアンを下敷きにしてしまう。慌てて謝ってどこうとしたが、寸前、イアンがリオノーラの口を手でふさいだ。その状態のまま目線だけちらりと動かすと、剣を持った男が数名大通りを駆けて行った。どうやらうまく撒いたらしい。


 それを見てイアンがリオノーラを解放し、小さく息を吐いた。リオノーラもぺたんと地面に座り込む。目の前にあるイアンの腕に、一筋の傷がある。いまリオノーラを庇って下敷きになった時に擦ったのだろう。


「イアン、血が出てる……」

「掠り傷ですよ」


 イアンの笑みもさすがに強張っていた。落ち着きなく辺りを見回し、そしてリオノーラの手を取って路地の更に奥へと進んでいく。


 ここ最近、イアンはいつも時間を作ってリオノーラの傍にいてくれた。おかげでリオノーラも騒動に巻き込まれることなく、それなりに平穏な毎日を送っていた。

 今日も学校の帰りに落ち合って、いつものように家路についていたのだが――突如、爆発が起こった。地震かと思うほど地を揺るがす轟音とともに、火の手があがったのは大統領府だった。周りにいた他の貴族の子息令嬢たちは慌てて逃げ出し、リオノーラとイアンもとにかく家まで帰ろうとしていた。

 そこへ現れたのが、剣を持った男たちだった。今では廃れた武器、剣――それを持つのは大体が傭兵だと、知識として誰もが知っていることだ。上流階級区へ踏み込んだ傭兵たちは訳も分からず逃げ惑う人々を、容赦なく斬り捨てて行った。


 地獄絵図のような光景を目にして硬直してしまったリオノーラと対称的に、イアンの決断は速かった。彼は持っていたヴァイオリンをケースごと捨て、リオノーラの鞄も捨てさせた。そしてそのまま、傭兵たちから逃げたのだ。イアンに腕を掴まれたままとにかく走り、なんとかこの路地へ潜り込んだのである。


「お父様、お母様……」


 リオノーラは思わず両親を呼んだ。爆発した大統領府にいた父。屋敷にいるはずの母。あちこちで死臭が漂うこの上流階級区で、二人の生存をどれだけ信じられるだろう。


「とにかく一度オースティン伯爵邸へ行ってみましょう。……大丈夫、このあたりは迷路状になっていて、そう簡単に見つかりは……」


 イアンがそう言った瞬間、背後がかっと明るくなった。驚いて振り返ると、大通りに面している一軒の家が盛大に燃え上っていた。放火されたのか、何らかの拍子に火がついたのか。


「っ……!」


 リオノーラは悲鳴を押し殺した。イアンの表情もますます険しくなっていく。


「おっ、いたいたぁ」


 その声は頭上から降ってきた。顔を上げると、住宅の屋根に立って剣を肩に担いでいる男が、にやりと笑っていた。――そう、敵がきちんと路地を歩いて来るかといえばそうではない。屋根伝いに歩いていれば、路地を移動するリオノーラとイアンはすぐに見つけられただろう。


 傭兵は軽々と路地に飛び降り、イアンの行く手を阻むように立った。イアンがリオノーラを庇って後退しようとしたが、リオノーラがイアンにしがみついてくる。はっとして振り返ると、背後にも傭兵がいた。


 人が一人通れる程度の細い路地だ。ふたりは完全に挟撃されていた。相手は傭兵――戦いのプロ。ただの学生であるイアンが、対抗する術などなかった。

 この狭い道では、相手も剣を突きだすしか攻撃法はないだろう。だがそれをイアンが避けられるかとなると、不可能に等しい。後ろにもうひとりいることだし、打つ手はないか――。


 なんとかリオノーラだけでも逃がせられないか。それだけは諦められなかった。目の前にいる男は、まるで獲物を狩るかのように目を爛々に輝かせている。洗練されたエリオットの姿とは対極なようなガサツな男だが、腕は確かなはず。


