王妃の黒い髪(後編)
女官達にすすめられて渋々着替えたナファフィステアだったが、美しい衣装に身を包めば気分も変わる。面倒だと思ってはいても、着飾るのが嫌いなわけではないのだ。
ナファフィステアは息子ヴィルから話を聞いた時と比べればかなり落ち着いた様子で執務室の扉をくぐった。
「陛下、ごきげんよう」
軽やかな挨拶が室内に響く。すでに執務は終了し、ぞろぞろと事務官吏達が退出しようとしているところだった。皆が一斉に手を止め、王妃へと礼の姿勢を示す。
ナファフィステアは彼等へ答えるように小さく頷いて返すと、部屋の奥へと足を進めた。そして、奥の小部屋へ続く入り口で立ち止まる。
「少し話があるの。いいかしら?」
と、笑顔で陛下を奥に誘った。
「珍しいな」
陛下の漏らした言葉は、美しく着飾った王妃の姿になのか、それとも、王妃が執務室まで出向いたことへなのか、耳にした者達には判断できかねた。しかし、陛下が立ち上がり、王妃のもとへ歩みよる足取りで機嫌が良いのは明らかだった。
女官達が心配していたように、本宮ではすでに美しい娘が陛下の目に留まるようあちこちに配され、再び新しい妃を娶るための準備が整えられていた。前回がそうだったからといって、今回の妊娠期間中も妃を迎えないとは限らないからだ。
とはいえ、執務室の者達は小さな王太子と王妃が執務室を訪ねてきた時の様子を間近に見ており、王が王妃と息子をどれほど大事にしているかはよく知っていた。王太子が別宮へと移り住むようになってからは、王妃が執務室を訪ねてくることはなくなったが、代りに王が執務の合間に足繫く王宮奥へと足を運んでいる。それは、息子がいなくなり寂しい思いをしているだろう王妃を慮ってか、ほぼ毎日であり、一日に複数回王宮奥を訪れることもあるほどで。王の王妃への溺愛ぶりは衰え知らずだった。
そのため、新しい妃をとの動きは極めて鈍かった。
そんな先輩事務官吏をじれったく感じたのが、勤めて日の浅い者達だった。本宮で王妃の姿を見る機会がなくなったことで、彼等は王の異常なほどの執着をまだ知らなかったのだ。
いかに王が王妃を溺愛しているかを口で説明されたとしても、実感はともなわない。王妃と共寝する夜を減らしているこの状況で、なぜ新しい妃を迎えようとしないのかと思うのも無理はなかった。
今こそ新たな妃を迎えて王宮を盛り立てようと意気込む彼等の様子は、数年前の自分の姿を見ているようで、先輩事務官吏達はむず痒い気持ちになるのだった。
しかし、彼等のいうように今が妃を迎えるチャンスであるのは間違いではない。そこで、意欲のある者達に新たな妃を迎える準備を任せることにした。
妃候補として王宮に招かれた美しい娘達へ、まだ王の声はかからない。
娘達は確かに王の視界には入っていたが、それは何の役にも立たない者がそこに居るからでしかなく。王太子を妊娠していた頃の方がまだ宰相や側近達の顔を立てていたのだと感じさせるほど、今回の娘達に王は無関心だった。
このままではダメだ、王の興味はどうすれば惹けるのか、と頭悩ませる若き事務官吏達の前で、王妃はいとも簡単に王を小部屋へと連れ去ってしまう。黒髪黒目で一児の母とは思えない子供のような娘という強烈なインパクトを残して。
先輩官吏達は、この後、妃候補の選考基準が迷走するだろうと、数年前の自分達の行動を思い返しながら予想した。自分達と同じ結果となるとは限らないが、失敗したとしても慰めこそすれ誰も責めないに違いない。
王が小さな王妃を腕に抱え上げ、それに小声で抗議しながら王妃が王の肩を叩く。大人と子供サイズで、ちっとも絵にならない夫婦だ。しかし、執務時の無表情で厳格な王とは、表情には出ていなくとも空気がまるで違う。
相変わらず王妃だけかと残念なような安堵しているような、とにかく、王妃様が元気なようで何よりと思いながら、事務官吏達は次の執務のための仕度にとりかかった。
さて、執務室奥の小部屋では。
「陛下っ、聞いたわよ。私の髪の毛を集めて保管しているんですって?」
ナファフィステアが王アルフレドに不満そうに尋ねた。
彼女はベッドに腰を下ろしたアルフレドの膝の上に大人しく収まっている。声が小さいのは、執務室と小部屋を隔てる扉がないので、外に聞こえないようにするためだ。
「そうだな」
