第75話 勇者の初恋②
――しんしんと雪が降っていた。
降り積もる雪は白銀の銀世界となって視界を覆い尽くしていく。
シャリシャリという足音だけが静寂の中、響いている。
凍えるような寒さ。人の気配どころか生き物の気配さえも感じない。まるでこの世界に一人取り残されたかのような孤独感。
だが、あながちそれも間違っていないのかもしれない。俺が一人なことは何も変わらない。かつて持っていた全てを失った今、もう長い時間、孤独の時を過ごしてきた。
フードを目深に被り、人の目に付かないように細心の注意を払う。もし正体がバレれば、いつ殺さるか分からない。
自分がこれほど恨まれているということに、これほど憎しみを抱かれていることに、恐怖で身が竦む。いや、こんな状況でさえなければ、一生気づかなったに違いない。所詮、負け犬の遠吠えだと、敗北者の言い分だと馬鹿にし嘲笑していただろう。これまでそうだったように。
結局は、その報いを受けている。かつて周囲に抱いていた憎悪はすっかり霧散していた。繰り返される逃亡の日々は、心を打ち砕くのには充分だった。
迫害され、まともに働くことすらできない今の俺は、ただの弱者であり、いつでも狩られる存在だ。荒廃したこの世界で、生き抜くことすら困難な現状の中、俺を助けようなどと思う人間は誰もいない。
それもそうだ。俺自身が、俺のような存在を真っ先に見捨てるだろう。誰かと協力しないと生きられない。なら、これまでその誰かを愚かにも馬鹿にし、見下し、切り捨て、好き勝手してきた俺に協力しようと思う存在などいるはずもない。
どのみち、この腕ではまともに魔物を狩ることすら不可能だ。唯一縋れるものだった「強さ」さえも失った今、俺はまるで生きる屍のように、三年もの間、果てのない逃亡生活を続けてきた。
何の為に生きるのか、何故逃げるのか、逃げた先に何があるのかも分からないまま、周囲の視線に怯え、必死に泥水を啜りながら、無様に生きてきた。死ぬことすらできないまま、その勇気さえも持てないままに。
罪にまみれた過去を懺悔しようにも、協会は既に崩壊し存在しない。神に選ばれし、女神の御使いだったはずのアノ男が、その全ての役割を放棄し見捨てたように、人々もまた、この世界を救わない女神を見捨てた。
馬鹿げた力になど頼らないと、独立を宣言した。
それは――インデペンデンスデイ。
後にそう呼ばれる独立記念日を率いたのは、クレイスではなく、世界の表舞台に突如として表れた新人類と称される男、ゼオル。
旧人類であり新人類。
その男は、ギフトが奪われあらゆるものが退化したこの世界の、希望そのものだった。
ギフトに頼らずとも、その男は証明してみせた。
自らの力を。絶大な魔力から放たれる極大の魔法。強靭な肉体が生み出す圧倒的な身体能力。
おびただしい魔物から何度も人類を、いや、人類だけではなく他の種族を救っていた。紛れもない救世主。
何者でもないはずのギフトを持たないその男こそ、光だった。
世界は、ゼオルに率いられ急速に再構築されつつある。
もう二度と誰かに与えられた力になど頼らないように。
言ってしまえば現在は、ギフトという薬物依存からの脱却を図るリハビリ期間なのかもしれない。
だからこそ、かつて【勇者】だって俺には、もうこの世界に居場所がない。ギフトを利用し、この世界の主役であるかのように振舞ってきた俺は、その存在価値の全てを奪われた。
「……これがお前の復讐だってのかよ」
力なく呟く。全てを見捨てたクレイスが今どこで何をしているのか知らない。ゼオルに匹敵するような存在はクレイスしかいないが、女神の御使い足るクレイスが、女神からの解放を目的としている人類の羅針盤になることなどありえない。
全身の感覚がなかった。このままでは直に凍死するだろう。潰れた腕以外にも、身体中がまるで別物になったかのようだ。
朦朧とする意識の中、我武者羅に歩き続けた。行く当てもないまま、辿り着く未来さえも見えないままに。
――ふと、視界の先に古ぼけた街が見えた。
ここが何処かなのか、頭の中で地図を思い浮かべようにも、形にならない。
ただ何処か、懐かしさを覚える。
幻覚を疑うが、近づいても蜃気楼のように消え去ることはない。
「……ここは」
朧げな意識の中、街の入口に辿り着く。
門番はいない。だが、昔は確かにここに門番が立っていたはずだ。
見覚えがある。そうだ、間違いない!
すっかり忘れていた。もう思い出す事もないだろうと思っていた過去。
こんな寂れた街に帰ってくることなど考えたこともなかった。
だが、まるで帰巣本能のように俺はここを目指していた?
分からない。だが間違いなく、この街は俺が【勇者】になるまで暮らしていた故郷だった。
「……貴方は、ロンドさん?」
名前を呼ばれビクリと緊張が走る。急いで逃亡しようとするが身体に力が入らない。それどころか急速に意識が遠のいていく。雪に足を取られ、その場に倒れ込んだ。
朧げな視界に、何処かあどけなさの残る金髪の女の姿が見えた。




