28場 血の繋がりという呪い
「早かったな、マルコシアス。もう終わったのか? あの小娘はそれほど良かったか」
部屋とも呼べない粗末な空間の中心で、椅子に座り、机に肘をついたリアンが嫌な笑みを浮かべる。瞳はもう紺色に戻っている。
その周りではリアンの仲間――かつての臣下たちがラスタ側と交渉する準備を進めていた。
闇ギルドの人間たちに揃えさせた、姿を映すモニターと声を送るマイクという魔具だ。二十一年前には限られた人間しか知り得なかった技術も、今では誰でも扱えるようになった。
この場にいるのはマルクスを含めて四人。残りの三人は見張りについている。
「どうした、マルコシアス。初めて女を抱いて夢見心地になっているのか?」
反応のないマルクスを、リアンがもう一度呼ぶ。マルコシアス。それはマルクスのラグドール読みだった。とうの昔に捨てた名前。母親でさえ一度も呼ばなかったのに。
「俺には女性をいたぶる趣味はない。あんたと一緒にしないでくれ」
「私にもないさ。あれはほんの戯れだよ」
いけしゃあしゃあと嘘を言う。あのときマルクスが止めなかったら、メルディは酷い目に遭っていたはずだ。この男と半分でも同じ血が流れているかと思うと嫌になる。
「そう怖い顔をするな。赤目化したいのか? また村の二の舞になるぞ」
小さく舌打ちをし、リアンから顔を背ける。こうして人の古傷を抉ってくるのは魔属性故なのか。そんなマルクスの様子も斟酌せず、リアンが隣の椅子を引く。
「お前も座れ。準備にはまだ時間がかかる。たまには兄弟でゆっくりするのもいいだろう。ずっと生き別れだったんだからな。サラザールとアイダも生きていれば喜んでここに座ったはずだ」
サラザールとアイダはマルクスの異母兄と異母姉だ。サラザールは自治区を襲った魔物と戦って儚く散り、アイダは栄養失調で死んでいったらしい。
ラグドールが今どんな状況なのか、ラスタで育ったマルクスには想像ができない。リアンも多くは語らなかった。しかし、一人の男の人生を歪めるほどには壮絶だったに違いない。
だからと言って、今回の一件を引き起こしたのは許されることではないが。
「お前の瞳の色、母親にそっくりだな。顔は親父殿に似てるよ。エルフの血が入っているから、お前の方が女受けしそうだがな」
「……母さんのことを知ってるのか」
「それはそうさ。お前の母親は私とサラザール、そしてアイダの教育係だった。私たちの母親が病気で亡くなったあとに、親父殿はお前の母親を後添えにしたんだよ。婚姻届を出す前に戦争を起こしたがな。別に無理やりものにしたわけじゃない」
それは初めて聞くことだ。黙って見つめるマルクスに、リアンはふっと笑った。
「世間からどう言われようとな、私たちはれっきとした家族だったよ。ラグドールの民も同じさ。百二十年前の戦争で王国から公国になり、二十一年前の戦争で亡国になった。それでも人の営みは変わらない。我々にも生きる権利はある。そうじゃないか?」
それに答える術をマルクスは持たない。答えるべきでもない。沈黙を保つ姿勢をどう思ったのか、リアンが席を立つ。
「素面でする話でもないな。酒でも持って来よう。遅くなったが成人祝いだ。この国は物資が豊富で羨ましいことだな」
靴音が遠ざかっていく。マルクスの気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。そうわかってしまうのは、片方の血が囁いているからなのか。
血の繋がりというのは呪いのようなものだ。マルクスとトゥールのささやかな生活を破壊したリアンを憎む気持ちと、憎みきれない気持ちがせめぎ合っている。
それもこれも背後に透けて見えるからだ。リアンに未来を託したラグドールの民たちの想いが。とうに亡くした家族の思い出というものが。いっそ妄想に取り憑かれた男の戯言だったなら、どんなに良かっただろう。
「……そういや、ここのご領主さまも苦しんでたな」
ビクトール・ウィンストン。フランシス・ドレイクの幼馴染で、二十一年前の戦争で兄が戦死したばっかりに、家を継ぐ運命を背負わされた気の毒な男。
