7.松岡
俺たちが二人で泊まったツインルームを出たところで同級生に出会った。松岡だ。この階は洋室だけが並んでいる階で、修学旅行生が宿泊している和室が並んでいる階ではない。それなのに松岡がいる。
大浴場や自動販売機がある階でもないので、何か理由がなければここにはいないはずだ。出会ったときに、松岡は少し困っている様子だったが、それでいて眼には何かを追い求める意志が光っていた。
「おはようございます、由紀先生。友くん。」
「おはよう、花梨ちゃん。」
「おはよう、松岡。」
俺たち二人を見つけた松岡は眼を輝かせて元気よく朝の挨拶をしてきた。
松岡は有名なブランドロゴの入ったパーカーにスリムなボトムを合わせて、ブルーカラーで整えたラフで動きやすそうな格好をしていた。そして俺たちから挨拶を返された松岡は、既に由紀が俺と一緒に居て車椅子を押していることに少し合点がいかない様子だった。
「由紀先生、友くんのところにいつから居たんですか?」
友くん、いくら洋室でも一人では大変だろうから、少しでも身の回りのお手伝いをしようと私は考えていたんです。でも昨日の夜は入浴の監督と困っている人がいないか部屋まわりをしていたら消灯時間を過ぎたので友くんのところには行けなかったんです。
だから今朝こそはお世話しに行こうと思って早起きしたんです。ただ友くんの部屋が何処か分からなくて、ホテルの人に聞いてもお客さんの部屋を教えることは出来ませんって言われたんです。だけどこのホテルの洋室はこの階にしかないから、この階の何処かにいるんだと思って来たんです。
松岡はここに自分が居る理由を力説した。誰に頼まれたわけでもないのに俺の手伝いをしようとするのは色んな意味でなかなか出来ることではない。松岡の行動力の源泉はなにだろうか。
今は朝6時半だ。6時前には眼が覚めた俺たちは、夜遅くまで話していたので少し眠気がするものの、身繕いするのには十分な時間があった。松岡は一体何時に起きたんかな。
「先生はさっき来たところよ。ゆうくんは早起きして自分でほとんど準備していたし、手伝ったのは少しだけよね。」
視線を俺に向けながら由紀は事実を曲げて何でもないかのように笑顔で説明したが眼は笑っていなかった。
「私が今日は友くんの車椅子を押します。昨日一日先生がずっと押していたし疲れたでしょう。交代で押す約束でしたし、由紀先生は今日一日休憩してください。」
由紀の説明を聞いた松岡は、少しトゲのある口調ではあるが、それでも硬い笑みを浮かべて由紀に向かって宣言するかのように言った。
松岡はそのあとすばやく由紀の手から俺の車椅子を奪いとると、エレベーターに向かって押し始めた。俺との一晩を過ごして満ち足りた気分の由紀は、それを見ても大人の余裕を見せて、仕方ないわね、という表情で後ろから歩いてついてきた。
車椅子を押しながら松岡が小声で俺に尋ねてきた。
「友くん、昨日の晩御飯は何処で食べたの。私はみんなと一緒に大広間で食べたけど。正座が出来ない友くんは難しいからどうしているんだろうと見渡したけどいなかったみたいだし。あと御風呂はどうしたの。」
俺はどう言おうかと少し考えたが、嘘で固めても無理があるので、ある程度正直に答えておいた。
「晩御飯は別室のテーブル席で食べたよ。あと風呂は実はギプスが外せるんで、外してからそーっとこけないように部屋のバスルームでゆっくりと入ったよ。」
「だれと?」
「晩御飯はさびしいだろうからって由紀先生が一緒に食べてくれたけど、風呂はさすがに一人で入ったよ。」
俺の返事を聞いた松岡は、後ろから歩いてくる由紀に一瞬挑むようなそれでいて悔しそうな視線を向けたが直ぐに戻して
「じゃあ、今朝は花梨が一緒に食べてあげるね。いいですよね、由紀先生。」
前半は俺に、後半は由紀に向けたセリフだった。
聞きようにとっては由紀に喧嘩を売っているようだった。松岡らしくないなと思って俺が首を後ろに曲げて松岡の顔を見ると、少し眼が赤いように見えた。そして表情は言うなら泣き顔に近かった。
