護衛
「ところで君は、本当にガンディーを知らないのかい?」
デリー警察署の壁に描かれたマハトマ・ガンディーの壁画を眺めながら、私は今屋敷蜜に尋ねた。以前その壁画を見て「あのおじいちゃんは誰だろう?」と彼女は歓声を上げていたのだ。
「知らない。歴史上の有名人なら学校で習ったかこれからの授業に登場するだろうけれど、試験が終わったらわたしは必要ない知識は忘れてしまうからね。しかし警察署に描かれるということは、犯罪捜査に関係する人なのかな?」
彼女は本当に知らないようだった。役に立たない知識を記憶するのは脳の容量の無駄遣いだという眉唾ものの説を、彼女は実践していた。しかし、不要な知識を意図的に忘れられるというのは、彼女の特技の一つと言える。
「捜査とは関係ないかな。非暴力・不服従を唱えてインドをイギリスからの独立に導き、イギリスを帝国から連邦国家に転換させた、独立の父と呼ばれて慕われている人物だよ」
「平和主義者というわけだね。それは結構だが、わたしとは違うやり方だ」と言って彼女は興味を失ったようだった。
私たちはゴア国際空港行の便の乗り換えを待つ間に、デリー警察署へ挨拶に訪れた。今回は長官のアクシャイ・シュリヴァスタヴァには会えなかったが、デリー警察で犯罪を担当する支部を率いているサディール・バッシ特別委員と話をした。
「お二人に会えて光栄です」とバッシは瞳を輝かせて私たちに握手を求めた。
「本官は以前、ゴア警察の長官を務めていました。パリカール父子のことは承知しています。よくぞ、あの野獣を退治してくれました」
「退治なんてとんでもない、法律上の緊急避難です」と言いつつ、今屋敷蜜は気を良くしているのがありありと表情に出ていた。
「今日は挨拶に伺ったのですが、実はこのあと、そのパリカール邸へ向かう予定なのです。招待状をいただいたものでね」
「なんですって!? それは、危険ですよ。なにしろ、一人息子を失ったパリカール知事の悲しみはゴアの行政に多大な損害を及ぼしてるほどだ。はっきり言って、殺されるかもしれない。今すぐインドを出たほうがいいくらいだ」
バッシは本心から私たちの身を案じている様子だった。
「ご忠告痛み入ります、バッシ特別委員。しかし危険なのは承知の上で行くつもりなのです」
彼女の意思の固さを見たバッシは、それ以上は止めなかった。
「ではせめて、護衛を付けさせてください。銃を携帯しているから、いざという時に頼りになるでしょう」
「それはありがたい」と今屋敷蜜は、今度は彼の好意を受け取った。
私たちの護衛に付いたのは、スニラ・ヤダフ巡査と、マドハヴァディティア・パドゥコーネ巡査だ。ヤダフは初対面の女性警官だったが、ディティと行動を共にするのはこれで二回目だ。
彼は以前と変わらずお喋りで陽気な性格だった。むしろ、ビシュヌが死んだことで気の迷いが晴れたようにすら感じられたが、今回の護衛任務には怯んでいるのがわかった。
「ヤダフ巡査、ディティ巡査、頼りにしてるよ。ただ、命に関わる任務だ。いつでも辞退してもらって構わない」
今屋敷蜜はインドに入国してからというもの、いつもに増して気を張っていた。そんな彼女の隣りにいると、傍にある危険が私にも肌で感じられるようだった。
ヤダフ巡査は三十代の女性だったが、鍛えられ引き締まった肉体が制服の上からでも確認できた。無理もないことだが、彼女の今屋敷蜜を見る目は、か弱い少女へのそれだった。だからこそ、彼女の警察官としての使命を強固なものにしていた。
今屋敷蜜は、それが気に食わないと感じていて、私には彼女の気持ちを察知することができた。
「ヤダフ、わたしのことは護衛対象として見なくていい。わたしにとって必要なのは、君の持つ銃だ」
ヤダフ巡査はその言葉に戸惑った様子で、姿勢を正して無言で今屋敷蜜を見つめていた。私はその姿を見て、護衛に彼女が選ばれた理由は優秀な警察官だからに違いないと確信した。




