第73話 答えを知る者などいはしない
「我々は見捨てられたのでしょうね」
ポツリとミラが呟く。薄暮が照らす地平線。見えるのは荒野だけだ。復興までにどれほど時間を有するのかも分からない。復興という未来を見据えることが許されているのかさえも。
「分かんないよ。分かんないけどさ、やるしかないじゃん」
本来は明るいドリルディアの声も目の前の現実を前に沈んでいる。それでも気力を奮い立たせるのは、彼女が【聖女】だからなのか、それとも元来の性格から来るものだろうか。いずれにしても、この状況の中、その明るさは何物にも代えがたいものだ。
今となっては【聖女】にかつての権威は残っていない。信仰は失墜し、あるのは戦力としての価値だけだ。教会は崩壊し組織の建て直しもままならない。再建を急ぐ冒険者ギルドに対して、教会の動きはあまりにも遅かった。
いや、本当は誰もが理解していた。再建など不可能だ。なにより【聖女】こそが疑念を抱いている。女神に対する不信感。最早、女神を崇めることは叶わない。
――女神は人を救わない。
神の身からすれば、矮小なる人の行く末になど興味がないのかもしれない。超常の存在に対して、その意図を汲むことなどできはしない。巫女としての自分達。その役割すら本来は必要なかったのかもしれない。
「祈りではなく、剣を握り立ち向かっていれば――」
「ミラさん。もしもの話には意味がありませんわ。私達は私達にしかできないことをやるしかないのですから」
ミロロロロロ達は仮設の診療所で負傷者の治療に従事していた。権威の象徴だった教会の総本山は見る影もない。瓦礫を撤去し急いで作られた病院は決して十分な設備とは言えないが、それでもこの2年の間、最も必要とされた施設でもあった。
女神に対する不信が高まる中にあって、女神の代弁者足る教会。そしてその筆頭でもある【聖女】に敵意の矛先が向かなかったのは、【聖女】の献身によるところが大きい。
(私達は、どこから狂っていたのでしょうね……)
ミロロロロロは後悔していた。2年前の自分は、あまりにも無垢で疑いもなくこの世界を信じていた。
当たり前のことに気づかなかった。クレイスはクレイス。一人の人間であり、決して女神の代行者ではない。彼には彼の意志があり、それが女神そのものの意志であるはずなどなかった。
ほんのひと時でもクレイスの隣にいた自分が、彼を繋ぎとめておくべきだったのだ。
クレイスは自らの肉親であるオーランドを何の躊躇も感慨もなく滅ぼした。父親の殺害。僅かでもそこに逡巡があったようには見えなかった。他の者達もまたクレイスにとっては同門、同郷の者達だったはずだ。
勿論、オーランド達ウインスランド家の者達が引き起こした凶行。それを止められるだけの力を持っていたのはクレイスだけだったのかもしれない。
家から追放されたと言っていたが、それでも彼がこの世界と繋がっていた縁をあれほどまでにアッサリと切り捨てたことにもっと危機感を持つべきだった。
彼を救わなかった世界を彼は救わない。
救いを求める声は彼に届かない。彼の声が誰にも届かなったように。
もっと早く気づいていれば、何かが変わったのだろうか。深く、より深くクレイスの心に近づけていれば。彼にとってこの世界は、どうでもいいものではなくなっていたのだろうか。ほんの僅かでも彼が護りたいと救いたいと思うような世界だったのならば。
その手を離すべきではなかった。どれほど疎ましがられようとも、もっと寄り添っていればと、そんな後悔ばかりが山積していく。もしもの話には意味がない。紛れもなくミロロロロロが今抱えている葛藤や後悔もまた、ありえたかもしれないもしもだ。
ミラもドリルディアもミロロロロロも。考えることは似通っていた。もっと上手くやれたはずだった。正しい道筋へと導ける可能性が存在していた。
だが、いつからかそれを放棄していた。度し難い他力本願。彼ならば、彼ならばと。彼にはそれを叶える義務などないというのに。自分ではなく、誰かに縋った結果が、判断を人任せにし続けてきた今だった。
「災厄の答えを知ることもなく、知れば誰もが怒り狂うでしょう。このあまりにも愚かな顛末に」
「でもさ。きっと答えを知る必要なんてないんだよ。それは傲慢だと思うから」
いつだって事情など誰にも分からない。かつて滅んだ文明があったとされるが、その理由を滅んだ誰もが理解していたのだろうか。後世の誰もが理解しているべきなのだろうか。そんなことはありえない。結局は、自分とは関係なく、世界は流れていく。その行く末を決定する権利など誰にもなかった。
「私達は主役になんてなれなかった。いえ、最初からいなかったんでしょうね。だから一人一人に価値があって。でも、いつしかそれを忘れて、ただ従うだけの奴隷に成り下がっていた」
彼女達は知っていた。突如、襲った災厄の正体を。
アリスという少女が、どのような存在なのか。それを伝えたのはヒノカ・エントールだ。
アリスは生まれた瞬間、ヒノカ・エントールの胎内から彼女が抱える全ての憎悪を奪い去った。全てを破壊し尽くしたいという純黒の殺意。目に映るもの全てを殺して壊して滅ぼしても尚、満たされることのない破滅への渇望。
アリスが生まれながらにして経たのは祝福ではなく、憎しみと哀しみだけだ。それは祝禍といっても良いのかもしれない。
アリスは理解していた。自分は、母親であるヒノカ・エントールから愛される存在ではない。それろどころかその逆、ヒノカ・エントールから殺したい程、憎まれている存在だと。
ヒノカ・エントールもまた理解していた。アリスという少女を殺したい程、憎んでいる。だが、アリスはヒノカ・エントールの願い全てを受け継いだ半身なのだ。アリスの破壊を殺戮を蹂躙を望んでいたのは紛れもなくヒノカ・エントール本人だ。
愛など何処にも存在しない。憎しみだけが互いの存在を肯定する親子。
彼女達には災厄の正体を明らかにする勇気などなかった。明らかにしたところで、更なる憎しみの炎に焼かれるだけだろう。
(ヒノカさん、どうかご無事で……)
祈りは決して届かない。それでも祈らずにはいられなかった。
アリスがヒノカ・エントールを支配する感情の大半を奪ったことで、正気を取り戻したヒノカ・エントールだが、それはまるで抜け殻のようなものだ。死んでいないだけ、生きているだけの亡者にすぎない。
だからこそヒノカ・エントールは今、彼を待っている。
なにもかもが手遅れになった今、邂逅は更なる悲劇しか生まないのかもしれない。それでも、ミロロロロロは祈らずはいられなかった。その先に待つのが絶望だけだとしても――。
「さ、みなさん。明日は早いんですから。準備して寝ましょう?」
「えー。もうちょっと良いでしょミラちゃん。……不安なんだこれから」
「誰だってそうですよ。でも、本当はそれが普通なのかもしれませんね。縋って生きてきた結果がこれなのですから」
ミラが苦笑する。比較的被害が少なかったダーストン共和国に疎開していた人々も、徐々に活動圏を戻しつつある。帝都は壊滅的な被害を受けたが、生まれ育った者達にとって、その地を捨てるわけにはいかない。多くの血が流れたとしても、故郷であることには変わりない。
ミラはダーストンに戻り、ミロロロロロは帝都に向かう。この場に残るのはドリルディアだけだ。治癒の力を持つ【聖女】の力は広く求められている。そして精神的支柱としても。
この期に及んでその事実が、酷く疎ましく感じるとしてもその役割を真っ当することだけが自らにできることだと信じるしかなかった。




