Ⅸ
後ろ手で静かに扉を閉めつつ、部屋中に視線を走らせ感覚を研ぎ澄ませた。外の物音が静かな部屋に響く。
正面には月光が微かに入り込む大きな窓と、その前にある仕事机。部屋の中央には応接用のソファと低いテーブルがある。窓で開放感を演出しているものの手狭でこじんまりとした作りだ。その中に異彩を放つものが一つ。
深矢は扉のすぐ左手の壁に向き合った。
木製の額縁に飾られた神秘的な一枚の絵。その中では英国人らしい上品な顔立ちの女性が微笑んでいる。その頭部に輝くのはまさしく『silver tiara』。
思わず見惚れていると、遠くから物音が聞こえた。もう一人の警備員が異変に気付いたのだろうか。海斗が十分持たないと言っていたのはやはり本当だったらしい。
ひとまず深矢は目の前の崇高な美術品に集中することにした。
簡易式暗視ゴーグルを着け、額縁と壁の隙間を覗き込みセンサーが無いかを確認する。そこには展示室で見た赤外線センサーと同じものが付いていたが、そのランプは点いていなかった。
なぜ作動していない、スイッチを入れ忘れたか?それともーーいや、それは二の次だ。トラップが少ないに越したことはない。
そして警戒しつつそっと額縁に触れた瞬間、天井から明らかに物音がした。ネズミでないことは明らかだった。
深矢は一度手を離し、嫌な展開に唇を噛んだ。
天井にある空調用ダクトを見上げる。
ここは泥棒として出迎えるべきか、それともスパイとして対峙するか。
その答えが出ない内に、ガタンと音を立てそこから人影が降ってくるーー向こうがこちらの気配に気付く前に、深矢はその影を捕らえ、ねじ伏せた。
「……どうして来た」
テーブルの上でその体を抑え込み低く尋ねる。
するとザックは見たことのないような形相で深矢を睨み上げた。
「……触るな」
憎悪のこもった視線に危険を感じ、咄嗟に深矢はザックから距離を取る。
変な気を起こさないといいけどな、と海斗の言っていたことが頭をよぎる。
「ザック、俺はアンタの敵じゃない」
願望を込めて言うも今のザックには届かず、その顔には敵意が表れまるで別人のように歪んでいた。
これはもうザックではない。目の前にいるのはおそらく黄余暉の人格だろう。『silver tiara』のために人を殺したという、我儘で独占欲の塊だ。
「スパイは敵だ……その穢い手であの絵に触れようとする奴は全部そう」
そして右手を顔を横に掲げ、軽くメモリーカードを振ってみせる。
「お前が欲しいのはこれだろう?やるからさっさと消えてくれ」
ザックーーいや、黄余暉が無造作に投げたメモリーカードを顔の前で掴み取る。だが深矢は絵の前から動こうとはしなかった。
メモリーカードに記された情報が果たして深矢達の欲しがる情報か定かではないし、それに今動いたらこの場の主導権を握らせることになる。黄余暉の行動が読めない分、それは避けたい。
「……退けよ」
黄余暉の声が一段低くなる。深矢はタイミングを図るよう、挑発し過ぎないようにゆっくりと口を開く。
「退かしてみるか?」
チッと舌打ちが聞こえ、黄余暉の右手が微かに動く。さっき机に押さえつけた時に気付いたが、やはり黄余暉は拳銃をもっている。対して深矢は丸腰だーーそもそも工作員が拳銃を使うことは滅多にないのだが。
「なぁ、どうして俺を嫌う?泥棒もスパイもマフィアも、みんな表立たない裏の人種じゃないか」
間合いを図りながら問いかける。背後に絵がある限り、黄余暉は発砲しないだろう。
「それに、一時期アンタはその大っ嫌いなマフィアになってたじゃないか。泥棒を名乗った俺と大して変わらな……」
一緒にするな、と黄余暉の喉の奥から絞り出した声が遮った。背後の月光でその顔は陰って見えない。
「マフィアもスパイも平気な顔して人を殺すだろ。でも泥棒は人を傷付けない。穢れのない仕事なんだよ。お前には分からないだろうけどな」
