第75話 勇者の初恋①
「てめぇのせいで、ウチの家内は死んだんだ! ぶっ殺してやる!」
「違う! 違うんだ! 俺は俺の役割を果たしただけで――」
「おい、こっちに勇者がいるぞ!」
「クソッ!」
突き刺さる敵意にその場から逃げ出す。自由に動かせない身体に苛立ちを覚えながら必死に路地を駆け抜けていく。追いかけてくる気配を背中に感じて、捕まればその先に待つのが死だけだと理解する。
クソクソクソ! どうして俺がこんな目に!
幾ら口汚く罵っても、数年前なら簡単にできたことが今では到底不可能であるという事実に腹立たしさを覚える。逃げるしかなかった。他愛のないゴミカスのような人間さえも、今の俺より遥かに強いのだから。
失った利き腕。満足に日常生活も遅れない不便さは苦痛だった。腕だけではない。不意打ちで魔王を殺したあの日、怒り狂った魔王の側近だった男と突如、この世界に破滅をもたらしたガキの女、その両方から狙われ、命からがら逃げ出したものの身体は満身創痍だ。
それでも肉体のダメージは【勇者】のギフトが癒してくれる。失われた腕も【聖女】の力なら元に戻せるはずだった。
だが、この世界からギフトは消えた。
残されたのは、勇者ではなく、ただただ無価値に成り下がった俺だった。
選ばれし存在だったはずの【勇者】は今や戦犯となり、かつて【勇者】だからと許されてきたあらゆる特権は廃止されている。
【勇者】だけではない。ギフトなど既にこの世には存在しない。誰もが生きることに精一杯のこの世界で、特権などあるはずもなかった。降って湧いた平等というおぞましい現実。
復興を急ぐ中、必要とされているのは労働力だ。人口は激減し、ギルドも教会も壊滅している。人間を守る組織はもう何もない。新たに冒険者ギルドを立ち上げようという動きはあるが、人材不足で何処も手一杯だ。
本来なら【勇者】こそが、その【勇者】という存在を以て希望となるべきはずだった。
ギリッと奥歯を噛み締める。剣さえ握れなくなった俺は魔物の討伐をすることもできない。路銀も尽き欠けている。どうすれば生きていけるのか、これまでに感じたことのない無力感に苛まれていた。
何か仕事がないかと案内所に向かってみたが、仕事にありつく前に追い返されてしまう。
「ふざけるな! 俺は勇者だぞ。その俺がどうしてこんな!」
【勇者】の使命とは魔王を殺すことだったはずだ。それを果たした俺がどうしてこんな目に合う? 幾ら自問自答しても答えなど出ない。
――この世界は狂っている。
ワケがわからなかった。嘘だと思っていた。魔族との和平? そんなものあるはずがない。もし仮にそんなことが実現すれば、自らの【勇者】というアイデンティティは消滅する。
魔族と人間が極秘に和平を結ぼうととしている。そんなことは信じられなかった。突如、大陸を襲った厄禍。その正体がなんなのかすら分からず、誰もが行き場のない暗闇をもがきながら答えを探し求める中で、俺はただ【勇者】としての役割を果たそうとしただけだ。
人間を救う。誰もが認める【勇者】となるはずだった。その為に払う犠牲など必要経費にすぎなかったはずだ。
だが忌々しくも、この世界が求めたのは【勇者】の俺ではなく、あの無能のゴミだった。
俺があの無能に負けることなどあり得ない。魔王を殺した後は、今度こそ確実にクレイスを殺す。そうほくそ笑んでいたが、流転した世界は、ひっくり返ったようにこれまでの全てを否定していた。
気づけば、いつの間にか俺は戦犯となり、この世界からはギフトが消失し、特別な存在だった俺は、今では罪人のような日々を送るハメになっている。
「いたぞこっちだ! アイツだけはこの手で殺す!」
「ッチ! てめぇが雑魚だからだろうが!」
思わず言い返すと、男の顔が憤怒で歪む。一方的にこちらを知っているのかもしれないが、俺は男のことを覚えてすらいない。理不尽な怒りの源泉がなんなのか分からない。
他者から恨みを買っていることは分かっていた。それだけのことをしてきた。だが、もしその理由が、かつて俺が他者から奪ったものにあるのだとしたら、それは弱者の八つ当たりでしかないはずだ。
弱いから奪われる、弱いから守れない。それは当然のことだ。
俺は違う。俺は【勇者】だ。強いから奪い、強いから許される。弱い奴が悪い。それがこの世界のルールだったはずだ。
それなのにどうして、どうして俺は逃げ回ってるんだ!
この惨めな現実を受け入れることができない。アイツ等はこの俺に嫉妬しているだけだ。
ふざけるな! 俺に感謝することもせず、自ら戦うこともせず、のうのうと生きてきただけのくせに、この俺を、【勇者】の俺を否定することは許さない! 必ず這いつくばらせてやる!
憎悪が滾っていく。しかし、かつては幾らでも湧いてきた力が今はまるで感じられない。あるのは途方もない空虚。急に自分が矮小な存在になったように感じられて、身が竦む。
ギフトが消えた原因。かつて【聖女】だった連中は、ギフトが消える前に神託を受けたという。
「女神が見捨てただと? そんなことあるわけねぇ!」
だとしたら、この世界で最も女神に愛されていたはずの【勇者】はどうなるのか。女神がその存在を保証しなくなった世界で、俺は【勇者】で有り続けることができるのだろうか?
どうしようもない不安が募っていく。自らの窮状。誰も俺を認めない。誰もが俺を否定する。
クソクソクソ!
路上に唾を吐き捨てる。
寵愛を受けてきた。周囲の全てが俺を特別視していた。事実それを裏付ける力が俺があったはずだ。
「蔑みやがってゴミ共が!」
逃げる。何故【勇者】の俺が逃亡しなければいけないのか。それさえも分からないまま、生きる為に敵から逃げる。
これまで敵はみんな殺してきた。ムカつく奴からはその尊厳を奪ってきた。立ち塞がる者はいなかった。なのに今は――。
それは、俺の人生の中で、初めて味合う屈辱だった。




