#302 常識が崩れ去っていく、勇者のせいで。
ゼフィルスが語った〈転職〉について、各地では大きな波紋が生まれていた。
迷宮学園・本校、特別級宿屋。
迷宮学園では学外からの訪問客は多いため、こうして専門の宿屋が数多く配備されている。ホテルではなく宿屋なのはゲームならではのお察しだ。
その宿屋の中でも最も等級が高い特別級宿屋は、所謂高級宿、VIPを泊めるため学園の景観を損なわない程度に配慮されて作られたその一室では、国立職業研究所の所長、ガギエフが声を震わせていた。
「聞いていた以上の感動だよ、ミストン殿。まさか〈育成論〉だけではない。〈転職〉についてこれだけの情報が出てくるとは思いもよらなかった」
「お気に召して何よりですよ」
ガギエフの向かいには本校の研究所所長ミストンが椅子に腰掛け、これまた声を震わせてそう応えていた。
本日、金曜日、選択授業が組まれていたとある授業の説明により、彼らは声を震わせずには要られなかった。
とある1年生、一学生が語った内容が、これまでの常識を真っ向から跳ね返すほどのインパクトを秘めていたためだ。
「〈転職〉、今まで研究のけの字も組まれなかった分野だ。少なくとも国立職業研究所ではこの分野で研究がされたことは今まで皆無だったよ。ミストン所長はどうかね」
「お恥ずかしながら、自分も今の研究が手一杯でして……」
「そうだろうな。君の低位職の発現条件の解明は本当に見事だった。職業の発現条件について、最も先進しているのはここの研究所に違いない」
「ありがとうございます」
本校研究所ではミストン所長の研究により低位職の発現条件がほぼ解明されていた。
王国各地に研究所は存在するが、誰もが高位職の発現条件に注目する中、敢えて低位職の発現条件にメスを入れ、高位職の解明につなげようとしたミストン所長の行ないは各地で高く評価されている。
彼が未だに本校の研究所で所長に就いていられる理由である。
「やっと高位職の一角が解明されたばかりだというのに今度は〈転職〉か、常識がひっくり返るな。我々も、新たな研究に手を出さなくてはならないようだ」
ガギエフの手には今日の授業のノートが握られていた。
彼の言葉を一字一句逃がしはしないと研究員が死ぬ気で書きあげた物だ。
それに改めて目を通し、手が震えて読めなくなってテーブルに置きまた読む、しかしどうしても間近で読みたくなってノートを手にとってしまう。
ガギエフは落ち着かない様子で、先ほどからそんなことを繰り返し続けていた。
―――――――――――
「―――よって、私は今からでも魔道師団の中位職以下全員を〈転職〉させるべきだと進言します!」
とある部屋の一室で非常に貴重な通信用魔道具にそう訴えかけるのは王宮魔道師団の副団長のマクロウスだった。
通信用魔道具はそれ単体では意味をなさないが、【通信兵】や【司令官】などが『コネクト』系のスキルを使うことで遠距離での通話を可能にすることができる。
【司令官】や【宰相】などに就ける「公爵」のカテゴリー持ちが、この世界にとって非常に重要な資源の塊であるダンジョンを任されている理由だった。
万が一が起きたとき、素早く各地と連絡が取れる「公爵」はこの世界の秩序の要と言っていい。
「マクロウスよ、少し落ち着きなさい。確かにあなたの話は理解は出来ますが、〈転職〉には大きな課題があるでしょう。いきなり〈転職〉してLV0になった団員は、その後どうするのですか?」
通信用魔道具の水晶体から聞こえてきたのは若い女性の声だった。
マクロウスの上官である王宮魔道師団長様、ご本人である。
当然ながら「公爵」のカテゴリー持ちであり【司令官】の職業持ちであり、今回『コネクト』で通信していられるのも彼女のおかげであった。
「し、失礼いたしました。少々興奮していたようです」
マクロウスはその言葉に自分がいかに興奮しているかを自覚し恥じた。
確かに〈転職〉は高位職に就け、さらに〈育成論〉によってより高みへと上れる、可能性の塊。
しかし、問題が皆無なわけがない。そのちょっとどころではない大きな問題があったからこそ〈転職〉は今までご法度とされていたのである。
〈転職〉すればLVはリセットされゼロとなる。つまり今まで普通に使っていたスキルも魔法も使えなくなり、果ては仕事が出来なくなってしまうということ。
無計画に〈転職〉すれば身を滅ぼす。この世界の常識だった。
その常識すら頭から飛ばしてしまうほど、マクロウスが受けた影響は大きかったということだ。
「で、では〈下級転職チケット〉だけでも収集していた方がよいかと進言します! 今後、間違いなく高騰しますし、手に入りにくくなります。師団員の分だけでも確保しておくべきかと愚考します!」
「ふむ。それくらいならいいでしょう。私も、今後は考え方を改めねばいけないようですしね。師団員の分はかならず確保いたしましょう」
「は! よろしくお願いします!」
通信用魔道具の水晶体の前でマクロウスが直立不動で敬礼する。
世界で最も早く動き出したのは王宮魔道師団だった。
――――――――――
「制度を改めなおす事に賛成します、ヴァンダムド・ファグナー殿。私も全身全霊を持って挑みましょう」
「こりゃ大事になりそうだわい。すぐにでも始めねば3年生に影響が出る。急ぐ必要があるの」
場所は変わって公爵家の一室、ゼフィルスも入ったことのある学園長室である。
ここでは渋い顔で書類を作成している男たちがいた。
1人は〈迷宮学園・第Ⅳ分校〉の分校長を務めているロロイクロイ。
もう1人はここの主であり迷宮学園最高責任者であるヴァンダムド・ファグナー公爵である。
「急ぎ〈下級転職チケット〉の確保を進めましょう。それと同時進行で法の改正案も提出しましょう」
「まずは会議が必要だの。分校長全てに通信をつなぎたい。主幹教諭クラスまでは参加するように通達せねばな。国王にはある程度草案が定まってからご参加いただこうかの」
「3年生の〈転職〉はどうしましょう? 時間が無いですが」
「留年させれば良いじゃろうが。言い方が不味ければ〈LVリセットされた時点で学年もリセット、1年生からやり直し制度〉でもよいぞ」
「ユーモアがありますね。しかし、名称は別で考えておきましょう」
いくつもの書類に目を通し、作成し、記入し、そのまま打ち合わせを続ける2人。
彼らは今、〈転職〉したときの制度の見直しに注力していた。
常識がひっくり返る。その時に真っ先に影響を受けるのは間違いなく学園だった。
現在3年生は6,000人強が在籍し、うち高位職に就いているのは僅か206人しかいない。
〈転職〉を希望する人は間違いなく多いだろう。
しかし、3年生には圧倒的に時間が無かった。在学期間は残り1年もない。
これではリセットをためらう者も続出するだろうし、下手にリセットしてLV不足で世の中に出て仕事にありつけず破滅する者も出るかもしれない。
故に、2人は話し合い、在学期間の延長を制度化する法案を提出することに決めたのだ。
これにより国がより豊かになり、学生に明るい未来が来ることを願って。
こうして、常識は少しずつだが、音を出して崩れ始めていく。