 イアンはリオノーラの手を強く握った。おずおずとリオノーラも握り返してくる。


 ――かくなるうえは、一気に走り抜ける――。


「ちょっと待ちなさい」


 聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。と同時にリオノーラが小さく悲鳴をあげる。なんと、後ろを塞いでいた傭兵がひとりでに倒れ込んできたのだ。

 血濡れたナイフを両手に構えて佇んでいたのは、ヨシュアである。


「ヨシュアさん……!」


 油断ならない相手ではあったが、このときばかりはヨシュアの登場は天の助けだった。


「て、てめえっ」


 もうひとりの傭兵が剣を突きだしてくる。はっとしてイアンが目を見張った瞬間、イアンと傭兵の間にヨシュアが割り込んだ。イアンの頭上を飛び越えてきたのだ。

 狭い路地で長剣を振るえない傭兵に対して、ヨシュアは小ぶりなナイフだ。懐に潜り込んで一閃させれば、それで片が付く――と思っていたが、それでも咄嗟に避けたのはさすが傭兵だ。何度か剣を打ち交わしていた二人だが、やはり軍配があがったのはヨシュアのほうだ。


 倒れた傭兵の胸に突き立てたナイフを回収して、ヨシュアは額の汗を拭った。いつも涼しい顔をしているヨシュアのそんな疲れた様子は、イアンも初めて見た。


「やれやれ……戦いは私の専門分野じゃないんですがねぇ。しかも相手が傭兵とは、荷が重いですよ」


 ぶつぶつと愚痴をこぼしているヨシュアに、イアンは軽く頭を下げた。


「ありがとうございます、ヨシュアさん」

「なんの、と言いたいところですが、剣を持った相手に突っ込もうとしないでください。さすがに肝が冷えましたよ」


 ばれていたか、とイアンは言葉に詰まった。リオノーラは息絶えた傭兵たちをなるべく見ないようにしつつ、震えた声でヨシュアに問いかけた。


「ね、ねえ、何が起きてるの?」

「クーデターでしょうね。大統領府で爆発を起こし、雇っていた傭兵を首都内に手引きした者がいるということです」

「クーデター……」


 リオノーラがぽつりと呟いたまま沈黙する。代わってイアンが口を開く。


「他の場所も、こんな様子なんですか?」

「市街地はそこまでではないですね。抵抗した者は斬られていましたが、それ以外に手を出してはいないようです。無差別に攻撃しているのは貴族相手にのみですよ」

「ひ、酷いよ……僕たちが何をしたって言うの……?」


 リオノーラが溢れそうになる涙を懸命にこらえながら嘆く。ヨシュアは目を閉じた。


「そもそもこの国における『傭兵』は、ベレスフォードがまだ共和国ではなく王国だった頃、貴族の奴隷だった人間が、後にそう呼ばれるようになったのです。奴隷たちは自由な生活を望んでいましたが、主人である貴族のもとから逃げ出した以上、都市に留まることはできません。当時魔物の数はそれほどでもなかったでしょうが、野生の獣がうろうろしているようなこの大平原に、着の身着のまま放り出されたわけです。彼らは生きるために、獣を狩るしかなかった」

「あ……」

「生きるために獣を狩っていた彼らは、そのうちそれを商売にし、自らを傭兵と名乗った。それが現在まで残る、傭兵の貴族嫌いの理由でしょう。……ま、当時の奴隷の子孫で生まれたときから傭兵だ、なんて人間がどれだけ残っているのか分かりませんけれどね」


 結局は、苦しい生活を送ることへの八つ当たり――行き場のないやるせなさを、貴族虐殺という形で晴らしたということか。


「も、戻らなきゃ……お母様が家にいるの! お父様も、探さなきゃ……!」


 リオノーラのその言葉に、ヨシュアは妙な沈黙で応えた。イアンが眉をひそめる。


「オースティン伯爵がどうなったか、知っているんですね」

「詳しいことまでは。ただ、大統領アレクシスが行方不明になっています。おそらく、伯爵も傍にいたのではないかと推測はできますが……」

「それじゃ、屋敷のほうは?」

「……オースティン伯爵家はいの一番に押さえられていました。屋敷はもぬけの殻でしたから、おそらく夫人は捕えられたのではないかと」


 リオノーラの顔が蒼白になる。こんな時だが、イアンは「血の気が引く」という感覚をまじまじと味わってしまった。

 オースティン伯爵は、ベレスフォードの平和の象徴であり、大統領アレクシスの片腕。クーデターを起こした連中が、オースティンを放置するはずがない。だが連れ去ったというならば、伯爵夫人ナディアはまだ命があるはずだ。


