王妃の黒い髪(前編)
寂しい王子様(その後のその後)のしばらく後のお話です。
王太子宮と王宮奥を結ぶトンネルが完成し、二人目を身籠った後のこと。
※時系列バラバラなのでご注意ください。(この話は前後編です)
「あ、母様の髪の毛だ」
王太子ヴィルフレドは床を見て声を上げた。柔らかな絨毯の上に落ちた長い髪の毛を小さな手でつまむと、ほらっとばかりに腕を高く上げる。そして、そのままひらひらと揺らしながら、母である王妃ナファフィステアのもとに駆け寄った。
「母様の髪の毛って、黒いからよくわかるね!」
ソファに腰かけお菓子をつまんでいる母の横に腰をおろし、明るく言った。
ナファフィステアは表情を曇らせる。
「床に落ちた髪の毛なんて汚いわ。それを捨てて、早く手を洗ってらっしゃい。でないと、このお菓子は母様が全部食べてしまうわよ?」
息子にそう言って、テーブルの上に置かれた菓子の皿を手にして独り占めするかのような仕草をして見せた。
近頃、王宮奥の王妃の居間には、執務の合間に休憩がてら陛下が訪ねてくるのに加え、王太子宮に暮らしている息子が定期的に訪れるようになっていた。もちろん、王太子が王宮奥を訪ねているのは公には秘密である。王妃が掘った王太子宮と王宮奥の庭を結ぶ通路を通って往来しているので、女官や騎士達が黙っていれば知られることはない。父王と息子の時間が合うことはそれほどないものの、国王一家の家族仲はすこぶる良い状態が保たれていた。
「母様、これは捨てたらダメなんだよ?」
「え?」
息子は逆に母を諭すように言い返した。ナファフィステアは?と疑問の表情を浮かべる。
捨てたらダメというのは、ヴィルフレドがしっかりと掴んでいる黒い髪の毛を捨ててはいけないという意味だとはわかるけれど、一体なぜ?
少し首をかしげて真面目な顔をした息子は、素晴らしく凛々し可愛いくて、ナファフィステアはうっかり見惚れて深く考えることを放棄してしまいそうになる。しかし、ゴミは捨てさせなければならず……。
そんな母の戸惑いに気づくことなく、息子はなおも言い募る。
「母様の髪の毛は、捨てたらダメなんだ。ちゃんと父様に渡さないと。母様もそうしないと父様に叱られてしまうよ?」
ヴィルフレドの声はだんだんと心配そうな響きを帯びていた。しかし、ナファフィステアは息子の口から出た言葉が予想外すぎて理解に苦む。
「何、ですって?? 父様に渡す? 床に落ちていた髪の毛を?」
「そうだよ。知らなかったの、母様?」
「ええ……知らなかったわ。全然、ちっとも、全く、知らなかった…」
ナファフィステアはそう呟いた後、ふと侍女リリアを見た。
ところが、なぜか芳しい反応は返ってこない。リリアが王妃の視線の意味がわかっていないはずはない。なのに、どうしてかスルーされている。これはおかしい。
ナファフィステアは瞬きもせずに視線を送り、疑問を訴えた。訴えて、訴えて、訴えて。それでも、穏やかな笑みに流されてしまうので、仕方なく言葉で伝えることにした。
「リリア、床に落ちていた髪の毛も、陛下に渡さなければならないの?」
この話題は気が進まないけれども、息子の言葉の真偽を知るためには仕方がない。
王妃付きの侍女リリアはナファフィステアに問われれば隠す理由もないため、ゆっくりとした口調で答えた。
「陛下は王妃様の髪の毛を捨ててはならないと仰せになりました。ですので、掃除や洗濯などで見つかった髪の毛は全て綺麗に洗った後、保管庫に届けております」
ナファフィステアはぽかんと口を開けて、しばらく絶句した。
「保管庫? じゃあ、私が今まで切った髪も、全部、保管されているの?」
「届けた後については存じません。ですが、王妃様の髪をひと筋でも所持しているとなれば窃盗とみなされますので、取り扱いは十分に注意いたしております」
「窃盗……」
「ほら、僕の言った通りでしょう?」
唖然とするナファフィステアに、ヴィルフレドは得意そうに言った。
「そ……そう、ね」
「父様が怒るととっても怖いから、母様も髪の毛を拾ったら、父様に渡してね? ね、母様?」
ナファフィステアは、その髪の毛はもともと私のものであって、どう処理しようと陛下にどうこう言われる筋合いはない! とか、いくら黒髪好きでもゴミまで集めるってキモすぎでしょ! とか、いろいろ思うところはあったのだけれども。
母を心配するヴィルが可愛くて可愛くて。