子供の頃から総領息子として嘱望されていたフランシスと比べられ、偉大な父親が築いた評判を落とさぬよう必死だった。
だから、行商人のふりをしたマルクスの「間違えて偽物を買ってしまった」という嘘に騙されて対面を許し、易々と洗脳されたのだ。
ブラムもそうだ。若干十八歳の少女にプライドを木っ端微塵にされた哀れな職人。マルクが訪ねたときには、金槌ではなく酒瓶を握っていた。
ぐしゃぐしゃの泣き顔で「俺の手はもう錆びついちまった」と呟いた言葉が頭から離れない。もしトゥールがいなければ、マルクスもああなっていただろう。
そして、レイ・アグニス。
メルディが心を寄せるハーフエルフ。旅の間、ずっとメルディを目で追っていることに気づいていた。もの分かりのいい大人のふりをしながら、メルディに近づくマルクスに敵愾心を抱いていることにも。
寿命の差がなければ、メルディの恋はとっくに叶っていたはずだ。
ラグドールの血、英雄の血、職人の血、エルフの血。マルクスだけではない。みんな、ままらない想いに苦しんでいる。
「メルディ……」
取り上げたポーチを机の上に置き、そっと撫でる。
上質な鹿革に、きっちりと揃った縫い目。きっと自分で作ったのだろう。工房では生活用品も手掛けていたらしいし。
そっと瞼を閉じ、こちらを見据える燃えるような眼差しを思い出す。初めて会ったときから、マルクスはあの炎に身を焦がしていた。
スライムのダンジョンでレイに言った言葉は真実だ。それを証明することは二度とできないが。
「きっと君は俺を許さない。でも、それでいい。全てが終わったらどんな謗りも受けるから、どうか事が済むまで大人しくしていてくれ」
全てがうまく進んでも、リアンたちの処罰は免れないだろう。マルクスも同罪だ。もし投獄されなかったとしても、ラグドールに永久追放もあり得る。
それでもトゥールの命が守れるなら構わない。
母親を失い、家を失い、ぼろぼろの体で彷徨っていたマルクスを拾い上げてくれた大きな手。マルクスが世間から忌避される魔属性の持ち主だと知っても、追い出すことなく金槌を握らせてくれた。
その恩に報いるのは今だ。逃げることなどできない。茨が敷き詰められた道をただ突き進むしかないのだ。
「待たせたな。ワインは飲んだことはあるか? 冷えてなくて悪いが」
右手にワインボトル、左手にグラスを持ったオルレリアンが机に近づく。そのあとを追って仲間の一人が駆け込んできた。顔は青ざめ、息がひどく荒い。
「オルレリアンさま! ドワーフがいません! あの少女もです!」
その場に沈黙が降りた。静かにワインボトルとグラスを机の上に置いたリアンが仲間を睨む。その目は禍々しい赤色に染まっていた。
「どういうことだ? 逃したのか? 牢屋の鍵は? あの小娘には手錠もしていたはずだ」
「それが……。地面に穴を掘って抜け出したようです。少女の牢屋の方にもそれらしき穴がありました。手錠は……その……ヘアピンで開けたようで。穴は魔素だまりの奥まで伸びていました。ドワーフの横穴に逃げるつもりです」
リアンが高らかと笑った。さっきまでの理性的な様子は欠片もない。ぞっとする笑みだった。
「……マルコシアス。どうやら、お前の師匠殿は命よりプライドを選んだようだな?」
「待て! 待ってくれ! 素直に従えば、師匠には手を出さないって約束したじゃないか!」
リアンは答えなかった。熱が消え失せた冷たい目で闇の向こうを見つめている。
背筋に汗が伝う。トゥールは殺される。メルディも無事では済まないだろう。
それなら、もう従う必要はない。
「あんたなんか兄でもなんでもない! 俺の家族は師匠だけだ!」
血の繋がりを振り払うが如く右手を振るう。机の上のワインボトルが地面に落ちて割れたと同時に、周囲を闇が包んだ。
闇魔法で生んだ闇は通常の闇より濃い。そして、闇属性を持つ人間は夜目が効く。
「マルコシアス!」
手を伸ばすリアンを突き飛ばし、マルクスは走った。暗闇の中で輝く光のもとへ。




