第77話 勇者の初恋④
厳しい冬が終わり、日々は瞬く間に過ぎていく。
失った利き手とは反対の手で、今では鍬を握っている。
金を払い、当たり前のように口にしていた食物も、こうして誰かの努力の上に成り立っている。そんなことにさえ気づかないまま、かつての自分は自由気ままに生きてきた。
謳歌していたのは仮初の自由だ。
畑仕事を終え、間借りしている家に戻る。
と、同時に元聖女だった女が姿を見せる。
「いいお肉が入荷したので、今日は少しばかり奮発してしまいました」
「……悪いな」
簡素に礼を述べ、そしてそんな自分が気恥ずかしくなり、目を逸らす。
目の前の女がパチクリと目を見開く。が、特に何かを言うことはなかった。
「やはり、魔物の数は増加しているみたいですね」
「それは……仕方ないだろ。魔物と戦える人間は少ない」
魔物と人類の繁殖速度には、明らかな差がある。
かつてこの世界にギフトが存在していた頃、魔物を狩ることはさして難しいことではなかった。
もちろん、人類が到底敵わない強大な魔物も多く生息しているが、およそ一般的な魔物は、ハンターにとっては狩りの対象であり、魔物を討伐し、間引くことはハンターに課せられた義務に等しい。
ハンターとは、ギルドとは、世界の秩序を保つ役割を担っていた。
だが、この世界から女神の祝福が消失した今となっては、ハンターの死亡リスクは計り知れないほど高まっている。人間は、狩る立場ではなく、狩られる立場でもあるのだ。
ギフトとは言わば、強制的に人間の能力を増幅される加護であり、呪いのようなものだった。
そしてそんなものに依存していた人間は、堕落していたのかもしれない。
ギルドの凋落と、著しいハンターの不足。
そうしたシビアな状況は、すぐに食糧不足という問題を引き起こした。
自給率を高める為に、農業が活性化したといっても、魔物は増え続ける。
低位の魔物であっても、その危険度は比べ物にならない。
危険だが、誰かがやらなければならない。
そしてその勇気を持つ者を、人は尊敬し、英雄、或いは勇者と呼ぶのかもしれない。
「現在、早急にギルドの再建に動いているようですね。より強固で、より強靭で、より効率化された。私に詳しいことは分かりませんが、組織作りについては、魔族のみなさんが頑張ってくれているようです」
「機械文明か……」
かつて大陸の覇者として振る舞っていた人種は、それが虚構でしかないことを知った。
異なる進化、異なる発展。魔族とは、ギフトを持たない代わりに、機械を用いた高度な科学文明を作り上げた種族だ。その知識と技術力は人種からすれば、人知の及ばない魔法そのものだった。
特に魔族が使う武器は遠距離が主体で、近接戦闘に特化した剣などとは全く異なる。
世界は大きな変革を迎えていた。
誰もが等しくそのうねりの中で、懸命に生きている。
「魔王なんて何処にもいなかった……」
「いましたよ、確かに。それは私達が考えていた存在とは違っただけです」
この手で殺した。その手は失っているが。
今でも幻肢痛に悩まされる。
利き手を失ってまで殺した先に得た結果は、平和などではなく、ただの破滅だ。
「さ、早く着替えてください。土臭いですわよ?」
「あ、あぁ」
言われるままに服を脱ぎ、着替える。
過去の自分なら、退屈だと一笑に付していたであろう退屈な生活。
なのに実際は、退屈とは正反対で、新鮮な日々だった。
今日も無事に生きていられた。就寝前、いつもその事実に安堵する。
そして目覚めたときに感謝するのだ。無事に明日を迎えられたことを。
「ロンドさん、怖いですか?」
「怖い? 俺が?」
いつの間にか身体が震えていた。これは怯えだ。
「今の貴方は無力です。女の私でも、小さな子供だって、貴方を殺そうと思えば簡単に殺せる」