「とにかくここを離れましょう。傭兵たちはこの場にいる人間を無条件に襲ってきますから」


 ヨシュアの言葉にイアンは頷く。すっかり落ち込んでしまったリオノーラの手をしっかり握り、イアンはヨシュアの後を追って移動をはじめた。





★☆





 やっぱりというか、なんというか。

 ヨシュアがやってきたのは下町の万屋カーシュナーであった。下町は広く、傭兵たちもまだ完全に掌握できていない。逃げるならここしかないというのが、ヨシュアの説明だ。


 いつもと同じ、夕暮れ時の万屋の店内。見慣れた景色のはずが、今日は空気が重たい。とにかくリオノーラをソファに座らせ、イアンは水を汲んで持ってくる。ずっと煙っぽいところを走っていたせいで、喉がちりちりと痛かった。


「ティリットには既に連絡を入れてあります。が、彼らがここに戻るまでしばらく日数が必要です。それまでこの店に潜伏しているしかありませんね」


 リオノーラがちらりと視線を上げる。


「……それまで、何もしないの?」

「何をしたいんですか?」

「お父様とお母様を探したい……」

「どうやって? 外を出歩くのですら危険だというのに、敵の目をかいくぐりながら人を探すのは難しいですよ」

「――でも! 貴方は、黙ってこんなところで待ってなんかいないでしょ」


 睨むような視線を受けてヨシュアは沈黙する。彼女の言う通り、ヨシュアは彼らと共にここで身を隠しているつもりはなかった。少しでも情報を集め、抜け道を探し、そのうち到着するテオとエリオットを首都内へ手引きする準備をしようと思っていたのだ。勿論リオノーラたちの護衛を怠るつもりはない。彼女たちは外出できないだろうから、食料などの調達も兼ねて様子を見にちょくちょく戻るつもりだったが――あっさりリオノーラに看破されたようだ。


「お願い、力を貸して。……もし駄目でも、僕はひとりで行くよ」

「リオノーラ……!」

「ごめんね、イアン。でも僕、もう嫌なんだよ。何もしないで……みんなが死んでいくのを見ているだけなのは」


 襲撃された時、リオノーラの目の前で、彼女に圧力をかけていた貴族の娘が殺された。嫌な相手だったけれど、死んで良い人間などではなかった。あの光景が、脳裏に焼き付いて離れてくれない。

 死んでいる人間は見たことがある。けれど、目の前で人が死ぬのは初めて見た。驚愕に見開かれた目と、口から飛び出した断末魔。やがて血の海に沈み沈黙した身体。もう――見たくない。いまどこかで父や母がそんな目に遭っているかと思うと、じっとなどしていられなかった。


「お兄様とテオが帰ってくるまでに、少しでもお兄様たちが有利に動けそうな状況を作っておきたいの。……貴方もそう思っているんでしょ、怪盗さん?」

「――いいでしょう。私が頼まれているのは貴方がたの護衛です、お付き合いします」


 ヨシュアは腹を括って了解した。そのまま彼は部屋の壁際にある本棚から、数冊の本を取り出した。テーブルの上に置いてぱらぱらと開きはじめたそれを、リオノーラとイアンが身を乗り出して覗き込む。


「おふたりとも、大統領府の内部には詳しいですか?」


 問われたふたりは顔を見合わせ、微妙な顔をした。イアンがまず首を振る。


「入ったことはありますけど、詳しいほどではないです。……リオノーラは?」

「僕もあんまり……」


 目当てのページを見つけたのか、ヨシュアが本を繰る手を止める。そこには手書きの地図――おそらくテオ作と思われる図が書かれていた。よくよく見てみればそれは、大統領府内部の地図だった。一般の貴族たちでも知らない、建物の奥深くまで記されている。


