怨念
猪戸亜威は悲鳴をあげてから、無我夢中で駆け出した。
薄暗い校舎の中で自分がどこを走っているかもわからなかったが、とにかくその場から全力で逃げ出した。
二段飛ばしで階段を降りて、転びそうになりながら踊り場を曲がって、脇目もふらず突進して、息を切らせてまた階段を下りながら、「こんなはずじゃなかった!」と心の中で愚痴を言った。
どうしてこんなに怖い目に遭わされているのか、彼女には理解不能だった。
――よくある学校の怪談なんて全部作り話で存在しないはずなのに、それなのに、鍵のかかった美術室の中で、肖像画が血の涙を流していた!
今屋敷蜜はインドの殺人犯の絵だと言っていたが、インドの殺人犯! どうしてそんな絵を描く!? なぜインド人?――
この時の彼女には、すべてが自分を怖がらせるために仕組まれた罠のように感じた。
もともと彼女が決死隊に参加したのはなんとなく気に入らない今屋敷蜜に嫌がらせをしてやろうと思ったからだった。
――ファンクラブに入ったのも、あの女のファンを逆に奪ってやるのが目的だった!
ところが、今はあの女の描いた絵のせいで、死ぬほど怖い思いをさせられている。
実際に会って話してみたらすごく可愛かった、ショートが似合いそうだと思った。
しかしもう許すことはできない――
猪戸亜威はL字型の校舎を端から端までおそらくは学校史上最速で移動したあと、上履きのまま校舎を飛び出して、ここまで来ればもう安全だろうと、ぜえぜえ喘ぎながら生け垣の横の地べたにへたり込んだ。
しかし、少し経って呼吸が整って気持ちも落ち着くと、今度はひとりきりになったのが心細く感じた。
――あの三人はなんで追ってこないのだろう?
まさか、あのインド人の肖像画に呪い殺されてしまったのだろうか――
そして、猪戸亜威は教室の黒板に残されていた脅迫文のことを思い出した。
たしか「この恨み必ず晴らす」だ。
反射的にぶるりと身を震わせた。
彼女はあの時教室にいた六人ではなく外部の人間が脅迫文を書いたと考えていたため、敷地内を徘徊する不審者の気配が感じられた。
それとも人間の仕業ではなくて、死んだインド人の怨念か。
「あ、亜威は関係ないんだから」
か細く揺れる声を漏らして、周囲をさっと見回した。
すると、人影は見当たらなかった。
誰か人に会いたかったが、校舎の中に戻ることは考えられなかった。
彼女は唇をきっと結んでから意を決して立ち上がって、今屋敷蜜と剣持将人が向かったと思われる校舎の裏を目指して走り出した。
野生の獣のような勢いで猪戸亜威が走り去ったあと、決死隊の三人は美術室前の廊下に立ち尽くした。
推名探には、今我々の身に異常な事態が降りかかっていると思われた。
誰が何のために脅迫文を書いたのかもそうだが、この肖像画に至っては全くわけがわからない。
廊下に面したドアはたしかに全て鍵が掛かっているし、廊下から見る限り窓も全部閉まっている。
それにここは三階で、窓の外には足場になるような出っ張りもない。
鍵は絵野沢美知子のスカートのポケットに入っているものと、「もう一本の部室の鍵は、職員室のキーボックスにあるはずですよね?」との彼の質問に、美術研究部部長・絵野沢美知子は「ええ、そうよ」と答えた。
「念のために職員室へ確認に行ってくれませんか」と推名探が学修一に指示すると、「なぜ俺が」と不満を漏らしながらも二階の職員室へ向かった。
彼が戻ってくるのを待つ間、二人はその場で待機していたが、絵野沢美知子が「鍵を開けて部屋の中を調べましょうか?」と思い立って推名探に聞いた。
「現場を汚したくないので、慎重に対応しましょう。まずは今の状態で廊下から室内に入る方法が本当にないのか、確認です」
二人は教室の二つのドアにしっかりと施錠されていること、天窓にも鍵が掛かっていること、何か細工がされていたり異常がないことをたしかに確認した。
五分ほどして戻ってきた学修一が、「もう一本の鍵はずっとキーボックスに保管されていた。先生に確認を取ったから間違いない」と使い走りにされたことに不機嫌な様子で報告をした。
「決死隊が美術室から退室して施錠したあと、僕たちが戻ってくるまでの間に、廊下側から美術室に侵入できた者はいない」と推名探は結論付けた。
なお、これは間違いのない事実であることを私が保証しておく。
それから三人は明かりをつけて美術室の中に入った。
まず真っ先に校庭に面した窓に施錠がされていたかを確かめたが、すべて内側から鍵がかかっており細工の跡も残っていなかった。
「密室」と推名探はつぶやいた。
次に問題の肖像画を調べたが、あまりの不気味さに寒気を感じながらおそるおそる近付いて、インド人のぽっかりと空いた両目から流れ落ちる赤色を凝視した。
どうやら本物の血ではなく、インクの一種だということがわかって、推名探は安堵の息を吐き出した。
呪いとか怨念の類いではなさそうだ、と彼は思った。
絵野沢美知子が「猪戸さんは大丈夫かしら」と新入生の身を案じたので、学修一が「たしかに、女の子を一人にしないほうがいいかもしれませんね」と眼鏡を使って同意した。
猪戸亜威の後を追おうという話になったのだが、推理研究部部長・推名探は「僕はもう少しこの謎について考えたい」とその場にひとりで残ることになったのであった。




