第八章 三十四、一生を賭けた勝負
第八章 三十四、一生を賭けた勝負
普段、このオートドールになってからというもの、睡眠など不要だった。
――それなのに。
エラと添い寝をしている時は、数時間ぐっすりと眠ってしまうことが増えた。
けれど、それはエラとの時だけで、二人の特別なゴーストの繋がりがあるからだと思っていた。
(不覚だわ……)
今私は、とても窮地に陥っている。
ルナバルトに、腕枕と抱きしめることまでは許可したのを覚えているけれど……。
このような状況になるとは、全く想定していなかった。
先ず……ルナバルトは最初の形のまま、微動だにせずに眠っている。
実は起きているかもしれないけれど、目を瞑っていて呼吸も静かだ。
そして私は……どのくらい本気で寝てしまったのだろう。
なぜか、この体は――私の意志とは反した状態になっている。
(彼の腕から、頭を外したのはなぜ?)
それをいつしたのか、全く覚えていない。
(彼の胸が、顔の間近にあるのはなぜ?)
こともあろうか、全身で寄り添うように、向かい合っている……。
彼が作り出した少しのスペースの中に、すっぽりと納まるかのように。
これがどうにも、腹立たしいほど心地良い。
温もりという、抗い難い睡魔にうたた寝させられている。
意識が何度か戻っても、すぐまた寝入ってしまう。
その温もりがあることに安心を覚えて、どうしてもまぶたが閉じてしまうのだ。
(やっと少し、意識が戻ってきた)
それでも、このまま動きたくないという欲求が湧き上がってしまう。
(オートドールの、夜伽の機能かしら……)
そう思えば、諦めもつくような、つかないような。
少しだけ気を許したと思ったら、もう心の底では、彼を受け入れてしまったのだろうか。
自分が分からない。
でも、受け入れてあげてもいいかもしれないと、どうにもほだされてしまったような気がする。
「さいあく……」
この状態を心地良いと、どこかで思っている自分が最悪だと思った。
でも、最悪ではないと思っている自分も確かにいる。
それはもしかすると、後者の方が分が多いのかもしれない。
ならば、確かめなくては気が済まない。
私は本当に心を許したのか、それとも――同情かその延長線上でしかなく、体まで許すわけがないのかを。
それを試すにあたって、身を削るしかないのはどうしたものかと迷ったけれど……。
キスくらいなら、捨てても良いだろうと考えた。
体のどこかか、せいぜい頬くらいになら、と。
エラにはもうしているし、エラもしてくれているのだから……。
いや、思い返せば、リリアナとシロエとはもう、本当のキスをしている。
(なんだ、意外と楽勝かもしれない)
そう思って、目の前……というか、ほぼ接している彼の胸板に、キスをした。
シャツ越しなど、カウントにもならない。
(……少しはドキドキしたけど、大したことはなかったわね)
ならば、次は頬だろうか。
しかしこの体勢からでは、真上を向いて顎に……という感じになってしまう。
(いやむしろ……顎の方が、気持ちとして抵抗がないかもしれない)
問題なのは、意外ともぞもぞと動かなくてはならないことだった。
彼が起きてしまっては、この確認は続行できない。
勘違いされて襲われては、勢いで首を刎ねかねないから。
(もう……少し)
――クリア。
顎にキスをしても、何とも思わない。
これは……つまり、嫌ではないということだろうか。
一体何を確認しようとしていたのか、分からなくなってしまった。
でも、ここまで来たら頬までは達成したい。
この男が起きている時に、お願いをしてさせてもらう……という構図は納得がいかないから。
これは好奇心だ。
そして、探求すべき自分の心。
……だったような気がする。
(この人の腕が……邪魔)
抱きしめられていた時のそのままに、私に乗っている。
ベッドで上手く支えを作っているのか、腕の重さが全て乗っているわけではないけれど。
小さく匍匐前進を繰り返し、上に上にとにじり出る。
そうして上手く、彼を見下ろす形まで這い出ることが出来た。
(フッ……。何をされているかも知らず、よく眠っているようね)
気分はどこか、暗殺者のそれだ。
ターゲットは、不用心に眠りこけている。
その頬に、口づけを……。
するにあたって、何か褒美的な理由が欲しい。
なぜなら、エラにする時には、何かを褒めてのことが多いから。
単純に可愛いからという時も増えたけれど、この人はどちらかというと、鬱陶しい。
褒める理由も見つからないから……ここはやはり、全夫人への想いに対して、その同情としてが良いかもしれない。
(ではいざ……哀れなルナバルト様に、情をもって……)
――クリア。
……全て達成した。
特に……さして悪くはない。
むしろ達成感で、気分は良いかもしれない。
(意外と、どうということはなかったわね)
ということは、つまり。
(――どういうことだったっけ)
案外、綺麗な顔をしているこの人には、そんなに嫌悪感はないのかもしれない。
ならば最後は、口に……?
