復元された文字
エセックス警察は、イギリスで最大の地方警察の一つであり、スタンフォード・ル・ホープはここの管轄だ。私たちは、事件現場から三十五キロほど北に位置する、チェルムスフォードのエセックス警察本部へ向かった。
巡査長のスティーブン・ハリントンは、痩せて背が高く、面長で額の広い男だった。人を食ったような笑みを浮かべながら私たちを出迎えた。
第一印象として、私はひと目見たときからこの男のことが気に入らなかったが、分別ある大人としてそれを表には出さないように自制した。
「スコットランドヤードから話は聞いている」
ハリントン巡査長は私たちと執務机を挟んで向かい合って、ぶっきらぼうに告げて椅子から立ち上がった。
巡査長が葉巻を口に入れてもったいぶった態度をとっている間、今屋敷蜜は口を閉じて、彼が続きを話すのを辛抱強く待った。
紫煙を吐き出してから、ハリントンは肩に飾られた記章(月桂樹の花輪の上に赤色の王冠)を葉巻を持った手で示して「しかし、彼女は私の上司というわけではない」と私たちにじろりと威圧するような視線を向けた。
今屋敷蜜は、私の隣で背をまっすぐに伸ばして「もちろん理解しています、ハリントン巡査長。そしてあなたもわたしの上司ではない」と彼女よりも四十センチメートルは長身の巡査長を見上げて答えた。
一見すると、いい大人がいかめしい面をして少女を虐めているようで、私は、彼の態度を改めるよう抗議しようと口を開きかけたが、その前に、巡査長は鼻を鳴らしてどさりと椅子に座った。
「時間がないから手短に済ませるように」
この記録を読まれている読者に補足しておくと、警視庁長官がイギリス警察内で最高ランクだとみなされることがあるが、実際には、エセックス警察を含めた地方警察の長はそれぞれの管轄区域において最高責任者であり、比較することは暗黙のうちに制限されている。
「では、事前に依頼しておいた調査の報告を聞かせて下さい」
巡査長は葉巻を指に挟んだまま机に置かれたファイルを手元に寄せ、「焼死体の身元は、ハリー・モリス、二十六歳無職。火災現場になった借家の住人だ。同居人はいない」と言って眼鏡をかけたあと、「おっと、記録済みの捜査情報は知っているんだったな」と含みのある言い方をした。
「あー、壁の文字が書かれた時期だが、正確には不明だ。前日の土曜に事件現場を配達に訪れた郵便局員は書かれていなかったと陳述している。内開きの玄関から問題の壁は丸見えだが、一面に文字が書かれていたら気づいたはずだとも。それと、前の週に被害者の友人が訪問しているが、そんな文字はなかったと証言した」
彼女はその友人の住所を聞いて、メモに取った。
「文字に使われた塗料の種類はわかりましたか?」
「木材由来の染料のようだ」巡査長はファイルに書かれた内容を読み上げた。「なぜそんなことを気にするのかわからんね」
「わたしの指示した方法で文字の復元をしてくれましたか?」
「君の指示した方法?」 ハリントンは眼鏡を持ち上げてから、彼女をちろりと見て、ファイルに視線を戻した。
「君の指示かは知らんが、M式グロス検査法というものを使って復元している。その結果、YとOとIが読み取れた。Iより後の十文字目以降は復元できなかった。つまり、HAPPYHOLIまで読めたわけだな。誰かが壁にHappy holidays(楽しい休暇を)とでも書いたのか?くだらん!こんなもの解決の手がかりにはならん」
あとになって今屋敷蜜が教えてくれたのだが、このM式グロス検査法は、燃えた手紙を読むための手法に彼女が改良を重ねたものだ。ジョン・ディクスン・カーの小説にも登場していて、彼女はそれを基にして実験をしたそうだ。聞かされた詳細は割愛するが、焦げた紙をしけらせる際に、彼女の発明した薬品を使うことで、大幅に精度が高まったのだという。
「以上だ、もういいだろう」ハリントンはため息をついてファイルを閉じた。
現場を見せてくれという今屋敷蜜の要求には、巡査長は時間の無駄だと言いたげに「好きにしろ、担当のバジルトン署には伝えておく」と応じた。
それで話を切り上げて、退室をしようと私がドアを開けたところで、今屋敷蜜が足を止めた。
「最後にひとつ、巡査長はこの事件をどう思いますか?」
ハリントンは視線を上げずに、「私は詳しい捜査情報は把握してないが、事故ではない。おそらく自殺だな」と答えた。既に別の書類を手に持っていた。
もう一度ハリントン巡査長に礼を言ってから、私たちは退室した。
タクシーに戻ってから彼女は、「やはりエセックス警察はこの事件を積極的に捜査する気はないようだ、来て正解だった」と私に笑顔を見せたのだった。