松岡の顔の後ろに見えた由紀に向かって俺がわずかに首を縦に振ったのを見て、由紀は黙って俺にうなずきで返事を返してくれた。そして由紀は、今回は譲るわよ、と言外に含めながら言った。
「じゃあ、花梨ちゃんの食事を別室に運んでもらいますね。みんなの食事は7時からなんで時間が少し早いけど、食事の準備が出来たら食べ始めて構いませんよ。」
晩御飯を食べた部屋に松岡に車椅子を押して貰って到着した。昨日と同じテーブル席で、今朝は松岡と並んで一緒に朝食を食べることになった。
別室に来て座席に座ってから松岡は言葉を一言も発していなかった。朝食をウエイターが運んできてくれたときも頭を下げただけだった。朝食を目の前にしても見ているようで見ていないぼんやりした様子だった。
さっきから様子が変な松岡が気になっていた俺は声を掛けた。
「松岡、朝食きたよ。食べようか。」
俺の言葉が耳に届いたのか、ゆっくりと顔を俺に向けた松岡はか細い声で返事をした。
「ごめんね、友くん。無理やり花梨が一緒に食事をすることになって。嫌だよね、由紀先生と一緒のほうが良かったよね。」
松岡の眼には涙が溢れそうになっていた。
「なんで、そうなるんだ?」
「だって、私は友くんって呼んでるけど、友くんは私のこと花梨って呼んでくれないでしょ。」
「昨日一日、由紀先生と友くん、ずっと一緒で楽しそうだったじゃない。」
「それに由紀先生、友くんを、ゆうくんって呼びかたもいつのまにか変えているし。」
「さっき由紀先生とアイコンタクト取っていたよね。」
俺が由紀と仲を深めているの対して、花梨と名前呼びもしてくれない。由紀との間に無理やり割って入ったことで、俺に嫌われたと思っていると松岡は震える声で言った。
そのときの松岡は叱られている幼い子供のようだった。そして言葉の裏に隠れているのは、松岡が俺に好意以上のものを抱いてくれているということだろう。
松岡は今世の俺にとって幼馴染と言えるだろう。前世の俺にとって由紀がそうだったのと同じだ。ただ由紀と違って、俺は松岡と仲良くしては貰っているが、ある一定以上の距離は保って松岡を好きにならないようにしてきた。
おそらく突然の別れが来たときに俺自身が傷付くことを無意識のうちに恐れていたんだと思う。松岡とは小学校一年生からの付き合いだけど、6年連続でクラスが一緒だ。それでもつい先週まで松岡は俺のことを望月くんとしか呼んでなかったし、俺は松岡としか呼んでいない。
松岡はこの修学旅行で俺との距離を縮めたいと思っていたのかも知れない。それなのに骨折したことで俺は由紀との距離を詰めている。それを見ていたから松岡は今日の行動に出たんだろう。実のところ由紀と松岡は積極的という点で似通っている。
涙を流し始めた松岡を見たことで俺に前世の父さんの言葉が蘇る。
「女の子にはやさしくするんだよ。泣かすなんでもってのほかだからね。それでも何かで女の子をきずつけるようなことがあったら、ひたすら謝るんだよ。許してくれるまで止めたらだめだからな。」
15年以上前に言われたことで、しかも前世の俺が言われたわけだが、今世の俺にも共通して有効な部分がある。
しゃくりあげる松岡に向かって掛ける言葉は何がいいのか。たぶんどんな言葉も意味をなさないだろう。松岡は松岡自身の気持ちに動かされて行動して、得られた結果で泣いているわけだ。俺が慰めの言葉を口にしても心が和らぐことはないだろう。
今の俺が松岡に抱く感情は比較的仲の良い女友達だ。普通ならその延長上に恋が存在することもあるだろうが、今世の俺には存在することはない。その俺から出る言葉は好意以上のものではない。松岡が求めるものとは離れている。
小さく息を吐いた俺は、左脚を軸にして椅子から静かに立ち上がりテーブルに手をついて移動し椅子に座る松岡の横にひざまずいた。そして両手で顔を覆って泣きながら前かがみになっている松岡をゆっくりと両腕で引き寄せて軽く支えた。行動で思いを伝えることくらいしかできない。好意は抱いても愛情ではない。軽くが意味するところを。
