82場 ごめんなさいの後で
「メルディ、ゆっくり足を出して。大丈夫。落ちたりしないから」
「そ、そう言われても……。めちゃくちゃ怖いよここ〜」
隣に座ったレイに背中を支えられ、ゆっくりと足を投げ出す。確かに柵があるので落ちないだろうが、ゆらゆらと揺れるブーツの下に広がる地面を見ていると、お腹がひゅっとなる。
ここは最果ての塔の屋上……のさらに上に伸びる尖塔の先っぽだ。
背中側には三角錐の頂点で空を眺める風見鶏。お尻の下には人が一人立つのがやっとな幅の煉瓦の床。そして、目の前には転落防止というにはいささか頼りなげな鉄柵がある。
メルディはその柵の隙間から両足を投げ出して、レイと再び夜の街を見下ろしていた。吹き荒ぶ風に体を煽られながら。
「ちょっと待ってて。今、風を弱めるからさ」
腰のベルトに差していた杖を取って、拍子を取るように振ると、風はだいぶ穏やかになった。メルディたちの周りに薄い風のベールを張り、吹き付ける風を逸らしたのだ。相変わらず器用である。
「どう?」
「うーん、ちょっとマシになったけど……。レイがぎゅーってしてくれたら怖くなくなるかな〜」
これみよがしに甘えると、レイは大きく噴き出したあと、笑いながら左腕でメルディの体を抱き寄せてくれた。それに満足して、メルディもレイの背中に右腕を回す。
もちろん、レイの肩に頬を寄せることも忘れない。レイもそれに応えてメルディの頭に頬を寄せてくれたので、どこからどう見ても完全なバカップルだ。
グレイグに目撃されたらまた呆れられそうだが、もう寝ているはずだから問題ない。たぶん。
「すごい景色だね。夜のデートに連れてってもらったときも綺麗だと思ったけど、こうやって眺めるのも格別な気分。空よりも距離が近くて、まるで光の海みたいで」
「そうでしょ? ここは僕たちの一等地だったんだ。研究に行き詰まったらオーランドに運んでもらってね。男七人でぎゅうぎゅうになって、この景色を眺めたものさ。気が晴れたら帰りに鐘楼の鐘を鳴らして、逃げるように寮に戻ったんだ。よくミルディア先生に叱られたよ」
オーランドはレイの研究室の仲間のドラゴニュートだ。彼がいれば、たとえ尖塔の上でも易々と上れただろう。おそらく歴代の学生が似たようなことを繰り返した結果、三番目の不思議は生まれたのだ。
「言っとくけど、鐘を鳴らそうって言い出したのは僕じゃないよ。ベンカン兄弟が悪戯好きでさあ。モリスがいつもそれに乗るもんだから……」
とめどなく思い出を語る姿を黙って見つめるメルディに気づき、レイははっと口元に右手を当てた。
「あ、ごめん。つまらないよね、こんな話しても」
「ううん。すごく嬉しい。学生時代のレイの面影が見える気がして」
悪戯ものだったんだね、と優しく囁くと、レイは照れくさそうに耳を掻いた。
「呼び捨てで呼んでくれるようになって嬉しいよ。ずっと言いたかったんだけど、あの小部屋ではそんな雰囲気じゃなかったから。そのあとも」
「あのとき、倒れたレイを見たら咄嗟に出たんだよね。グレイグたちと練習した成果かな」
「何それ。そんなことしてたの?」
くすくすと笑い合い、メルディはレイの肩から顔を上げた。それに合わせてレイもメルディに向き直る。
お互い、手を差し出したのは同時だった。
大きさの違う手のひら同士を重ね合わせ、ぎゅっと握りしめる。震えを抑え込むように。夜の闇の中で、お互いを見失わないように。
「……私、ようやく気づいたの。レイに偶像を押し付けてたんだって。私がこんなだから、今まで辛いことがあっても言えなかったよね。研究室のお友達のことも、ヒンギス先生のことも……。本当にごめんなさい……」
「……僕こそごめん。ガキみたいなことを言って君を困らせて。あの小部屋で言ってた、もう一つの謝りたいことはこれなんだ」
レイは顔を寄せると、メルディの目尻に浮いた涙を唇で拭った。そのまま濡れた唇をメルディの唇に落とし、啄むだけの口付けをする。
