失敗4
「‘階段まで戻れれば……’」
魔物は階を越えて追いかけてこない。
一階に向かう階段まで行くことができれば助かる。
俺は地面の草が千切れ飛ぶほどに強く蹴る。
降りてきた時にはヒンヤリと感じていたのに今は自分がただ熱の塊になってしまったかのよう。
「‘だが……’」
もう追いつかれている。
ネズミの激しい息遣いを感じて、逃げきれないという思いが頭をかすめる。
まるでスパークするように考えが浮かんでいく。
その中にクリアスを見捨てれば、という考えがないわけでもない。
だがそのような卑怯な考えは一瞬で消えていく。
生きるためにはなんでもするが、人に戻るために今は足掻いている。
人に戻るために、人としての自分を捨てるわけにはいかない。
クリアスを犠牲にして生き残った自分は多分、獣と変わらないのだ。
だからといってどうやって生き残る。
俺は最悪数日だって走り続ける。
ウルフに追われた時だって極限状態だったが、諦めることをしなかった。
けれどもクリアスの限界は近い。
元より体力的に優れている感じはない。
追いかけられるという極限の緊張状態は、普段よりもはるかに容易く体力を奪う。
「あっ!」
「‘クリアス!’」
壁から伸びた枝にクリアスが足を引っ掛ける。
普段ならなんてこともないほんの小さな出っ張りだった。
倒れるように転ぶクリアス。
俺は急ブレーキで止まって後ろを振り返った。
「コボルトさん……逃げて……」
迫るネズミの一匹が飛びかかる。
そんな時でもクリアスは俺の身を案じていた。
「‘う……くっ……’」
「コボルトさん!?」
気づいたら、体が勝手に動いていた。
「‘この野郎!’」
ネズミの前へ俺は飛び出した。
腕を差し出してクリアスを守った。
ネズミに噛みつかれて、燃えるような痛みが腕から脳を駆け抜ける。
歯を食いしばり痛みに耐えて、俺はネズミの目にナイフを振り下ろした。
「‘そうか……これが欲しいのか……’」
激痛にネズミが飛び退く。
俺は一連のやり取りの中でほんのわずかの希望を見た。
噛みつかれて血が吹き出した瞬間、ネズミの目の色が変わった。
他のネズミの目も俺の腕に向いていた。
「‘腹が減ってるんだな……?’」
ネズミたちの異様な雰囲気の理由が分かった。
飢餓感。
ネズミたちは空腹なのだ。
そういえば最初に見たネズミも何かを食べていた。
ネズミの異常行動は空腹によって引き起こされ、俺とクリアスを食おうと迫ってきているのだ。
「‘ならくれてやるよ……ああああああっ!’」
「コボルトさん!? なんで!」
俺は自分の腕にナイフを突き立てる。
後ろからクリアスの悲鳴のような声が聞こえてくるけれど、俺は構わず自分の腕を斬り裂く。
痛みというよりも熱さ。
極限状態にあって、もうほとんど痛みは感じていなかった。
同時に思考も、もはや正常ではない。
目がチカチカとして、血が弱く噴き出す。
自分の血の臭いすら頭の芯を叩きつける。
それでも俺はナイフを動かす。
「‘ほら、食えよ’」
細いコボルトの腕は簡単に斬り落とすことができた。
俺は斬り落とした腕をためらいもなくネズミの方に投げる。
するとネズミは腕に群がる。
「コボルトさん……う、腕が……」
「‘立て、クリアス! 今のうちに逃げるぞ!’」
どうせ腕はもうダメだった。
ネズミに噛み砕かれかけていた腕は、痛みを感じるだけで動かなくなっていた。
どうせ使えないのなら、最後に少しでも役に立ってもらった方がいい。
俺はナイフを口に咥えて、残った腕でクリアスを立たせる。
腕を引いて走る。
たかだかコボルトの腕一本では、ネズミを長く引きつけていられない。
またしても地響きのようなネズミの足音が後ろに迫ってくるのを感じる。
「‘クリアス……行け’」
無理だ。
もう逃げきれない。
だから俺はクリアスを引っ張って前に出す。
そして、逃げろと背中を押す。
「‘早く行け……’」
腕一本ないただの魔物と、家で病気の妹が待つ人間。
どちらが生き残るべきか、比べるまでもない。
「‘逃げるんだ、クリアス!’」
伝わらないかもしれないが、精一杯に叫ぶ。
「コボルトさん!」
背にしたクリアスがどんな顔をしているのか、俺にはわからない。
「‘今の俺……最高に人間っぽいよな’」
俺は笑っていた。
多分、人間の心で。
今死んでもいいかもしれない。
見た目はコボルトだけど、人として死ねる気がした。
せめて一体でもネズミを道連れにしてやる。
一分一秒でも時間を稼いでやると、ナイフを構えた。
怖くはない。
死への恐怖は今の俺の感情に含まれていなかった。
「ストーンバレット!」
うるさく鳴くネズミの獣臭さが目の前に迫った瞬間だった。
鈍くて痛そうな前歯を剥き出したネズミの額に鋭い石が突き刺さった。
「おい、大丈夫か!」
男の声が聞こえる。
魔法にやられてネズミが怯み、血の臭いに誘われるように仲間の死体にかじりつき始めた。
「こっちだ!」
「コボルトさん、行きましょう!」
俺は肩が抜けそうなほどに腕を引かれた。
ハッと我に帰って走り出す。
「まさかこんなに早く異常行動を起こすとはな」
助けてくれたのは先ほど警告をしてくれた中年の冒険者だった。
「もう少しいけば他の冒険者もいる。頑張って走るんだ!」
一歩踏み出す衝撃で激痛が走り、血が流れ落ちる。
すでに頭はぼんやりとしてきているが、手を引かれるままに俺は走った。
「どうだ?」
「こっちに一人いた! もういないだろう!」
「なら撤退だ!」
階段近くには何人もの冒険者たちがいた。
こうした事態において、助け合いも必要だ。
「コボルトさん? コボルトさん!」
助かった。
そう思った瞬間に俺の体から力が抜けていく。
「早く上に行くぞ! そいつは俺が抱えていく!」
「あっ……」
何かに抱えられた。
俺は意識はそこで途絶えてしまったのだった。




