第30話 司君の表情
「穂乃香、今、どこ?」
司君、まだ私に気が付いていないんだ。さっきから、下を向いているし。
「…」
私は何も答えず、そのまま司君にゆっくりと近づいていた。
「もう中西さんの家かな」
「ううん」
「…あ、あのさ」
司君が言葉に詰まった。私は一回立ち止まった。
司君は携帯を持っていないほうの手で、髪をクシャクシャって掻きむしり、
「ごめん」
と一言、謝った。
「…」
「ごめん。間違えたりして…。本当に、ごめん」
司君は謝るたびに、どんどん頭を下げて行った。そして、はあってため息が聞こえた。
「自分でも、情けないって思ってる」
「…」
「穂乃香のこと、また泣かせたし…」
「…」
「ごめん。でも、戻って来てくれないかな」
「…」
「うちに…」
「…」
「穂乃香…?聞いてる?」
「うん」
司君は、とうとうその場にしゃがみ込んでしまった。そして、すごく悲しそうな顔をして、話を続けた。
「今、藤沢にいる。本当は、片瀬江ノ島に行くまでの間に、穂乃香を掴まえたかった。でも、足が動かなくなって、家を飛び出したけど、一足遅かったんだ」
「片瀬江ノ島の駅までは、来てくれたの?」
じゃあ、あの時の声、やっぱり司君?
「うん。改札に守がいて、今の電車に穂乃香乗って行ったよって。だから、すぐそのあとの電車に飛び乗った」
ああ、だからスエットのままなのね。
「…まさか、穂乃香が出て行くなんて思ってもみなかった」
「え?」
「おっきなカバン持った穂乃香を見た時には、ショックすぎて目の前真っ白になってて」
うそ。そんなにショックを受けてたの?あの鉄仮面のような顔、私が家を出て行くって知って、ショックのあまり、無表情になっていたの?そういえば、血の気の引いた顔色していたっけ。本当に鉄でできた仮面かぶってるようだった。
「つ、司…君」
「…うん」
「私が、司君の家にいたほうがいい?」
「…も、もちろん」
「司君のそばにいたほうがいい?」
私はそう聞きながら、うなだれて座り込んでいる司君に近づいた。
「もちろん。そばにいて欲しい」
「キャロルさんよりも?」
「…俺の彼女は穂乃香だし、誰よりも穂乃香にいて欲しい」
「……」
「穂乃香じゃなきゃ、ダメなんだ…」
司君はそう、ゆっくりとした口調で言うと、しばらく黙り込んだ。
私はすぐそばまで来ていた。でも、司君は全く気付いていない。さっきからずっと下を向いたままだ。
そして、もっとうなだれてしまい、司君は地面を見ながら、
「もう、穂乃香は、俺のこと…」
と、小声でボソッと言った。そしてまた、黙り込んだ。
すぐ後ろに立った。司君の背中、小さく見える。
それから、私は電話を切った。
「穂、穂乃香?」
司君は、携帯を耳から離し、しばらく携帯を見つめ、そして、は~~~~ってため息をついて、携帯を持ったまま、両手で髪を掻きむしった。
「もう、無理なのか」
司君の独り言が聞こえた。
キュキュン!こんなに近くにいるのに、すぐ後ろにいるのに、気づいていないんだ。私が電話を切っちゃったから、司君、落ち込んじゃってるんだ。
なんだか、小さく震えている背中がすっごく愛しいよ。抱きしめたいくらいだ。
私はそっと、司君の背中を抱きしめてみた。そして、
「無理じゃないよ」
とそう小さく耳元で答えた。
「…?!」
司君はものすごくびっくりしたようで、思わず前に倒れそうになり、両手を地面につけ、しばらく黙り込んだ。
「…穂、穂乃香?」
「うん」
「え?ど、どうしてここに?」
「さっきからずうっと、ここにいたよ」
「え?」
私が司君の背中から離れると、司君はようやく後ろを振り返った。
あ、うそ。目、真っ赤だ。泣いてたの?
「…さっきから?」
「駅前のカフェに、麻衣といたの。窓から走って行く司君の姿を麻衣が見つけて、それで私、慌てて追いかけてきたの」
「…」
司君は目を丸くして驚いたまま、聞いている。
「それで…。電話しながら、司君のもとまで来たの。司君、全然気づいていなかったけど」
「…はあ」
司君は安心したのか、小さなため息をつくと、立ち上がった。
「穂乃香…」
そして、確認するように私の名前を呼び、そっと私を抱きしめた。
「よ、よかった。電話切られちゃったし、もう、戻って来てくれないのかと思った」
「…」
ぎゅう。司君の抱きしめる腕に力が入った。
司君。ここ、藤沢。同じ学校の子もいるかもしれないよ?