「わかってるんだよ。君が好きになってくれたのは冷静な大人の僕なんだって。でも、君と過ごす時間が長くなるにつれて、次から次へと我儘な僕が出てきて、とても抑えられなかった。勝手だよね。結婚する前は、あれだけ君のことを子供扱いしといて」
そこで言葉を切り、レイは目を伏せた。
「ここに来てから、ずっと怖かったよ。大人のメッキが剥がれて、どんどん学生時代の僕に戻っていくのが。きっと幻滅したよね。だらしなく君に甘える僕にも、あんなドロドロした怒りを抱えていた僕にも。ミルディア先生の件も、集音器の件も本当にごめん。君に嫌われると思って、どうしても言えなかったんだ」
握りしめた手から震えが伝わってくる。
ナダルから小箱を譲り受け、ベッドの上で解いていたメルディに甘えてきたレイの姿を思い出す。あのとき、聞き取れなかった言葉。きっとレイはこう言っていたのだろう。
「こんな僕は嫌?」と。
「レイ、顔を上げて。私から目を逸らしちゃ嫌よ」
恐る恐る顔を上げるレイの唇に口付けを落とす。レイは目を白黒させている。
結婚して一年。考えてみれば、こうしてメルディから口付けるのは初めてだった。いつも、こちらからする前にしてくれていたから。
「確かに私は大人なレイを好きになった。でもね、私たちはもう夫婦なのよ。どんな姿を見ても今さら嫌いになるわけないじゃないの。髪の一本だって愛してるんだから。それに……」
内緒話をするように、長い耳に唇を寄せる。
「甘えてくれるレイ、なかなか良かったよ。可愛くて、思わず胸がきゅんとしちゃった」
ちゅ、と耳にキスをした瞬間、ものすごい力で抱きしめられた。
そのまま首筋に顔を埋められそうになって必死で止める。こんなところで、そんなことをしたら死んでしまう。物理的にも、社会的にも。
「ちょ、ちょっとダメだよ、これ以上は。落ち着いて、レイ」
「この状況でお預けって酷くない? ……部屋に戻る?」
「ダメ! 昨日、小部屋で魔力を使いすぎてボロボロになったのを忘れたの? 今日だってほぼ徹夜じゃないの。そもそも、何のためにここに来たのよ。お友達との約束を果たすためでしょ」
断固とした姿勢を貫くと、レイは渋々体を離した。
「今ばかりは、あいつらを恨むよ」
「もー、そんなこと言ってないで早く出して。ミルディアさんから預かってきたんでしょ。闇魔法がかかったポーチ」
レイが腰に付けていたポーチを外す。中に手を突っ込んで取り出したのは、樽からウイスキーボトルに移した賢者の雫とカップが二つ。
そして、おつまみ、おつまみ、またおつまみ。メルディたちがここで酒を飲むと知った教師や学生たちがくれたものだ。
教授選の一件で目立ってしまったとはいえ、よくもまあ、こんなに集まったものである。
「うわ……。何、この量。ありがたいけど、二人で食べ切るの無理じゃない?」
「残ったらグレイグたちにあげたらいいよ。若いんだから、ぺろっといけるでしょ」
確かに、ニールはともかくデュラハンが二人いれば大丈夫かもしれない。
頷きつつ、カップに賢者の雫を注ぐ。闇夜の中で揺らめく琥珀色の液体は、小部屋の中で嗅いだときよりも濃厚な香りを放っている気がした。
「じゃあ……。レイのお友達に」
「付き合ってくれる君に」
乾杯、とカップを合わせ、賢者の雫を口に含む。途端に広がる薬くささに、思わず咽せそうになった。
ニールが吹き出したのもわかる気がする。飲む前はナッツみたいな香りだと思ったが、とんだ間違いだった。変な香草と炒めて焦げたナッツだ。
「うわ、まずい。何でこんなにまずいんだろ」
「何入れたのレイ……。どう考えてもウイスキーの味じゃないよ……」
「覚えてない。だって百二十年も前だからね。みんな飲まなくて正解だったよ。五十年待ってこれじゃあ、暴動が起きるって」
レイはしばらく、くつくつと肩を揺らしていたが、やがてぴたりと動きを止めると、手にしたカップを強く握りしめた。
「……そう、正解……」
か細く震える背中をそっと撫でる。
ぽつぽつと雨音みたいな音を響かせながら、カップの中に落ちる雫は見ないふりをした。




