57場 渡された謎①
今では珍しい真鍮の丸ノブのドアを潜った先には、とても落ち着いた空間が広がっていた。初めて来た場所なのに、何故か懐かしい気配がする。
天井からぶら下がるのも真鍮の燭台だ。床には何百年もそこにあると思われる、くすんだ紺色の絨毯が敷かれている。
部屋の大きさは首都の工房と変わらないものの、天井が高いので圧迫感はない。明かり取りのために設けられた天窓には、玄関ホールと同じく美しいステンドグラスが嵌っていた。
「わあ、本がいっぱい……。レイさんが見たら喜ぶだろうなあ」
四方の壁を埋め尽くす大きな本棚には、本の歴史を辿るように、パピルス、巻物、紐綴じの羊皮紙、現在流通している紙の本が並べて置かれている。部屋に漂うインクの香りは、さながら図書館のようだ。
あまり換気はしていないらしい。鼻をくすぐる埃に、ついくしゃみが出た。
「大丈夫かの? 掃除が行き届いてなくて、すまんのう」
こっちにおいで、と手招きされて老人に近寄る。
部屋の奥には博物館に展示されていそうなレトロな大机があり、その上には分厚い魔法書や筆記具、そして球状の世界地図がきちんと整頓された状態で置かれていた。机は教卓のように前面に板があるので、老人の足元は見えない。
老人の後ろの壁には、色褪せた大陸地図や温和な顔つきの老女の肖像画が飾られている。耳が尖っているので、肖像画の主もエルフのようだ。
「筆記試験が終わればレイも自由に動ける。職員室に連絡しておいたから、それまでここに居ればええ。一番路は古くて脆い上に、生徒たちが暴れよるから、よくあちこち壊れて通路が封鎖されるんじゃ」
老人が杖を一振りした途端、部屋の隅にあった椅子が音もなく寄ってきて、どこからか飛んできたティーセットとお茶菓子が机の上に着地した。
息をするように魔法を使うなんて、さすが魔法学校の教師だ。
ここに来るまでの道すがら、メルディの素性については話していた。老人はレイの名前を知っていたから、おそらく昔からいるのだろうが、部屋のドアには何のプレートもかかっていなかったので、どの学科の教師なのかはわからない。
ただ、縁なしの眼鏡の奥にある理知的な緑色の瞳と絶えず口元に浮かぶ穏やかな微笑みは、メルディの肩の力を抜いて安心感を抱かせるには十分だった。
「それにしても、結婚したと聞いておったが、こんなに若くて可愛い子じゃったとはのう。学生時代は男子とばっかりつるんどったのに」
「主人のことをよくご存知なんですか?」
心の中で「主人」という単語に照れつつ返すメルディに、紅茶のカップを傾けながら老人が微笑む。
「よう知っとるとも。わしは魔法学校の創立時からここにおるからのう。あの子は優秀な子じゃった。三度の食事よりも魔法紋が好きでのう」
ミルディアと同じことを言っている。思わず笑みを漏らしながら、老人の名前を聞いていないことに気づいて、慌てて尋ねる。
学校の創立時からここにいるということは、ミルディアよりもドニよりも遥かに先輩だ。失礼があってはいけない。
「おっと、申し遅れたの。わしはエルドラド・フーディ。エルと呼んでくれていいぞ。見ての通り、しがないエルフのジジィじゃよ。昔は魔法学でブイブイ言わせとったが、今は授業を取り上げられた窓際教師じゃ」
とても窓際教師とは思えないが、もしかしたら校長と同じで引退間近なのかもしれない。
祖父のトリスタンも、国軍を引退する直前はリリアナに仕事を取り上げられていた。引き継ぎをしないといけないからと言って。
「そうじゃ。ここには創立時からのアルバムが保管されておる。もちろん、レイのもあるぞ。見るかの?」
「見る!」
即答したメルディの手元に一冊の本が飛んできた。ずっしりと重い革張りの表紙には『第六百七十四期生』と書かれている。
わくわくしながら表紙を捲ると、『探究』『思考』『好奇心』と魔法学校が掲げる標語の下に、『知識は求めるものにすべからく与えられる泉である』と創立者の言葉が書かれていた。