「俺にだって撃退するくらいの力はある!」
利き手じゃなくても剣を握れる。集団であれば敵わないだろうが、そう易々と負けるつもりはない。
「そうでしょうか?」
そんな俺の言葉を、あっさりと元聖女の女は否定する。
「貴方を殺すのは、貴方に恨みを持つ者かもしれませんよ? 今のロンドさんに、相手ができますか?」
憎悪。誰もが魔王を抱いていた。
魔王イルハートも、側近のベルンという男も。そしてアイツと一緒にいたあのガキも。
今の自分に向けられればひとたまりもない殺意。
「なら、ミロはどうして……」
その先を口に出すことはできなかった。
口にしてしまえば、今の生活が失われるような気がして。
いつの間にか一緒に暮らすようになった元聖女の女。
同情か、かつての同胞としてのよしみか。或いは聖女としての責任か、元来の世話焼き体質からなのか。
いずれにしても、名前は長いのでミロと呼んでいるこの少女がいなければ、こうして支障なく生きるだけの生活を送るのは難しかっただろう。
「貴方は価値を示さなければならない」
「俺に何ができるってんだ」
吐き捨てる。誰もが等しく無価値になったこの世界で、いったいどんな価値があるというのか。
「まだまだですね」
教会の人間はこれだから嫌いだ。ごちゃごちゃと煙に巻いて、肝心なことを何も言わない。
「あぁ、そうかい」
皮肉げにそう返事して、平凡な日常に戻る。
だが、不思議と俺は、そんな生活が嫌いじゃなった。
うだるような暑い時期が終わり、朝晩に吹く風も涼しくなってきた。
畑の見回りを終えて、その場で一息つく。
実った作物を害獣に荒らされたときは憤激したが、今の自分では撃退もできない。罠を張ることでなんとか維持していた。
「いいではありませんか。今度はロンドさんが奪われる立場になったというだけです」
以前、ミロから言われた言葉を思い出す。
なるほど。確かに奪うことは簡単だ。だが、奪われた方はそうはいかない。
どうやら俺には怒る資格すらないらしい。
しかし、そうした辛辣な言葉を吐くミロだが、決して俺を見捨てようとはしなかった。
常に寄り添い献身的に支えてくれる。
いつしか欠かせない存在となっていた。
「馬鹿馬鹿しい。十代のガキかよ……」
この感情がなんなのか、あえて言葉にするまでもない。
だが、尤も残酷なことは、痛感してしまったことだ。
人は、一人では生きられない。
そんな当たり前のことを、これまで正しく理解したことはなかった。
誰かが魔物を狩り、誰かが作物を作り、誰かが漁に出で、誰かがそれらを調理する。
誰かが街道を整備し、誰かが街や村を管理し、誰かが国を運営して。
誰かが誰かが誰かが誰かが。
なら自分は? 自分にはどんな役割があるのだろうか。
かつてギフトがあった頃は、深く悩む必要はなかった。
目に見える才能を、そのまま利用するだけでよかった。
誰もが他者の助けを必要としている。
誰も必要としない男がもたらした世界は、その男とは正反対のものだった。
「俺はミロを必要としている……」
認めたくはない。だが、認めるしかない。
失いないたくないと、強く思った。
全てを失った自分が、この世界で最後に見つけた唯一の価値ある存在。
共に生きたい。
共に過ごしたい。
ありふれた平穏な日々。
もうこれ以上、波乱はいらない。
守る力は自分にはもうない。
けれど、この気持ちだけは本物なのだと証明したかった。
向き合うことから避けてきた。
なんとなく続けてきたこの生活を失うことが怖くて、言葉にしなかった。
そもそも彼女はどうして俺の傍にいる?
罪と向き合わなければ、いつかミロは俺の傍からいなくなる――そんな予感がしていた。
冷たい風が吹きこむ。
――季節は廻り、また冬がやってくる。