それに、みんな見てる。
でも、そんなのおかまいなしに、司君は私を抱きしめたまま、離れようとしない。
「ごめん」
司君はもっと抱きしめる手に力を入れ、謝ってきた。
「…」
「本当に、ごめん。穂乃香。傷つけたよね」
「ううん。傷ついていないけど。でも、怒ってる」
「え?」
司君は驚きながら、私を抱きしめていた手を離し、私の顔を見た。
「怒ってる。だって、なんで私とキャロルさんを間違えちゃうのかなあって」
「ご、ごめん」
「なんで?」
申し訳なさそうに謝る司君の顔を覗きこみ、私は聞いてみた。
「穂乃香の夢を見ていたんだ。ベッドで一緒に寝ている夢。それで…、なんとなく誰かがベッドに潜り込んできたような気がして、また、穂乃香が俺の部屋に忍び込んだんだなって、そう思い込んで、それで」
「でも、胸の大きさも違うし、私じゃないって、なんで気が付かないの?」
「ごめん」
司君は、私の目を見ていられなくなったのか、視線を下げて謝った。
「ほ、穂乃香の匂いがしたんだ。きっと、シャンプーだ。キャロルも昨日、穂乃香のシャンプー使ったのかも」
「匂い?」
「それで、穂乃香だって、思い込んだ」
「…」
そ、そうだったのか~~。
「……どうしようかな」
「え?」
司君の腕を掴んで、そう言ってみた。すると司君は、また驚いたように顔をあげ、私を見た。
「司君のこと、まだ、許すのやめようかな」
「…え?」
あ、司君の顔、引きつった。
「…やっぱり、悲しかったかも。私、ショックでわんわん泣いたし」
「だ、だよね?うん。聞こえてたよ」
司君の顔がなんとなく、白くなってる。また、血の気引いてる?
「司君の顔、見てるのもつらくって、それで麻衣の家に行こうと思ったの」
「……」
司君、また下を向いちゃった。
「ごめん。泣かせて。俺、なんだか、穂乃香を泣かせてばかりいるような気がする」
「…」
「大事にするって決めたのに…。誰よりも大事なのに」
キュン!
その言葉、嬉しいかも。
駄目だ。私今きっと、意地悪になってる。こういうことを司君にわざと言わせて、喜びたいのかもしれない。
「ほんと?」
小さな声で聞きなおしてみた。
「…うん。なのに、なんで泣かせちゃうんだろ…」
「本当に大事?」
「…大事だよ?めちゃくちゃ大事だよ?」
キュキュキュン!
駄目だ。嬉しすぎて、今、顔、にやけそうになってる。私、性格悪いかも。司君は今きっと、私を泣かせた自分のことを責めているのかもしれないのに。
「穂乃香?」
私はにやけた顔を見られないように、顔をそむけて下を向いた。
「……今も、泣いてるの?」
司君は心配して、そう聞いてきた。
「ううん、だ、大丈夫」
泣いているどころか、にやけているし。
「あ…。カバンは?」
「カフェに置いてある。麻衣が見ててくれてるの」
「そっか」
「……」
まだ、顔が元に戻らない。だから、顔をあげられない。
「穂乃香?」
「…」
「あ、まだ、怒ってる?」
「ううん」
「…」
わ!司君が私の顔を覗き込もうとしてる。やばい!
ぎゅむ!顔を見られないよう、司君の胸にひっつき、顔を司君の胸で隠した。
「…え?」
「つ、司君」
「うん」
「私、決めた」
「何を?」
「私、司君の彼女だよね?」
「うん」
「司君は、私のこと、好きだよね?」
「もちろん」
「キャロルさんには負けない」
「え?」
「っていうか、えっと…。もっと、堂々とするようにする」
「……え?」
司君はきょとんとしている。
「だから、司君の部屋に忍び込むのも、抱きつくのも、ひっついているのも、キャロルさんじゃなくって、私がそうする」
「…う、うん」
「司君から、離れないようにする。もう、キャロルさんが司君に近づけなくなるくらい」
「…うん」
司君、うん、ばっかり。もしかして嫌がってる?引いてる?
「そ、そうしても、いいかな?私」
「……」
司君は黙ってまた、私を抱きしめた。そして、
「それ、すごく嬉しいから」
と照れくさそうな声で返事をした。
ドキン!
