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見えない距離



 言い出したのは私だった。私が中学二年生で、聖司が中学三年生だった。

 その頃にはもう私は聖司が好きで、私だけにとびきり優しくて私だけを大事にしてくれる彼のそばに、安心していられる称号が欲しかった。だから聞いたのだ。愚かしくも過信をひた隠しにして、少女らしい純真な仮面を被って問いかけた。


『聖司は、私のことが好きなの?』


 不安そうにしながら、実際に不安な部分もあったものの、心の本当の奥底では拒絶されるはずがないという醜い自惚れがあった。聖司の目には、いつも私だけが映っていた。

 彼は驚いたように目を瞠った。ゆっくりと私に焦点が絞られ、数拍の後に静かに告げた。


『好きだよ』


 その言葉に、すぐに私は舞い上がった。そのくせ、その喜びを悟られることが恥ずかしくて、平然とした態度を取り繕おうとした。


『私と付き合いたいの?』

『うん、そうだね。そうしたら、ずっとそばにいさせてくれる?』


 当然、私は逸る気持ちを抑えながらはっきりと頷いた。こうして私と聖司は付き合い始めたのだ。舞い上がった私は、聖司が自発的に私と付き合いたい、と口にしている訳ではないことに気づくこともなく。









 嫌な夢を見た。


『ちほちゃんなんか、もう知らない』


 幼い頃の聖司が、そう今にも泣き出しそうに顔を歪めながら私を拒絶した。それは現実にあったことのようにも思うし、聖司に異性として好かれていた訳ではなかったのだという私の被害者意識が生み出した妄想のようにも思えた。

 ベッドの上で目を開けて、そのまま大きな溜息を吐く。夜はエアコンのタイマーを一時間の設定でかけて寝ている為、目が覚める頃には室温はうんざりするほど高くなっており、パジャマは汗で濡れている。シャワーで汗を流したかったが、時計を確認すると生憎それほどの時間はなかった。


 億劫な身体を叱咤し、エアコンをつけてベッドから起き上がる。これ以上部屋に留まっていれば、そろそろ聖司が私を起こしに来てしまうだろう。その前にリビングへ降りたかった。


 パジャマを脱いで下着を身に付け、クローゼットの中の洋服箪笥から制服のシャツを取り出し、袖を通す。チェック柄の紺色のプリーツスカートを履いて、襟元には赤いリボンを掛けてホックを留める。最後に黒いハイソックスを身につけ、髪を軽く整えた。細かい所は顔を洗うときに直せばいいだろう。


 迷った末に、エアコンの効いた教室の寒さを考慮し、鞄の中に夏用のカーディガンを入れる。帰りにもしどこかに寄り道出来たなら、お店が冷えていることもあるかもしれないし。


 普段よりはいくらか軽い、通学用の鞄を持って部屋を出た。今日は、久しぶりの登校日だった。

 学校は嫌いではない。だからといって大好きかと問われれば答えかねる。嫌いではないが、時々面倒に思うのだ。一日サボってだらだらしたいなあと思う日がない訳でもない。

 ただ、今回ばかりはこの登校日が有り難くて仕方なかった。


 何でもないふりをして一日聖司といるのは、もうそろそろ限界だった。


 あの後、結局リビングに戻れず自室のベッドの上で蹲っていた私は、そのまま眠ってしまったらしい。昼前に仁見先輩が帰ったのにも気付かなかった。私を起こした聖司の顔はいつも通り優しいもので、聞かなかったことにしたかったなあ、と思ったけれど聞いてしまった以上、けして無視できるものではなかった。


 それなのに私は、そのことについて、聖司を問い詰めることが出来なかった。私のことを本当はどう思っているのか、妹としてしか見ていないのか、そう聞いて肯定されてしまえば、もうどんな顔をすればいいのか分からなかった。きっと私は聖司を責め立ててしまうだろう。それならどうして好きなどと言ったのか、どうして束縛しようとするのか、と。それでもし、彼との間に距離が生まれてしまえば、耐えられないのは私の方だった。

 だから私は、本当は聖司がどう思っているのかを聞くこともできず、ただ曖昧に日々を過ごしていた。


「ああ、おはよう。千穂」


 階段を下りれば、ちょうど階段を上ろうとしている聖司に遭遇した。私を起こそうと、部屋に向かう途中だったのだろう。彼は何の為に、そうして甲斐甲斐しく私の世話を焼くのだろうか。


「おはよう、聖司」


 そんな疑問も抱かなかったことにして、私は努めていつも通り笑った。









 久しぶりの学校は、開放感が半端なかった。

 何せ、どんなに会いたくなくても、自宅では常に聖司と行動を共にしているのだ。聖司の気持ちを疑っている今は、居心地が悪いことこの上ない。彼から距離を取るには、精々ひたすら眠り続けるくらいしか手立てがなかった。眠ってしまえば、聖司と顔を合わせる必要もない。聖司とのことを考えずに済む。寝すぎて眠れないときは寝たふりをしていた。