「さすがティリット。大統領府の地図なんて国家機密級の資料でも所有していたわけか」


 ふっと愉快そうに微笑んだヨシュアは、別の本も開きはじめる。


「この街の下には、巨大な地下水道があります。内部は非常に複雑に張り巡らされており、一説には大統領府の地下から市街地のどこかへ通じる道もあるとか」

「なら、大統領とオースティン伯爵はその地下水道を使って脱出を?」

「大統領府にならその程度の隠し通路、ごまんとあるはずです。その存在をオースティン伯爵が知っていれば、迷わず使用して脱出するでしょう。クーデターを起こした者は大統領を殺したかったはずなのに、現状で大統領は行方不明。このことが何よりの証拠です」


 父が無事かもしれないというそのことで、リオノーラが僅かにほっとして表情を和らげる。けれど追っ手はかかっているだろう。いかに広い地下水道を利用しているといっても、戦闘経験の浅い人間が逃げ切るには無理がある。


「地下水道の出入口は私もいくつか把握していますが、さすがにやみくもに突っ込むのは危険。まずは地下水道の全容を把握してから、大統領たちの辿りそうなルートを探し出したいところですが……」


 そこでヨシュアはまた本を繰る手を止めた。口角をあげて微笑んだあと、やや呆れたように感嘆の溜息をつく。

 ヨシュアが見つけたその本の中に、数ページにも及ぶ記載がある――すべて、複雑な地下水道の道順を示した資料だった。





★☆





 ベレスフォード共和国は、昔から土木工事で最先端を行く国だったと聞いている。

 大陸の他の国に先んじて上下水道を完備したのはこの国が最初で、当時は魔装具なんてものは存在しなかった。それでもこれだけ複雑かつ立派な地下水道が完成したのは、ひとえにこの国の技術者たちの力量ゆえだ。おそらくいま地下水道を作ろうとしたら、便利な魔装具に依存して耐久度の低い、薄っぺらいものができるだろうと思われる。


 オースティン伯ウォルターも、この地下水道のすべてを把握しているわけではなかった。けれどもひとつだけ知っていたことがある。大統領府の地下から、市街地の下町へ抜けるルートの存在だ。いざという時のために何度も自ら地下に潜り、道順を確認したこともある。他にもいくつかルートがあるらしいが、ウォルターが知っているのは最短距離を突っ切る単純な道だけだ。だがそれでも、使わないという選択肢はなかった。

 エリオットやテオから警告は受けていた。だから迅速に反応ができた。議会の途中で突然傭兵たちが侵入し、火を放ったとき――衛兵たちにその場を任せ、ウォルターは大統領を連れて地下へ潜り込んだ。いまだ追っ手がこないことを見ると、ここへの侵入はばれていないようだ。むしろ、大統領とウォルターがたったふたりだけで逃げたことも、目をくらます理由になっているかもしれない。


 大統領の存在は、いま何に代えても守るべきものだった。クーデターを起こしたキースリーの正義を打ち砕く、その切り札。民意は明らかに大統領の上にある。大統領さえ存命ならば、戦況をひっくり返すことは可能だ。

 しかし大統領ももう高齢だ。いかに頑強な老人といえど歩く速度が遅いのは仕方がなく、身を守るすべもない。ウォルターも攻撃系魔装具は装備しているが、護身程度しかできない。大統領府の地下から下町まで、かなりの距離がある。迷うことはないだろうが、果たして無事にたどり着けるか。


 気がかりは他にもある。夫人や娘のリオノーラなどがどうしているかだ。地上が一体どのような状況になっているのかが全く分からない。頼りになるエリオットらも不在であることだし、無事を祈ることしかできないのが辛いところだ。――まずは地上に出なければ。



