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灰色吐息

 その翌日、放課後――。


「……そんなに、今回のプロット、ダメかしら?」

「……へ?」


 諏訪先輩の不安そうな声に気付いて、俺は慌てて顔を上げた。


「え? い……いや、全然そんな事は……!」

「そう? ……でも、その割には、浮かない顔だけど?」


 俺の答えには納得できないとでも言うように、諏訪先輩は眉を吊り上げる。

 彼女の剣幕に気圧されながら、俺はブンブンと首を横に振った。


「い、いえ! それは……先輩の気のせいですよ! アハハ……」

「……そうかしら?」


 諏訪先輩は、訝しげな表情を浮かべたまま、マグカップを持ち上げ、席を立った。


「まあ、いいわ。――ところで、高坂くん。コーヒーのおかわり、要る?」

「……あ、は……はい。お願いします――」


 俺は、諏訪先輩の問いかけに頷くと、マグカップを渡そうと持ち上げる。

 が――、


「……す、スミマセン……。やっぱり、まだ大丈夫です……」


 俺はそう言って、マグカップに目を落とす。マグカップの中には、茶色いコーヒーが、まだなみなみと入っていた。

 せっかく持ち上げたのに、何もせずに机の上に戻すのもバツが悪かったので、俺は飲む気もないマグカップを口元に持っていき、コーヒーを流し込む。


「……冷たっ」


 ……長時間放置されたコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。熱い時には気にならなかった、砂糖とミルクの甘味が舌に絡みつくようで、ぶっちゃけ不味い……。


「……はぁ」

「28回目」

「へ……?」


 俺は、諏訪先輩が発した数字の意味が分からずに、キョトンとした顔で、横に座った彼女を見た。

 先輩は、淹れたてのコーヒーを息で吹いて一口啜ると、眼鏡のレンズの向こうのジト目を俺に向けて言った。


「……高坂くんが、この部室に来てから吐いた溜息の回数よ」

「すみません……」

「今ので、『すみません』は35回目」

「……」


 思わず、また『すみません』と言いかけて、俺は慌てて手で口を押さえる。

 ……と、諏訪先輩が、俺の顔を覗き込んできた。


「な――何ですか?」

「何かあったんでしょう、高坂くん? ……最近、変よ」

「そ……」


 反射的に、『そんな事ありません』と口に出しかけるが、諏訪先輩の顔があまりにも真剣だったので、俺は喉の奥に言葉を詰まらせてしまう。

 俺は、閉塞した喉を潤そうと、冷めた甘ったるいコーヒーを一気に飲み干すと、小さな声で言った。


「……まあ、あったっちゃありましたけど……」

「――私で良かったら、相談に乗るわよ?」

「あ――いや……」


 諏訪先輩が、決して上辺だけでなく、俺の事を案じている事は、その言葉の響きからも良く分かった。

 正直嬉しかったが、だからといって――、


「……有り難うございます。――でも、大丈夫です。多分、その内吹っ切れますから、放っておいて下さい」


 俺は、ごわついた表情筋を無理矢理に動かし、何とか微笑みを作ってみせる。

 だが、諏訪先輩の心配顔は、ますます憂いを深めるだけだった。――多分、俺が拵えた笑顔が、凄まじく歪だったからだろう。

 諏訪先輩は、何かを言いたげに口元を動かすが――途中で口を噤む。そして、フルフルと溜息と共に肩を落とすと、俯きながら俺に言った。


「……そう。分かった。……頼りない先輩で、ごめんなさい」

「あ――いや、そういう訳じゃ……」


 落ち込む諏訪先輩を前に、俺は狼狽えるが、結局上手い言葉が出てこない。

 だから、俺も俯いて、36回目の「すみません」を言葉にするしかなかった。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 それから――、俺と先輩は、黙々と作業(・・)に打ち込んだ。

 諏訪先輩は、『Sラン勇者と幼子魔王』最新話の執筆。

 そして俺は、先輩が書き上げた今後のプロットのチェック――なのだが、

 ……全然、頭に入らない。

 チェックに集中しようとするのだが、俺の視線は、プロットの紙ではなく、机の上に無造作に置いたスマホに行ってしまうのだ。

 そして、スマホの暗転した液晶画面を見る度、


(――昨日、シュウが早瀬に送ったLANEメッセージの返信が、今来るかもしれない)


 どうしても、その期待が頭を過ぎってしまう。昨夜からずっと。

 ――だが、無情にも、俺のスマホは一度も振動する事は無かった。……昨夜からずっと。

 ひょっとしたら……と、俺はスマホに手を伸ばして、LANEの『YUE♪』のトークページを開いてみるが――。

 『こんばんは~』と、シュウが勝手に打ったメッセージの“19:26”の時刻表示の上には、相変わらず何も表示されていないままだった。

 これが、俗に言う”未読スルー”ってヤツか……。



 ……どうやら、

 俺の恋は、本格的に終わったようだ。



「……はぁ……」


 思わず、29回目の溜息を吐いてしまい、思わず首を竦めるが、それを咎める声は上がらず、代わりに、ただカタカタと、キーボードの音が部屋に響くだけだった。

 気付かなかったのか?

 ……いや、違う。

 俺は、無表情のまま、キーを叩き続ける諏訪先輩の横顔を見て、悟った。


 諏訪先輩は、俺を気遣ってくれているんだ――。


「……よし!」


 俺は、大きく息を吸うと、一気に吐き出し、同時に自分の頬を平手で(はた)いた。

 突然のパァンという大きな音に、驚いた顔の諏訪先輩が俺の顔を見る。

 俺は、そんな彼女に向けて口角を上げてみせると、元気な声で言った。


「お騒がせしました! もう大丈夫です! 頑張りましょー!」


 こうなったら。

 もう俺は、脇目も振らずに、“星鳴ソラ”の作品を完結に導く事に邁進するだけだ。

 こんなに俺の事を、まるで自分の事のように案じてくれる諏訪先輩のお役に立てるよう、私的な感情は棄てて、頑張るだけだ!

 ――そう、心を決めた俺は、まず、空になったマグカップを手に、ポットの置いてある戸棚の前に立つ。

 先ずは、気合を入れる為に、熱々のコーヒーを飲んでシャキッとしようと考えたのだ。

 と――、


 コン…… コン……


 部室の引き戸が、乾いた音を立てた。

 俺と諏訪先輩は、顔を見合わせた。


「あれ……今の……?」

「ノックの音……かしら?」


 俺たちは首を傾げた。

 まあ、ノックの音には間違いないのだが、部室棟2階の一番奥に位置する、この“文芸部”の部室に来客があるのは珍しい……というか、俺が入部してからは初めてだった。


 コン……コン……


 間違いない。誰かが、扉の向こうでノックしている。


「何だろう……?」

「あ、いい。私が出るわ」


 注ぎかけのマグカップを片手に、応対に向かおうとした俺を制して、諏訪先輩が立ち上がった。

 せっかくなので、俺は先輩の厚意に甘える事にする。


「はい……どちら様でしょうか?」


 諏訪先輩が、引き戸を少し開けて、外に立つ人影に向かって尋ねる。


「……あの」


 先輩の問いかけに対して躊躇いがちに応える、その人物の声を聞いた瞬間、俺の心臓は破裂せんばかりに膨張した。


「あの……高坂くん……一年生の高坂くんは、いますか……?」


 ――聞き間違えようも無い。

 小さくて可愛らしい、その声は……


 ――早瀬結絵のものだった。

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