 その為に、体調が悪いのではないかといたく心配されてしまった。少しの申し訳無さと、心配されることに喜びすら感じたけれど、だからと言って聖司と向き合う勇気が生まれるはずもなく、眠いだけだから、と彼を振り切るようにして目を閉じた。


 その度に、眠る私の頭を優しく撫でる聖司の手が、また拷問のようだった。温かくて幸せになのに、それを信じることはできない。もどかしくて苦しくて仕方なかった。その癖やっぱり好きだなあなんて、そんなおめでたいことを考えてしまうのだ。


「早く夏休み終わらないかなぁ」

「やめてよ。そんなの思ってるの千穂だけだし、私は十月くらいまでは夏休みが続いて欲しいくらいだよ」


 今なら毎日学校に行きたい、休日なんていらない、と思いながら机に突っ伏してそう口にすれば、智美から突き放すような言葉を頂いた。貴重な夏休みが減ってしまうなどたまったものではないだろうから気持ちは分かるけど、もう少し優しい言葉が欲しかった。

 朝のホームルームが始まる前の時間で、教室内はいつも以上に賑わっている。久しぶりに再会する友達同士で固まり、騒ぎ合っている人ばかりだ。ふと教室内を見回せば、長屋くんも何人かの男子生徒と笑いながら肩を叩き合っている。初めはとっつきにくいかもしれない、と若干距離を置かれ気味だった長屋くんだが、今ではすっかりクラスに馴染んでいた。


「気になる?」

「何が?」

「長屋くん」


 机の上に葉書くらいの大きさの鏡を置いて、時折持ち上げたりしながら智美は睫毛の上がり具合を気にしている。ビューラーでの睫毛の上がり具合によって、目元のコンディションが違ってくるらしい。常日頃アイメイクに余念のない智美は、鏡の中の自身と目が合う度に眉間に皺を寄せていた。今日はどうも思った通りの目元にならないらしい。


「クラスに馴染んだなって思っただけだけど、何で」

「千穂はさあ、中学のときから夏目先輩がセコムってたし、千穂自身もあんまりクラスの男子に興味なかったでしょ?だから、誰かに目を向けてるのが新鮮」


 智美は不満そうな顔をしながらも、渋々といった様子で鏡を鞄にしまった。どうやら納得できないものの今以上の改善を諦めたらしい。

 彼女に言われて、そう言われてみればそうかな、とこれまでの自分自身を思い返してみた。確かに、私はクラスメートが相手でもあまり男子と関わってこなかった。変に誤解されて聖司に怒られるのも嫌だし、と自然に避けていたように思う。世間話をする機会も少なく、必要最低限の関わりだけを持ってきた。


 ……………………そこまで考えて、改めて戦慄する。私は一体どれだけ聖司を中心に生きてきたのだろう、と。自分でも呆れるほどに、全ての基準が彼だった。あまりにも主体性のなかった自分が、途端に情けなくなる。


 それを智美に対して嘆けば、彼女からは呆れた調子の言葉を頂いた。


「言いなりになんてならなければよかったのに」

「別に言いなりのつもりなんてなかったし」


 少なくとも私は、聖司への好意を理由として自ら彼の隣を選んだつもりだったのだ。聖司のそばにいる為に、聖司に安心してもらう為に。だって、そうでなければ聖司が。


「今からでもいいじゃん」


 軽い調子で呟く智美が、悪戯するように机に突っ伏す私の髪を一房引っ張る。するすると根本から毛先に向かって指を滑らせた。


「自立しなよ、自立」

「…………どうして、智美はそう私と聖司を引き離そうとするの?」

「だって今、一緒にいるのが辛いんでしょ?いい機会じゃん。千穂の彼氏と思えばまだ好意的に見てるけど、そういうの抜けばぶっちゃけあの人胡散臭くて苦手なの」

「うー…友達の彼氏に対してなんて辛辣な………」


 聖司のいいところを上げて弁解したくなったけれど、彼のいいところということはつまり私の好きなところで、彼からの愛情を疑っている今は口に出せば虚しくなる予感しかない。


「胡散臭くないし…………」

「はいはい、だから好きって言うんでしょ。知ってる」


 せっかく好意的な言葉を止めて、彼女の言葉を否定するだけのものを選んだのに、あっさりと智美は私のこの感情を『好き』で纏めてしまう。たったの二文字が重くのしかかり、私は机に突っ伏したまま大きな溜息を吐いた。



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