アルフレドはいたって軽く答えた。その悪びれない様子に、ナファフィステアは語気を強める。
「本当に保管してるの? 私が髪を切った時のだけじゃなく、床に落ちているゴミもだって聞いたわ。ほんっとうに?」
「当然であろう」
「当然じゃないわよっ。いくら黒髪が好きだからって、おかしいでしょ! 抜けた髪なんてただのゴミよ、ゴミ!」
「ゴミではない。そなたの髪だ」
「私の髪で、その私がゴミだと言っているの! 落ちた髪はゴミです! さっさと捨ててっ」
ナファフィステアは王の衣服の首元を掴んで引き締めるようにして訴えた。だが、実際に息苦しくなるほどにはならない。彼女がそうしたいと思っても、力が弱すぎるのだ。声にしても、口調はきつめだが、あくまで小声なので迫力は皆無である。
出産しても以前と変わりなく、いや、前よりもさらに肌艶が増した彼女は、駄々をこねて甘える小さな子供で色香も滲むという何とも不思議な存在だった。
アルフレドはしばらく答えず、じっと無言で彼女を見つめた。
「なっ、何よ」
視線の圧に怯むナファフィステア。
勢い削がれた様子に、アルフレドは努めて事務的な声色で尋ねた。
「突然、なぜそのようなことが気になったのだ?」
「だって、ヴィ……リリアから、私の髪の毛を1本でも持っていると窃盗になるって聞いたのよ」
「当然であろう。エテル・オト神殿の事件を忘れたか? 身を離れた髪の毛も、そなたの一部だ。それを何者かに悪用されてからでは遅い」
アルフレドはナファフィステアの頬に唇が触れるほど近くで囁いた。
「それは……。私の髪って、燃やしたらどうにかなるの?」
「何も起こりはせぬ。だが、起こると戯言を口にする者が現れぬとは限るまい。他にない髪色であるがゆえに、誰にも利用されぬようにせねばならぬのだ」
ゆっくりと説くアルフレドに、ナファフィステアも反発を弱める。
「そう……ね。エテル・オト神殿の神官長は妄想を膨らませたせいで、私を殺そうとしたんだったわ。私が死んでも、故王妃の粉と同じものにはならないのに。私の髪って、珍しいから……処分するにも面倒なのね。でも……ゴミだし……、保管されてるのも、気持ち悪いし……」
ナファフィステアは視線を落とし、まだ納得がいかないのか、ぶつぶつとぼやき続けた。
アルフレドの膝の上に座ったまま首元に頭を預け、腕の中にすっぽりと納まった状態のナファフィステアは、傍から見れば甘えているようにしか見えない。
そして、アルフレドにも、彼女が愚痴をこぼしながら甘えているだけに映っていた。
息子のヴィルフレドが産まれる前はこれが日常だったのだと思い返しながら、アルフレドは彼女をなだめるようにゆっくりと背を撫でる。
こうした時間は王妃の居間でゆったりと過ごす時と大差なく、場所が執務室の小部屋というだけのこと。ナファフィステアは態度を変える必要を感じていないようだった。
執務室に来ても態度が同じであることがアルフレドを喜ばせるのだとは、彼女は想像すらしないに違いない。
ナファフィステアが執務室を訪れた時、迎える側近達の姿勢は昔のそれとはずいぶんと変わった。妃から王妃となり、王太子の母となり、エテル・オト神殿の事件を経て、今では誰もが彼女をその身分に相応しく丁重に扱うようになったのだ。王宮で開かれる催しに出席する貴族達や、王妃と面会する者達はもっとあからさまに彼女への態度を変えたはずである。
今は彼女を称賛し、もてはやす者達であふれている。そして、王太子の母であり、王妃という国内で非常に高い身分にあることも理解している。これほど彼女を取り巻く環境が変わったのだから、良くも悪くも態度は変わるべきなのだ。権力や財力に溺れて変わっていく者が多いことを、アルフレドはよく知っていた。
しかし、ここまで変わらないとは。彼女の図太さには驚嘆するしかない。何度でも驚かされる。そして、この奇妙な娘により一層執着し魅かれてしまうのだ。
「ねぇ、陛下?」
「何だ」
腕の中で大人しくしていたナファフィステアが突然顔を上げた。
「陛下は私の髪をたくさん持っているのよね?」
「……多くはない」
「前に、私の黒髪を付けた鬘ヘルメットも陛下がどこかに持っていっちゃったけど、それも捨ててないんでしょう?」
「……」
「あれに付けてた髪は外したの?」
「……」
「ねぇ、陛下。保管してある黒髪を私に分けてくれない?」