静寂が支配する部屋で時間だけが流れていく。松岡が泣いている時間は数分だったろうか。その間に静かに出入り口のドアが開きかけた。隙間から見えた由紀の顔が、部屋のなかの様子を目線で確認して、やるせない表情の俺を見つめた。しばらく俺を見つめていたが、松岡の感情を理解出来ているらしい由紀は何も言わずにドアをそっと閉めて立ち去った。あとでしっかりフォローが必要な案件だ。
涙が止まり泣き止んだ松岡が、音を立てて大きく息を吸い込んだ。そして眼が涙で赤く腫れた顔を上げ、俺と目線を合わせた。
「ごめんね、友くん。」
それに対し俺は何も言葉は返さず白いハンカチで松岡の涙を吸い取った。
「友くんは、由紀先生のことが好き?」
「好きだな。やさしいし、命の恩人でもあるしね。」
そこには教え子が担任の先生に向けた憧憬以上のものが込められた響きが含まれていた。
「そうなんだ。うん、勝てないかな。」
そう呟いた松岡は再び泣きそうになりながらも押し留まり俺が渡した白いハンカチで目元を押さえると無理やり笑った。
「友くん、これからも友くんのこと友くんって呼んでてもいい?」
「別に問題はないよ、松岡。」
「やっぱり松岡なんだ。」
視線を合わせて正面から真面目に答えた俺に、現実に直面した松岡はショックを受けた様子であったが、先ほどのように取り乱すことはなかった。
「でも、あきらめないからね。これは独り言と思って頂戴。」
「遅くなったけど御飯食べようか。」
無理に明るく松岡は言葉を発して本来の目的を達しようとした。
小さい声で「いただきます。」と二人で言って食べ始めることになった。沈黙が支配する部屋でもくもくと朝食を摂るのは気分的に重い。
「松岡はさあ、朝ごはんって、ご飯派。それともパン派。」
そこには何処かで聞いたような質問を松岡に投げている進歩のない俺がいた。
朝食はパンに紅茶とサラダを基本とした洋食だった。由紀が朝食を松岡が俺と一緒に食べるのを容認した理由がこれにあったのかどうかは定かではない。
オムレツはチーズinであり、ソーセージはカリっとした歯ごたえとジューシーな肉汁と共にあり、部屋の中の雰囲気さえ良ければ老舗ホテルの名に恥じない満足できる美味しい朝食だった。心情的には砂を噛むような朝食を終えた俺たちは、何をするでなく椅子に座って黙っていた。
皆もそろそろ朝食が終わったかなとぼんやり俺が考えていたときに、突如松岡が意を決したように俺に向かって言った。
「友くん、私は友くんのことが好きです。」
「返事はいらないからね。聞かなくても分かっているから。でも、気持ちだけは伝えたかった。あきらめたくないし。それと今日一日は花梨の友くんでいてほしい。御願い。」
松岡は手を合わせて頼んできた。
前世で俺が出来なったことを敢然と行動に移した松岡を俺は素直に羨ましいと思った。今世があるから由紀とふたたび出会えたから前世で残したものを拾うこともできるが、今世がなければそれまでだった。だから俺はちゃんと答える義務がある。
「ありがとう。告白してくれてうれしい。でも俺は松岡のことを大事な幼馴染だと思っている。恋じゃない。」
まっすぐに松岡の眼を見て俺は口に出して言った。
「松岡がこれまで俺と仲良くしてきてくれたこと、一緒に笑ったり遊んだりしてくれたことは楽しかった。色々と助けてくれたことも本当に感謝している。今回の修学旅行でも。」
「だけど俺は由紀のことが好きだから、松岡と付き合うことは出来ないよ。」
「付き合うことは出来ないけど大切な存在として幼馴染でいて欲しい。」
その気持ちもないのに相手に期待を持たせるような、あるいは誤魔化すのは、相手が勇気を振り絞って示してくれた告白を、ないがしろにするのと同義だ。友達関係は壊したくないが、断る理由をはっきりと告げる誠実さは持ちたい。
俺が友貴としてのみ生を受けていれば松岡との道も当然あった未来だろう。だが俺は勇人であり友貴だ。記憶が繋がる俺の心のうちに抱える燃え盛る炎は、一度は引き離された運命の海を乗り越えて由紀に届こうとしている。
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