 これだけ長いこと地下水道にいると、最初は鼻をついた強い臭いも気にならなくなっている。定期的に休憩を入れて大統領を気遣いながら進むが、ウォルターとてもう若くはなかった。薄暗い通路を延々と歩き続けていると、気が狂いそうだ。


「閣下、ご気分はいかがですか?」

「問題ない。それよりすまぬな、オースティン」


 物陰に身を潜めて休憩を取りながら尋ねると、大統領アレクシスからは謝罪が返ってきた。言いたいことは分かる――議会の場の警護に当たっていたのはオースティン伯爵家の私兵たちだった。彼らを見殺しに、ウォルターとアレクシスはここまで逃げ延びたのだ。


「……気になさらないでください。今は何よりも、閣下の御身が大切です」

「うむ……脱出したのちはすぐ状況を把握せねばな。キースリーの奴が、何をしたいのか……」


 長年タッグを組んできた補佐官キースリーの裏切りは、大統領にはショックだろう。ウォルターにしても、彼の謀反は驚きでしかなかったのだ。

 と、進行方向のほうで物音がした。はっとして立ちあがり、ウォルターが身構える。


「どうした?」

「足音がします――二、三人どころではない」

「追っ手ばかり気にしていたが、市街地から先回りということか」


 まったく動じた様子のない声だ。こんな時だというのに少し苦笑し、ウォルターはアレクシスを連れてその場を離れ、入り組んだ通路の奥へと向かった。この場ではまだこちらに地の利がある。敵を迷わせてしまえばいいだろう。


 そう思っていたのだが――どうも進む先からも、足音がしているではないか。敵もこの地下水道を熟知しているということだろうか。


「閣下、申し訳ありません――」


 咄嗟に、死を覚悟した。ここで挟撃されてしまえば逃げ場がない。自分一人の命を犠牲にしてでも、大統領を逃がせられないか――そう考えて護身用の銃型の攻撃系魔装具を取り出したところで、前方の角を曲がって人影が現れた。

 それと同時に発砲する。が、不意を突いたはずなのに敵はあっさりとそれを躱した。驚きで目を見開くと、その相手は軽く両手をあげて歩み寄ってきた。


「待ってください、オースティン伯。私たちは敵ではありません」

「……お前は!?」


 ウォルターがその正体を察して声をあげると、小さな影が飛び出してウォルターに抱き着いてきた。はっとしてそれを見ると、愛娘のリオノーラではないか。


「リオ……!」

「お父様! 無事でよかった!」


 さらにイアンまでいる。ウォルターは一気に緊張が解けるのを自覚した。


「お前たち、どうしてここに……」

「話はあとで。まずは離脱が先です」


 ヨシュアが促し、イアンがウォルターの反対側から大統領を支えた。リオノーラが先行し、ヨシュアが殿を預かる。その隊形で、五人は急いで移動を開始した。とにかくウォルターが驚いたのは、リオノーラがまるで迷いなく分岐路を進んでいる姿だった。まさか娘がこの地下水道の存在を知っているとは思わなかったから、なおさらだ。


 リオノーラたちは、テオの残した大統領府地下の地図と地下水道の地図を照らし合わせ、いくつか脱出経路の目星をつけた。そこからさらに、オースティン伯爵がどの道を選ぶかをしぼりこんで、賭けに出た。結果こちらの読みは的を射ており、こうして合流できたというわけだ。リオノーラは地図を何度も読みこんでいたので、経路がしっかり頭に入っているのだ。


 途中にあった梯子を登って天井をずらすと、そこは下町の裏路地に繋がっていた。周囲に人がいないことを確かめて、次々と地上へ出る。そこから数分も歩けば、すぐに万屋カーシュナーへと戻ることができた。