「…………何をしようというのだ?」
「改良版の鬘ヘルメットを作ろうかと思って」
涼しい顔で言い放ったナファフィステアの顔を、アルフレドは驚きの表情で見つめた。
彼女のいう鬘ヘルメットとやらを身に付けた時に起こった出来事が、アルフレドの脳裏によみがえる。あっという間に床に崩れ落ちた彼女、戦慄した一瞬。そして、その後、あれが重すぎたせいで彼女は首の骨を折りそうになったのだと、あまりにもあまりな理由に気づいた時の驚愕。忘れたくても忘れられない衝撃の出来事だった。
「そなたはっ!? 一体何を考えておるのだっ。以前、あれを頭に付けて死にそうになったのを忘れたかっ」
アルフレドの怒声が響き渡る。穏やかな気分など吹き飛んでしまっていた。
「忘れてないわよ。あの時は、さすがに危なかったのよねー」
のんきな口調で答えた。本気で危ないと思ったか?と問い詰めたいほど、危機感は感じられない。
「だから、今度はもっと軽いものにしようと思うの」
「そなたの命が危うかったのだぞっ。それを、それをっ、また作るだと!? 許すわけがなかろう!」
アルフレドは怒り露に告げたのだが。
ナファフィステアは王の圧に屈するどころか、アルフレドが間違っているかのように答えた。
「何を言っているのよ。失敗を繰り返してこそ、いい品ができるんじゃない。成功のためには、何度もチャレンジ&失敗しなきゃ。それに、私の黒髪ゴミをリサイクルするのにちょうどいいと思わない?」
彼女の図太さは、無神経なほどの鈍感さでもある。そしてそれは、アルフレドを喜ばせることもあれば、こうして苛立ちを感じさせる場合も少なくない。どちらか片方だけを望むことはできないのだ。
「黒髪は、ゴミではないっ」
「とにかく黒髪を分けてよ」
「そなたには、髪一筋もやらぬ!」
アルフレドは意固地に断じた。保管庫に置いてある黒髪を分ける分けないで声を荒げている己を、おかしいと思い、感情を鎮めるべきと感じてもいたが。
黒髪の価値を理解せず、死にかけた過去をさして反省もしないまま再度作るという愚かな者に、折れてやる必要などない。と、彼女に冷ややかな目を向けた。
それにはムッとしたようで、ナファフィステアも声を抑えるのを止めた。
「あれは、もともと私のでしょっ! 保管してるだけより、使った方が有意義じゃないの」
「そなたも、そなたの黒髪もすべて余のものだっ!」
「陛下のじゃないわ、私は私のものよっ。分けてくれないならもういいわよっ、自分の髪を切るから」
「勝手に切るなと言っておろう」
「私の髪をどうしようが私の勝手でしょっ。もうすっぱり短く切ってやるんだからっ」
久々に王妃が訪ねてきたというのに、執務室内には小部屋からの盛大な夫婦げんかの声が漏れ聞こえていた。事務官吏達にしてみれば、王の怒声を耳にするのは精神的にあまりよろしくない。言い争っている話題が、王妃の髪を切る切らないという他愛ない事柄であったとしてもである。彼等にとって、王の言葉は絶対だからだ。加えて、この国王夫妻の喧嘩で王妃が王の寵愛を失うと誤解する事務官吏が一人ではないに違いなく。執務室の事務官吏達は悩ましい顔をしていた。
それに対して、小部屋入り口で控えていたリリアは、清々しく美しい笑みを浮かべていた。今日の勝利を確信したからである。
執務室に到着するまでに、妃候補とおぼしき身分の高い娘と何人も遭遇した。すでに陛下のまわりに女性達が何人も用意されている。にもかかわらず、陛下は執務室に現れた王妃に満足そうな目を向け、抱き上げると小部屋へ閉じこもった。王の目に留まりそうな妃候補はいないということ。
そして、陛下が怒っている様については、これくらいなら媚薬的な役割を果たす。この興奮が続く間、陛下はナファフィステアを離せなくなるのだ。
さすが王妃様と、リリアは安堵の溜息を吐いた。そして、王妃様に髪を切らせないようどう説得するかに考えを巡らせるのだった。
結局、王妃ナファフィステアの黒髪の扱いが変わることはなかった。後宮から王宮奥に移った時から王妃が亡くなる時まで、見つかった黒髪は保管庫に集められ続けたが、後世に残された箱には何も入っていない。ただ、最後の髪を収めようと箱を開けた時、黒毛の山が煙のように消えたという記述が残されているのみである。
~The End~