皮肉だな、と深矢は自嘲した。その一方で必死に考えを巡らせる。
「じゃあ黄余暉としてはどうなんだ?お前も穢れたんじゃないのか?」
そう指摘すると、ふとザックの人格が覗いたように小さく息を飲んだ。そして腰元の拳銃に伸びた手が微かに震えるのが見えるーーここか。
糸口を見つけ、勝利を確信する。そもそも拳銃相手に丸腰でも大して問題はなかったのだ。
改めて見据えると、お互い目が合い、月明かりを背にザックは顔を一層険しくした。その顔は激しい自己嫌悪と何かに対する恐怖心が浮かんでいた。
「醜い顔だな。マフィア殺しの時もそんな顔をしていたんだろうな」
「煩い……」
「マフィアを殺したことでアンタだって穢れたんだろ?」
「……やめろ」
「そんな手でこの『silver tiara』を触れられないって、昨日あれだけ言ってたじゃないか」
なぁ、ともう一度問いかける。カタカタと小刻みに聞こえるのはザックの震える手が拳銃とぶつかる音だ。
「この絵に触れる資格は俺にもアンタにも無いって、分かってるんだろ?ならここに用事はない。大人しく帰るのが潔いんじゃないか?」
この男がどうしてここまで『silver tiara』に固執するのかは知らない。だがこの絵を一番に想ってきた泥棒なら分かるはずだ。この絵がどうあるべきかをーーというのはヒカルとしての本音であり、この場を収める建前である。
「帰ろう。俺達はここにいるべきじゃない」
ゆっくり言い切ると、ザックは悔しそうに手を震わせたまま項垂れた。
しかし安堵したのも束の間、ザックは何かを振り切るように激しく首を振り、吠えるように叫んだ。
「違う!そんなのは詭弁だ……ッ!」
何事かと身構えると、ザックはキッと深矢を睨み上げ再び震える拳銃を向けた。その目には、深矢はおろか『silver tiara』さえも映っていないようだった。敵意、恐怖、猜疑心……様々なものが混ざって現実を覆い隠しているような。
「……何が違うっていうんだ?」
深矢は急変したザックの様子に、腫れ物にでも触れるように慎重に声をかける。主導権はまだこちらにあるはずだ。
「お前は俺の頼みで『silver tiara』を盗むわけじゃない」
目を瞑り、一言一言ゆっくりとザックは吐き出した。「この絵が重要な情報を持つことを、俺はお前に……日本のスパイに話してしまった。その後お前はこの絵を俺の代わりに盗むと言った。でもそんなものは建前だ、お前はこの絵の持つ情報が欲しいだけだ!そうだろ!」
カッと見開いた瞳にはやはり事実は見えていないようだった。深矢はザックのその様子を見て心の内で舌打ちをする。
「ザック、それはちが……」
「黙れッ!スパイの言う事など信じるか!」
その言葉にハッとして、深矢は何も言えなくなる。確かに工作員は偽るのが仕事だ。現に最初、ザックに自分のことを同じ泥棒だと言った。だがそれ以外で嘘をついた覚えはない。
深矢が言葉を呑み込んだのに対し、ザックの拳銃を握る手には力が込められる。
「スパイなんて穢い奴の手でこの絵には触らせない、それでも盗るというなら……ッ」
もし、自分の正体を明かさなければ、こうなることは回避できたのだろうか。そんな考えが頭を過る。
ザックが一歩踏み入った。既に主導権は握られている。勢いに任せた盲目状態の人間は止めるのが難しい。
「それでも盗るというなら、お前もあいつと同じように殺す……ッ!」
ザックの目には、以前殺したマフィアのボスと深矢の姿が重なって見えるのだろう。
間違えたことは分かった。だがもう後戻りはできない。
意味の取れない言葉で喚き、ザックが拳銃を発砲させるーー
乾いた音が響き、崩れたのはザックだった。
膝を抑えるその姿にわけがわからなくなる。
誰が撃った?
そう思うと同時に気味の悪い笑い声が聞こえてきた。窓に目をやると、出窓の部分にはサングラスをした男が肩を震わせて立っていた。「やっと見つけたぞ、黄余暉ィ?」




