第69話 生誕
思考を後回しにして一目散に駆け出す。考えている時間はなかった。ただ本能に従っただけだ。視界に入るのは、血、血、血――。夥しいほどの鮮血があちらこちらにばら撒かれている。聴覚に届くのは、悲鳴、絶叫、そして全身を潰されたような聞くに堪えない不快なノイズ。
何人もの魔族が絶命していた。だが、その死体は存在しない。
それら全てを振り切るようにベインはラボを捨て全力で走っていた。研究成果の結実。魔族の未来を切り開き、運命の鎖を破る悪魔実験。アリスは急激な成長は加速度的な早さで進んだ。
本来なら十月十日の予定が三か月になり、そしてそこから更なる飛躍を見せた。ここまで僅か二か月。まるで、すぐにでも現世に誕生することを望むような、或いは母体そのものこそが胎内からの排除を急ぐような、想定を遥かに上回る成長スピード。
常軌を逸した急激な成長は母体から膨大な栄養を取り込み、それは母体そのものを危機に晒すことを意味していた。衰弱著しいヒノカ・エントール。もう時間はなかった。ゆえに手術に踏み切った。
帝王切開。
手術は無事に成功した。高度な医療技術を持つ魔族にとって難しいものではない。魔族は回復魔法に頼るしか脳のない人間種族とは違う。身体構造を知り尽くし、治療、治験も積み重ねてきた。およそ一般的な怪我や病気なら容易く対処可能であり、魔法などという安易な奇跡に頼ったりはしない。
手術は確かに成功した。成功したはずだった。母体もすぐに回復するだろう。だが、誰もが凍り付いた。取り出された赤子、性別は女のはずだが、生まれたのは異形。とても形を保っているとはいえない。ドス黒い肉塊。
未熟児として生まれる可能性は大きかった。それでも、生まれた後に適切な処置を施し、十分な栄養を与えれば問題ないはずだった。
しかし、そうした思惑は全て覆る。誰もが理解できなかった。何故なら、それは間違いなく生きていた。魔族と人間の融合体。死んでいるのあれば、事前に把握できたはずだ。モニタリング検査でも強い生命反応を示していた。
――ならば、これは、この物体はなんだと言うのか?
狼狽が大きくなる。どうすれば良いのかその場にいるものでは判断しきれなかった。実験は成功したのか失敗したのか、廃棄すれば良いのか、或いはこの肉塊こそが成果なのか、何も分からない。
執刀していた医師が指示を仰ごうと外にいるベインへ連絡を取ろうとしたとき、それは起こった。
突如、膨れ上がる肉塊。膨張する肉塊は、取り押さえようと自らに触れた魔族を取り込んだ。骨が砕け、徐々に身体が肉塊の中へ埋まっていく。断末魔が上がるが、誰も目の前の光景を理解できない。それでも、今すぐにこの場から離れなければならないと脳が警告を発していた。
慌てて手術室から飛び出るが、逃がさないとでもいうかのように、肉塊は更なる膨張を始め、その場にいた医師達を取り込んでいく。だが、不思議なことにヒノカ・エントールには興味を示さない。
ベインはすぐに異変に気づいた。異常事態。モニター越しでリアルタイムに映像を見ていたベインをしても、状況を把握できない。モニターに飛び散った血が付着し映像が乱れる。
急いでその場に向かおうと動き出したとき、ベインのラボは吹き飛んだ。
「――逃げろイルハート! ……ここにいたら死ぬぞ!」
駆け込んできたベインの形相にイルハートはギョッとする。
「どうしたベイン!? 今日は例の――」
「そんな話をしている場合じゃない! 一刻も早くここから離れろ!」
問答の時間さえ惜しいのか、ベインのその有無を言わせぬ様子にたじろぐことしかできない。だが、これほどまでにベインが言うのであれば、それだけの何かが迫っているということでもある。書類を放り投げ、執務室から飛び出す。
その瞬間、大音量でアラートが響き渡った。
警告レベル5。
イルハートは思わず顔を顰める。歴史上、発令されたことなど数回しかなかったはずだ。それこそ今となっては超巨大な自然災害の発生が予測されるような場合にしか鳴りえない。
その頃には、イルハートの耳も異変を感じ取っていた。突如鳴り響く爆発音。グラグラと地面が揺れる。
「いったい何が……?」
「いいから走れ――!」
ベインと共に駆け出す。逃げるといっても、その目的地は何処なのか、何が起ころうとしているのかイルハートには何も分からない。非常事態における逃走経路は決まっている。備えも用意されている。だが、それが必要になる事態が突如襲ってくるなど、思いも至らなかった。
廊下を走り大広間に出る。ここを抜ければ外に出られるはずだ。大広間には多くの魔族が集まっていた。いったい何が起こっているのか理解できず、困惑の表情を浮かべている。
「全員、外に逃げろ! 固まるな!」
ベインの要請に魔族達が判断を迷うが、イルハートはベインの意を汲むと、自らの抱いていた同じ疑問をひとまず横に置き、ベインの言葉に追随する。
「慌てるでない! 冷静にこの場から離れよ――」
言い終わる前に大広間の天井が消し飛んだ。
天井が消失し、晴天が大広間を照らす。
「もう来たのか!?」
音もなく人影が降り立つ。あまりにも場違いな裸の幼女。
どんな種族問わず赤子とは可愛いものだ。庇護欲を掻き立てられる。こんなタイミングでなければそんな印象しか抱かない。だが、その身が纏う気配はあまりにも異質で、どういうわけかイルハートは震えが止まらなかった。
「ここはもう駄目だ! イルハート、あっちに脱出用の機動兵装が――!」
「なにをしてるんだ貴様はぁぁぁああ!」
イルハートは全力で幼女に向かって魔法を放っていた。
だが、幼女の眼前でかき消される。
一瞬にして目の前では惨劇が繰り広げられていた。
幼女は手当たり次第に周囲にいる魔族を殺し取り込んでいく。
カーペットが血に染まり、調度品を赤黒く塗り潰していく。美しかった広間は今や地獄と貸していた。
「いつの間に人型に……? まさか成長しているのか!?」
「成長? アレはいったいなんだベイン! 答えろ!」
「不味い……! だとしたらアレはまだ未完成で――」
「だから何を――!」
徐々にベインは理解し始めていた。当初見たときはただの肉塊だった。それが少し目を離した時点で幼女になっている。異常な速度の成長。そして存在しない死体の山。未熟児として生まれるはずだったアリス。
(外部から不足していた栄養を取り込んでいる? ……だが何の為に?)
