捜査開始
それは、今屋敷蜜と猪戸亜威が私の事務所を訪れる前日のことだった。
高校は翌週に開催が予定されている学校三大行事のひとつ体育祭の準備に集中していて、放課後の部活動は休みになっているところが多かった。
その日は体育祭の目玉である応援合戦の合同練習はなく、クラス単位で選抜リレーの特訓をしていたが、決死隊のメンバーにリレー参加者はいなかったため、放課後に全員集まって捜査を開始する段取りとなった。
ほかの生徒達は束の間の自由を満喫するために授業が終わるとすぐに慌ただしく校舎から退散していった。
そのため放課後の校舎内はほぼ無人となっていたが、絵画コンクールに出展する作品を作るために今屋敷蜜を含む数人の美術研究部員は残っていて、決死隊の五人は集合したあと、この事件の被害者であり渦中の人物である今屋敷蜜に会うために美術室へ向かったのであった。
決死隊の隊長を志願して引き受けた推理研究部部長・推名探は、今屋敷蜜を前にして完全に舞い上がっていた。
ファンクラブの親衛隊といえども正当な理由なく彼女の半径五メートル内に接近することは禁止されていたため、これは存在をアピールするまたとないチャンスだった。
推名探はそのチャンスをものにするために綿密に計画を立てて準備を進めていたが、いざ本人を目の前にすると自己紹介をするだけで精一杯の有り様で、握手のために手を差し出す勇気はついに湧かず、新人の猪戸亜威が今屋敷蜜と握手を交わすのを横見に忸怩たる思いをその顔ににじませていた。
当の今屋敷蜜は事情が飲み込めず当惑した様子で、制作中の肖像画の前に立って猪戸亜威に手を握られていたが、推名探が熱意を込めて決死隊の趣旨を伝えると、「わざわざ来ていただいてありがとうございます、でも間に合ってますから」とあっさりと協力を辞退した。
このままではまずいと執拗に食い下がる推名探を、彼女は黙って猿山の猿を見るような目で見つめていたが、猪戸亜威がこれまでファンクラブによって隠されていた彼女に対する数々の嫌がらせの存在を打ち明けると、何か思い当たることがあったのかのようにその瞳に光を宿した。
ただし、嫌がらせのすべてを話したわけではなく、鞄の中に毒物の小瓶が入っていたことは発見者がストーカーと思われたくないという強い希望により伏せられた。
「それはおもしろい」と今屋敷蜜がつぶやいたように聞こえたが、おそろしいの聞き間違いだろうと決死隊のメンバーは考えて、捜査への思いを新たに一層強くしたのであった。
一同はまず、そのような脅迫めいた嫌がらせをする人物に心当たりがあるかどうかを彼女に質問した。
しかし、「ない」という回答だった。
それでは最近学校の人間とトラブルになったことはないかと尋ねたところ、そちらも「ない」と返答が来た。
ここで、捜査はいきなり暗礁に乗り上げてしまった。
実際のところ、今屋敷蜜は校内ではおとなしく過ごすようにしていて誰かとトラブルを起こしたこともなかったため、一見して彼女に嫌がらせをする者などいないように思われた。
決死隊のメンバーは、彼女の思い当たる人物を尋問して犯人を突き止めるつもりだったため、方針転換を迫られた。
ここで隊長の推名探は、今屋敷蜜にいいところを見せるチャンスと考えて、探偵小説流の捜査を行うことを提案し、事件現場はものいわぬ証人であるということを彼は力説した。
その時一同がいた美術室は、猪戸亜威が私に説明した第一の事件現場であったため、現場検証を行おうという話になったのだが、数ヵ月前の出来事であるため現場は汚染されていて推名探の指紋採取セットを使う機会はなかった。
幸い、事件当時に現場に居合わせた二年生部員がその場にいたため、以下の供述を得ることができた。
今屋敷蜜は絵画コンクール直前に集中して一気に作品を完成させる場合を除き、放課後に美術室へ顔を出すことは多くなく、昼休みの部員が少ない時間帯に少しずつ作品を仕上げていくスタイルだった。
その日も彼女は昼休みにサンドイッチを片手に抽象画に向かっていたが、戯れに描いている作品のようで、制作は捗っていないようだった。
美術室には今屋敷蜜と二年生部員の二人だけで、互いに話しかけることはせず静かに作業を進めていたが、手についた絵の具をすすぐために二年生部員が席を立って、階段を下りてすぐの水道で手を洗い、美術室へ戻ると、今屋敷蜜の姿はなくズタズタに切り裂かれたカンバスが画架に残されていた。
離席していた時間はほんの数分で、今屋敷蜜が二年生部員に続いてすぐに美術室を出たと仮定しても犯行に使える時間は短く、たまたま居合わせたというよりは計画的な犯行と決死隊員には思われた。
決死隊が二年生部員からその供述を聞いている際中、今屋敷蜜は我関せずといった様子で肖像画の制作を進めていて、興味を持った猪戸亜威が、誰の肖像なのかを尋ねたら、インドの殺人犯だと答えた。
両目が描かれておらず空白になっているのはなぜかと質問すると、サングラスをかけていたからわからないんだ、最後に想像で埋めるのだと。筆は進んでいるようで完成は間近のようだった。
決死隊は、今屋敷蜜から事件当時の記憶を聴取したが、全く覚えていないとのことで、美術室での捜査は切り上げて次の現場に行くことしたところ、今屋敷蜜から自分も一緒に行きたいとの申し入れがあった。
もともとその予定だったので、推名探は大喜びで同行を許可した。
そこで、決死隊員のひとりである美術研究部部長・絵野沢美知子は美術室を施錠することにして、残った数名の部員を帰らせて、しっかりとドアの鍵を閉めた。
猪戸亜威が廊下から窓越しに室内に視線をやると、校庭に面した正面の窓の手前に置かれた画架の上で、両目のないインド人の肖像画がこちらを見つめていたのであった。