「知らないままだったら父様を怒らせてしまうところだったわ。教えてくれてありがとう、ヴィルフレド」
ナファフィステアは隣に座る息子をギュッと抱きしめた。そして、微笑みかけて。
「じゃあ、その髪の毛をリリアに渡して手を洗ってらっしゃい。一緒にお菓子を食べましょう。母様は早くヴィルが勉強したお話を聞きたいわ」
「うんっ」
母に促されたヴィルはにっこりと笑ってリリアに髪の毛を手渡すと、手を洗うために軽快に駆けていく。
その後ろ姿を眺めながら、ナファフィステアは陛下へのモヤモヤは心にしまい、今は息子との楽しい時間を最優先することに決めた。陛下の変態度について考える僅かの間も惜しい。息子はしばらくお喋りしたら、また王太子宮に戻ってしまうのだから。
そうして楽しいお喋りを楽しみ、王宮奥の庭園にある小さな秘密の通路を通って帰っていく息子を名残惜しく見送った後、ナファフィステアはリリアに尋ねた。
「リリア、今日の陛下の休憩時間はいつ頃かしら?」
「変更の連絡はきておりませんのでいつも通りと思われますが、あくまで予定でございますので」
「陛下は執務室よね? 今日は私が訪ねていくわ。そう伝えてくれる?」
ナファフィステアはにっこりと作った笑顔でリリアに頼んだ。
王妃が陛下のもとに文句を言いに行こうとしているのは明らかだった。
しかし、リリアは止めることなく、
「承知いたしました」
と答えた。いつもならそこで一旦引くのだが、今日のリリアは違った。
「近頃、王妃様が執務室をお訪ねになる機会がめっきり減っておりましたので、きっと陛下はお喜びになられることでしょう。薄紅色のドレスをお召しになってはいかがでしょうか? あわせて髪も結いなおした方がよろしいかと。急いでお支度を整えましょう」
スラスラと流れるように提案し、王妃の返事を悠長にまったりはせず、即座に動く。
他の女官達も全く予定していなかったはずなのに戸惑う様子はかけらもない。王妃の居室ではすでに本宮訪問の衣装替えのため忙しい雰囲気が醸し出されていた。女官達は無言のプレッシャーで、リリアをサポートする。
「え? このままでいいじゃない」
女官達が作る空気に、王妃は待ったをかけた。けれど、それほど強いものではない。
リリアをはじめとする王妃付き女官達は、たとえ文句を言いたいだけだとしても王妃が自ら王のもとに足を運ぼうというこの絶好の機会を逃すつもりはなかった。息子にかまけてばかりで、陛下に対してはさっぱり関心を示さない王妃に、皆、やきもきしていたのだ。
「本宮へお出ましになるのですから、王妃様の美しいお姿を、ぜひ陛下にご覧いただきましょう」
リリアは王妃へにこやかな笑顔で提案を押し切ろうと計る。
王妃が二人目を妊娠したと宣言して以降、閨事の回数は激減していた。それは、陛下が王妃の身を案じての配慮である。ところが、王妃は陛下に我慢させていることなど全く気にならないばかりか、これ幸いと夜は早寝に勤しむ始末。このような日々が続けば、王太子を妊娠期間中は妃を娶ることがなかった陛下も王妃への寵愛が薄れ、新たな妃を望まれるかもしれない。
「えーー……」
ナファフィステアは不満そうな声を上げたが、リリアの言葉を否定はしなかった。つまり、衣装替えの提案を受け入れるということ。
リリア達はほっとした。
陛下の寵が他の妃に移れば、後ろ盾のない王妃は名ばかりの存在となってしまう。そうなった時、王妃は陛下の寵愛を得ることではなく、別の方向へと逞しく生き残る道を模索するだろうことは想像に難くない。しかし、女官達はそれでは困るのだ。
王妃付き女官達は王宮女官としてプライドもあり、自らの腕に自信も持っている。けれど、彼女達は有力な貴族家にツテのない者ばかりだった。そのため、他の妃が王宮奥に入ってきた場合、その多くが王宮奥を去らねばならなくなってしまう。たとえ留まれたとしても、どんな処遇に変わるかわからない。異国のナファフィステアだから女官達の出自を問題にしないのであって、身分の高い貴族女性は庶民出の者を近くに侍らせたりはしないし、その貴族女性の侍女は身分の低い女性を対等に扱うことはない。それが普通なのだ。
彼女達は今の職場には非常に満足していたけれど、王妃ナファフィステアが陛下の寵愛を受けているからこそ実現した稀有な状況であるということを十分に理解していた。
女官達は自ら誇る腕によりをかけてナファフィステアを飾り立てた。陛下が何度でも惹かれるようにとの願いを込めて。