夫婦になるのだから、いずれは達成しなくてはいけない。
気分が乗らない時にしなくてはいけない時が来たら……少なくとも殴ってしまうだろう。
それなら今、一度だけ先にしてしまえば……慣れるかもしれない。
どんなに嫌で辛い訓練も、慣れればなんとなく出来てしまうものだ。
これも、似たようなものだろう。
自分の体だけで完結しないのが、どうにも気に食わないけれど。
(なら……今一度、情をもってその唇に……)
「おい、本当にいいのか」
「きゃあああああ!」
ばちんと開いた彼の目と、ほんの一ミリほど触れた唇とその声に、咄嗟に叫んでしまった。
「ルネ……耳元で叫ぶんじゃない」
「お、お……起きていたんですか!」
「俺は嬉しいが、急に無理をするなと言いたかったんだ」
「いつから起きていたんです」
話を逸らそうとしているから、少し前からに決まっている。
「……胸にキスをされた所からだ」
――ほぼ最初からだ。
「……たぬき寝入りがお得意なことで」
「期待くらい、してもいいだろう?」
自分から仕掛けたことを、これ以上責めるのも気が引けてしまう。
「ちょ、調子に乗らないでくださいね」
「なかなか酷い言い草だな。俺を信じてくれた証かと思っていたのに」
その言葉は、悲しんでいるのかからかっているのか、判別できなかった。
「……勝手にしたのは、謝ります」
側から離れたかったのに、彼の抱擁の腕が腰で引っかかって動けない。
「謝る必要はないが……俺の喜びを返してほしいな」
「返す……とは?」
こいつ……腰の腕を解こうとしない。
むしろしっかりと抱えて、離さないつもりだ。
「しようとしたここに、きちんと口づけがほしい。君が仕掛けた事だろう?」
まさか、最初から起きていたとは……。
全てはそこに後悔がある。
「嫌です」
「そんなに嫌だったなら、なぜ何度もキスをした?」
「その言い方だと、何度も唇にしたみたいじゃないですか」
そう言うと彼は、いつものいじわるな顔で笑った。
「どこにしようと、俺の体なのだから同じ事だ」
「ぜんぜん違います!」
「そうか? なら、試してみるべきだろう。同じかどうかを」
「……いいわ。試してあげる。これで嫌だったら、一生してあげないから」
これなら、私も気が楽だ。
このたった一度を耐えれば、これからずっとしなくても済むのだから。
「乗った」
戦う時の、鋭い目に変わった。
「本当に、約束は守ってもらうわよ?」
勝機は……というか、今この私が嫌がっているのだから、嫌な気持ちになるに決まっている。
「もちろんだ。君こそ忘れるなよ? 嫌でないなら、口づけは自由というわけだ」
……何か、条件を付け足していないだろうか。
「そんなこと言ってない」
「嫌なら一生しないのだろう? なら、そうでなければ自由にしても良いに決まっている」
「……一生よ? いいわね?」
負けるはずがない。
――そのはずだ。
「乗ったと言っている」
「わかった」
……なぜこの人とは、こういう賭けをしてしまうのだろう。
しかもなぜか、引き下がれないこちらの利を突いてくる。
「……じっとしてて」
いざ、尋常に勝負――。