次のページにはエルドラドとは正反対の厳ついご面相の校長と、入学生たちの肖像画が描かれていた。
この時代にはまだ写真技術がなかったから、途方もない時間がかかっただろう。ずらりと並んだ生徒一人一人を囲む四角い枠は、まるで窓のようにも見える。
その中の一つに、レイの肖像画もあった。『レイ・アグニス』と記された文字の上で、緊張した面持ちをこちらに向けている。
さすがエルフだ。今と全然変わって……いや、少しだけ幼いかもしれない。ショートカットのレイは、少年らしいあどけない印象を受けた。
「ああ、私の旦那さま素敵すぎる……!」
「仲がいいんじゃのう。レイのどんなところが好きなんじゃ?」
「全部ですよ。私はレイさんの全てを、心の底から愛してます」
エルドラドに惚気つつ、さらにページをめくる。今度は肖像画だけではなく、風景画もたくさん載っていた。
五季折々の庭に、授業や文化祭らしきイベントの様子。生徒が一人だけ描かれているものもあれば、複数で描かれているものもある。どれもみんな楽しそうだ。
「あっ、ミルディア先生だ」
レイが研究室にいたときの絵なのだろう。今よりも若いミルディアの前に、レイを含めた七人の生徒が肩を組んで並んでいる。
左から『モリス・ウィズダム』、『アッシュ・ベンカン』、『ロナルド・ベンカン』、『オーランド・ウィック』、『カーズ・メイト』、『リオン・リバー』、そして、『レイ・アグニス』と名が記されている。
当時の魔法学校はエルフばかりだと聞いていたが、彼らはなかなかバラエティに富んでいた。
モリス、リオン、レイはエルフ。アッシュとロナルドはドワーフ。オーランドはドラゴニュートで、カーズは全身が闇に覆われたシャドーピープルだ。
種族は違えど、とても仲がよかったのだろう。満面の笑みを浮かべた彼らには、憂いや不安の文字は一切見受けられなかった。
「次は……エル先生だ。ドニ先生とヒンギス先生もいる」
ページをめくった先にあったのは、教師たちの集合絵だった。
最前列の中心には、エルドラドが今よりも少しだけ若い姿で椅子に座っている。その斜め後ろに立つのは穏やかな笑みを浮かべたミルディアだ。
エルドラドの真後ろには今よりも髭が短いドニが立ち、絆創膏だらけの顔に笑みを浮かべ、右腕にヒンギス、左腕にアリアという名のヒト種の女性を抱え込んでいた。彼女はエルフの血を引いているらしく、くすんだ金髪に緑色の瞳をしている。
「わあ……。綺麗な人……」
アリアは一目でわかるほど魅力的な女性だった。
黒縁の眼鏡の下から太陽のように明るい笑顔を覗かせ、白いローブから伸ばした腕を空に向かって突き上げている。
そしてアリアを眩しそうに見つめる、今よりも髪が短いヒンギスの目は、昨日とは比べものにならないぐらい優しかった。
「この三人、とても仲が良さそうですね。みんなタイプが違いそうなのに」
「入学時からの同期じゃからのう。破天荒なドニ、明るいアリア、そして真面目なヒンギス。よう三人セットにされとった。まー、ヒンギスは苦労しとったよ。ドニはあんなんじゃし、アリアも言い出したら聞かん頑固な一面があったからの」
少し耳が痛い。メルディも、よく頑固だと言われるからだ。
「アリア先生も、まだ魔法学校にいらっしゃるんですか?」
「いや、もうおらん。百二十年前に別の道に進んでしもうたのじゃ」
いつまでも変わらないものはない、ということか。
少し寂しい気持ちを抱きつつ、エルドラドにアルバムを返す。
「ありがとうございました。とても見応えありました。レイさんの貴重な学生時代の姿も見れたし」
「なんのなんの。レイをお借りしてるお礼じゃよ。せっかくの新婚旅行なのに、申し訳ないのう」
エルドラドにも話が伝わっているようだ。誰が言ったんだろう。ミルディアだろうか。
「そうじゃ、昼間は一人なんじゃろ? よかったら、この謎を解いてみんか?」
「謎?」
差し出されたのは古びた羊皮紙だった。