そうなんだ。嬉しいんだ。
ぎゅぎゅ!私も司君を抱きしめた。
そうして、ようやく我に返った二人は、周りの人が、白い目で私たちを見ているのに気が付いた。
「朝から、いやあね」
「こんなところで、抱き合わなくても」
という、おばさんの声もひそひそと聞こえてくる。
「あ…」
私と司君は慌てて離れると、
「麻衣が待ってるから、戻ろうかな」
と、私は歩き出した。
司君は黙って私の横を歩き出した。そしてボソッと、
「中西さんには、迷惑かけちゃったよね」
とそう言った。
カフェに着くと、麻衣が立ち上がって私たちに手を振った。私たちが2人並んでいるのを見て、どうやらほっとしたようだった。
きっと、心配しながら待っていてくれたんだろうなあ。
「ごめんね?麻衣」
「いいよ、いいよ。穂乃香のその顔は、仲直りできたってことでしょ?」
「うん」
私はちょっとはにかみながら、うなづいた。すると、司君も隣ではにかんでいた。
あれ?ポーカーフェイスじゃないんだなあ。
「はい。司っち、カバン家まで持ってあげてね」
「あ、うん」
「じゃ、私はここで」
「ありがとうね、麻衣」
私がそう言うと、麻衣は私のすぐ横に来て、
「クリスマスまでに、いろいろと初めての日の心得、教えてね」
とそう言って、にこりと笑って、お店を出て行った。
わ~~~。顏、熱い。なんであんなことを、最後に言うかな。麻衣は。
「…心得?」
司君は席に着くと、私に小さな声で聞いてきた。
「あ、き、聞えてた?今の」
「…中西さん、もしかして」
「……。ば、ばらしちゃった。私。ごめんね?」
「………。そ、そっか」
司君は、一瞬眉をしかめたけど、コホンと咳払いをして、普通の顔に戻り、
「俺、なんか飲んでもいい?喉カラカラで」
と聞いてきた。
「うん、いいよ。あ、でもお金ある?」
「ここ、パスモで支払えるよね?それか携帯で…。俺、慌てて出てきたから、携帯と定期だけは握りしめてきたんだけど、財布忘れてて」
「…私、払おうか?」
「…いいよ。多分、大丈夫」
司君は静かにそう言うと、席を立ってカウンターに行った。
ああ。慌てて追いかけて来てくれたんだ。それも嬉しい。
焦った顔も、切なそうな顔も、ほっとした顔も、目が真っ赤だったのも、なんだか、全部嬉しい。
私が大事だって言ってくれたのも、穂乃香じゃなきゃダメだって言ってくれたのも、嬉しい。
やばい。また顔、にやけてきたかも。
私は下を向いて、席に座っていた。すると司君は戻ってきて、
「どうしたの?」
と聞いてきた。
「なんでもないの。の、飲んで?」
顔もあげず、そう答えた。
「うん」
司君は、そう言うと、グラスにストローも差さず、そのままグググッとコーラを飲んだ。
「……はあ」
そして一息してから、司君は黙り込み、どうやら私のことをじいっと見ているようだ。すんごい視線を感じるから。
「穂乃香?」
「え?」
「さっきから、下向いてばっかりだけど」
「うん」
「…落ち込んでる?」
「ううん」
「じゃあ、怒ってる?」
「ううん」
「…じゃあ?」
「に、にやけてる」
正直にそう言うと、司君は、
「え?」
とびっくりした声を出した。
私はもっと顔がにやけそうになり、両手で隠してから、
「だって、司君が大事って言ってくれて、嬉しいんだもん」
とそう答えた。
「………」
司君は何も言わなかった。
ちらっと司君の顔を見た。すると、司君も真っ赤になり、にやけた顔をしていた。でも、
「なんだ。心配して損した」
と、静かにぽつりとそう言って、コホンと咳ばらいをした。
「つ、司君」
「ん?」
「本当に、私が出て行って、焦った?」
「…焦った…なんてもんじゃなかった」
「…」
司君の顔を見た。あ、じっと私を見ている。
「俺、本当に、本当に、穂乃香がいないと駄目みたいだ」
「…」
キュキュキュ~~~ン!
今、ちょっと切なそうな、そんな目をした。その表情、思い切り胸を締め付けさせた~~~。
ドキドキドキ。
もっと顔が熱くなってしまい、私はまた両手で顔を隠した。
「また、にやけてるの?穂乃香」
「ううん。今は、えっと。胸キュンして、窒息しそうなの」
「…そ、そうなんだ」
司君はまた、コホンと咳払いをすると、
「なんか、穂乃香、さっきから…」
「え?」
「す、素直に言ってくれるから、照れる」
と、ものすごく照れくさそうな顔をして、ぽつりと言った。