 やっと一息つけるようになって、リオノーラはウォルターに飛びついた。大統領までそこにいることなど、お構いなしだ。


「お父様ぁっ」

「リオ、無事だったのだな……助けに来てくれてありがとう」


 しゃくりあげながら首を振るリオノーラに、アレクシスが向き直った。


「私からも礼を言わせてくれ。お前たちがいてくれなければ、私もオースティンもあの場で息絶えていた。感謝している、リオノーラ嬢、イアン、それからそちらの青年も」


 窓辺に立って外を警戒しているヨシュアは、苦い笑みを浮かべた。大統領府に何度も侵入した経験のある怪盗ヨシュアとしては、大統領と面と向かって話すのは都合が悪いだろう。


「成り行きです。気にしないでください。……それより情報交換と行きましょう。大統領府で何が起こっていたのですか?」


 軽くウォルターがヨシュアのことを「協力者」だと説明し、アレクシスが口を開いた。


「……オースティン経由で、テオドール・ティリットから警告文を受け取った。かつて凍結したはずの兵器開発計画が密かに動いており、それがキースリーの主導かもしれんとな。極秘裏に調査を進め、私は確固たる証拠を掴んだ。そしてキースリーを告発しようとしたあの議会の場で――奴は大量の傭兵を手引きして火を放ったのだ」


 テオとエリオットが首都を発つ前、エリオットが父へ宛てた手紙。そこにはテオからの書状も差し込まれており、それがその警告文だったという。


「オースティンのおかげで、私は難を逃れた。だがおそらく、大統領府は既にキースリーが掌握しただろう。……市街地はどんな様子だ?」

「城門はすべで閉じられ、完全に身動きが取れません。下町や繁華街周辺で大きな乱闘は起きていませんが、貴族街は酷い有様。多数斬殺されたのを、この目で見ました」


 それを聞いてウォルターが目を見開く。リオノーラがぎゅっと父の服の裾を掴む。


「お母様が、捕らわれたみたいなの……イアンの家族も、無事か分からない」

「……そうか」


 眉をしかめたウォルターと、同じような表情で沈黙するイアン。アレクシスは顔を上げ、まだまだ張りのある声で宣言した。


「こうしてはおられぬ。すぐ戦力を集め、謀反人を断罪せねば」

「お言葉ですが、敵は戦いのプロフェッショナルです。ベレスフォードの警備軍が束になっても、傭兵は容易な相手ではないでしょう。そもそも、あの混乱でいったい何人が脱出に成功しているか」


 容赦のないヨシュアの言葉に、アレクシスが険しい顔をする。


「首都を脱出すれば、各地に警備軍が散らばっている。一か所に集めれば、それなりの軍勢となろう。いくら傭兵とて、倍以上の戦力を前にしてはなすすべもあるまい」

「その首都脱出が、もはや容易ではないのですよ。門という門はすべて閉じられ、家から出るのでさえ厳しい状況です」

「打つ手なし、ということか……?」


 ウォルターの呟きに、ふっとヨシュアは笑った。答えたのはリオノーラだ。


「お父様、お兄様とテオがいるよ。今はみんなの帰りを待つのがいいんだよ」

「その通り。そもそも彼らは、この兵器開発を止めるために旅に出たのです。キースリーにとって目の上のたん瘤であったティリットが首都を離れることで、キースリーは行動を起こす――今思えば、それを見越してティリットは首都を離れたのかもしれません。戦力としても情報源としても、彼らに勝る存在はないでしょう」

「いま僕たちができるのは、情報集めと退路を確保しながら、この店を守ること――ですね」


 イアンの言にヨシュアが頷く。若者たちの視線を受けたウォルターは理解し、納得した。時代の鍵を握っているのは自分たちではなく子世代だということ。年老いた自分たちにできるのは、彼らの行動の責任を取ってやることだけだということを。


「大統領閣下」


 ウォルターはアレクシスに向き直った。


「彼らを信じましょう。とにかく今は、反撃の機会を狙って力を蓄えるべきです」

「……うむ。すまぬが、頼む」


 アレクシスも決断を下した。エリオットらがいまどこにいるのかは分からない――だがきっと駆けつけてきてくれるはず。息子たちを信じると、ウォルターは心を固めていた。安否の分からない妻ナディアの分も、とにかくリオノーラだけは守るのだと、そう改めて誓ったのだった。

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