第76話 勇者の初恋③
「聖女……?」
自分と同じく最高の才能を持つ、特別な存在。
悪ふざけでつけたような、下を嚙みそうな馬鹿げた名前だった気がする。
かつては、パーティーの一員になるかもしれなかった女だ。
そして今は、自分と同じく特別から成り下がった普通の女でもある。
この世界から特別が消えて、誰もが無価値になった。
平等という名の偽善が押し付けられただけだ。
「どうして……?」
辛うじて口から意味のある言葉が零れた。理由は分からないが、目が離せない。
困惑する俺の言葉に、かつて聖女だった女が困ったような表情を浮かべる。
「どうしてと言われましても……。そうですね、しいて言うなら、里帰り? でしょうか」
「里帰り?」
逡巡しながら零した言葉に、疑問を抱く。
里帰り。ということはつまり――。
「お前、この街で生まれたのか……」
「さぁ? 古郷と呼ぶほど愛着があるわけでもありません。私は――孤児でしたから」
「孤児? お前が……?」
華やか女に似つかわしくない過去。憂いを帯びた表情からは、決してその過去が、女にとって好ましいものではなかったことが窺える。
「……そういう貴方はどうなんですかロンドさん?」
まるで胸中まで覗き込もうとするような、元聖女の大きな瞳。
赤裸々に暴かれているような居心地の悪さに舌打ちする。
「俺は――」
とっさに嘘を吐こうとして口ごもる。意味がないことを悟ってしまったからだ。勇者に似つかわしくない消し去りたい過去。しかし、消えたのは過去ではなく、勇者という肩書きの方だった。
あまりに皮肉な世界。そんな世界にした男に、内心で毒づく。
「俺も昔、孤児だった。孤児院で育ったんだ。この街の――」
そこまで言って、ふいに気づく。目の前の女も同じことを口にしていた。
微かな既視感。だとしたら、俺と目の前の女は過去に――。
「……そうですか。貴方も孤児院で。施設はもうなくなってしまいましたが、もしかしたら、昔、何処かで会ったことがあるのかもしれませんね」
「ハン、お前みたいな派手な女と会ったことがあるなら、忘れるはずがねぇ」
遠い目をする聖女。
ぶっきらぼうに口にした言葉を、元聖女がため息を吐く。
「そうでしょうか? 貴方は、大切なことを何も覚えていない。理解していない。見ようとしない。だから、そのような姿で、今こうしてここにいるのでは?」
「くだらない説教は止めろ! いつまで教会の犬のつもりだ!」
女神は世界を救わない。それが明らかになり、教会の権威は失墜した。
ギフトも消え去った今、教会の価値など欠片も残っていない。
教会への信仰。その源泉は、結局のところ力への羨望にすぎない。
奇跡を起こせない者に願って得られる見返りなどなかった。
人々が求めているのは、信仰よりも明日を生きる為の食料であり、寒さをしのぐ為の服であり、安心して眠れる家だった。役に立たない教義など、今やだれも口にしない。
今、この世界に縋れるモノは何もない。
奇跡の否定。信仰の放棄。ギフトの消失。
焼け野原で、誰もが拠り所を必要としているにもかかわらず、救いの手はない。
女が背後を振り返り荒廃した街に視線を向ける。厳冬の寒さが支配する中で、それでも人は逞しく生きていた。必死で懸命に、当事者である自らの人生を切り拓かんと。
「だから、今、私もこうしてここにいるのです。託された役目を果たす為に」
復興の真っ只中、生まれ育った孤児院はもうないが、これから必ず必要となるだろう。人は、大戦によって多くのものを失った。親も子供も、友人も。誰にも等しく訪れた不幸。
「貴方は、何をしにここに戻って来たのですか?」
――女の瞳の冷たさに、心臓を鷲掴みされたような気がした。
降り積もる雪の中、元聖女の謳うような言葉だけが木霊していく。
「剣を握ることもできず、満足に歩くこともできず、人の助けを得られなければ生きられない。足手まといで役立たずの貴方に、何ができるというのですか?」
カッと頭に血が上る。これまで目を逸らしてきた事実。
昔の俺なら、剣で切り殺していたかもしれない。――今はそれすらもできない。
「――俺は、魔王を殺した!」
まさしく勇者にしかできない偉業。褒め称えられるべきだ。こんな身体になるまで戦って、そして結果を出した。だが、それを誰も認めようとしない。そんな理不尽は許されない。
「だから?」
そのあまりに冷淡な聖女の態度に、怒りが萎む。
「それで誰が救われたのです?」
世界が――と、そう反論しようとして口にできなかった。
結局、誰一人、何も救われていない。――自分自身さえも。
「それは、アイツだって同じだろうがッ!」
こうして責められる謂われない。俺が成し遂げたことは、他の誰にもできないことだった。選ばれた特別な人間だけが、達成できる成果だ。俺は特別な存在だった。少なくとも、あのときはまではそうだったはずだ。
俺を妬むだけの凡人共が、ゴミ共が、どれほど嫉妬し怨嗟の声を上げようとも、人間としての価値が異なっている。聖女と同じように、いや、それ以上に、替えの利かない貴重な存在。それが勇者だった。勇者のはずだった。
「そうでしょうか? 確かに、あの人は誰も救わなかった。一人で全てを救う力がありながら、それを放棄した。考えてみれば当然です。ハンターだって、依頼するには、お金を払う必要があるのですから」
無償の奉仕。そんなものは幻想にすぎない。
教会だってそれは同じだ。聖女が起こす奇跡を授かる為に、貴族は莫大な寄付を協会に行う。
そもそも教会そのものが、人々から信仰という対価を受け取り成り立っている。
「――私達はあの人が救いたいと、力を貸したいと思える何かを提供する必要があった」
口の中がカラカラに乾いていた。聞きたくない。耳を塞ぎたいが、身体が動かない。
「だとしたら、それはなに? お金? 信仰? なんだと思いますかロンドさん?」
やめろ! そんな目で俺を見るな! 怯えが全身を這いずり回る。
「あの人が、誰かを助けたいと思えるような動機が、この世界に存在すると、貴方は――本当にそう思うのですかロンドさん? これまで奪うだけの存在だったこの世界に」
お伽話のように単純な終わりは訪れない。魔王を倒して全てが解決する。都合の良い筋書きは否定され、この元聖女が言っていることが正しいのだとすれば、それは――。
「……俺が原因だって言うのか? 俺が、俺が魔王だって、そう言いたいのか!?」
ただの私怨で世界を滅ぼす? そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。
アイツは確かに何もしなかったのかもしれない。だが、それは結果的には見捨てたのと同じことだ。
「あの人は誰の力も必要としていませんが、ロンドさん、貴方は違う。今の貴方は周囲の力を借りなければ、介護されなければ、生きることすらままならない。あぁ、なんてかわいそう」
屈辱だった。そしてそれが覆せない事実だということも。
剣で魔物を狩りに行くことも、犯罪者を捕縛して懸賞金を貰うことも、これまで生きる為に身に着けてきた力は霧散し、未来を見通せない暗闇の中に沈んでいる。
元聖女が語り掛ける。
「貴方に、この世界で生きる価値がありますか? ロンドさん」