それはかつて人間に魔族を因子を注入したとき起こった現象とも酷似していた。人の形を保てなくなり異形と化した人間。そして以前、帝国で見た造られた【剣神】も欠損した腕を補う為に、同胞を襲い貪っていた。
しかし、目の前の現象とはそれとも違う。仮に不足していた栄養を取り込むにしても、これほどまでに膨大な魔族を食らう必要はない。不足以上の栄養。補うにしては過大すぎる。
それに成長速度が異常だ。赤子どころか、人間で言えば現在の姿は3~4歳前後。成長とは到底呼べるものではない。無理矢理時計の針を早く進めているだけだ。寿命と引き換えに。
幼女の瞳がイルハートを捉えた。身体が向き直り、気が付けば一瞬で距離を詰められている。懐に潜り込まれた。しかし、イルハートはまったく動けなかった。硬直したように身体が言うことを聞かない。すべてが錯覚だった? なにが現実で、なにが虚構なのか分からない。
先程まで幼女だったはずだ。その姿が脳に焼き付いている。なのに目の前にいるのは、紛れもなく少女だった。
「――馬鹿なッ!」
「――イルハート!」
少女の手がイルハートを貫こうと迫る。咄嗟にベインが少女に体当たりし難を逃れるが、その瞳がイルハートから外れることはなかった。
「……あ、あぁ……い……う……え……ぉ……」
か細い声が少女の口から零れていく。最初は拙かったが、徐々に言葉を形作っていく。
「……おにぃ……わかって……る……コロ……ス……ニクイ……おかあ……どこに……」
ただ呆然とするイルハートにベインが声を掛ける。
「君だけでも逃げろ! コイツはアリスだ!」
「アリス……? アリスだと? そんなはずが――」
「今はそれどころじゃない! なんとか君だけでも――ぐっ!」
「ベイン!?」
少女がベインを蹴り飛ばす。まるでボールのようにベインの身体が勢い良く飛び、壁に激突する。
「――もう十分かしら」
今度はハッキリ意味を持った言葉だった。流暢で美しい。その瞬間、イルハートは理解してしまう。赤子のはずのアリス。幼女だったはずのアリス。言葉を発した少女のアリス。この少女は言葉を発せられるようになるまで、成長したのだと。
「じゃあ、全員殺そ。時間がないしさ。バイバイ、おばさん」
ざわりと悪寒が走る。いつの間にか、少女が頭上にかざした手には巨大な火球が浮かび上がっていた。
炎の魔法には複数の種類があるとされており、効果範囲や威力も様々だ。一般的には赤またはオレンジだが、限りなく適性を持った者の中には稀に蒼炎の炎を使う術者も存在する。
他に緑なども記録として観測されているが、だが、今まさに目の前に浮かぶ紫炎などイルハートをして知識にすらない。一つだけ分かるのは、それが破滅を呼ぶものであるということだけだ。
スローモーションのようにゆっくりと少女の手が降り下げられる。少なくともイルハートにはそう見えた。それは自分を殺す為のものではなく、この場にいる全て、或いは周囲全てを滅ぼし尽くす威力を秘めている。
どうしようもなく無意味に、何も分からず、ただ理不尽に殺される。それだけの力。
成し得たい夢も、描きたい未来も霧散し、あるのは諦めと死だけだ。覚悟を決める。決めるしかない。降りかかる死とはこんなにも抗えないものなのかもしれない。ほんの少し前まで過ごしていた日常。それさえも幻だったような、そんな幻覚に囚われる。
ふと、思う。この少女がアリスだとすれば、それは生まれるはずのなかった忌子。ヒノカ・エントールの全てを踏み躙り造られた魔人。ならば、ここで自分が殺されるのもまた当然なのかもしれない。
――これは罪だ
「おいおい。ひでぇな。嬢ちゃんも気が早い」
死を受け入れ目を閉じる。二度と開かれることはないはずだった。だが、訪れたのは破滅ではなく、どこか笑いを堪えたような男の声。ベインではない。恐らく部下でもないだろう。このような場所に第三者が入り込むようなこともあり得ないはずだ。
うっすらと瞼を上げる。ぼんやりとした視界に入ってきたのは一人の男。その男の腕に気を失っているのか、ダランと力の抜けた少女が倒れ込んでいる。
「こんなことばかり繰り返しやがって。どこまで悲劇を重ね続けりゃ気が済むんだクソババア」
その男をイルハートは知らない。人間のように見えた。だが、ここは魔族領だ。ヒノカ・エントールならともかく、こんなところに人間などいるはずがない。
「――誰がお前は……?」
そこで初めてこちらに気づいたように、男が視線を向ける。自分はこの男に助けられたのだろうか。ならばこの男は味方なのか? だが、それにしてはこの男からは自分に対する興味を微塵も感じ取れない。そう、それはまるで路傍の石でも見るかのような。ただ、男の眼前に自分がいたにすぎない、そんな態度。
「ん、俺か? 俺は――」




