第65話 女神
「傘いるか?」
この状況下、全てを無視して口から出たのはそんな言葉だった。場違いだとは分かっていた。それでも目先のことを優先する。一週間後に世界が亡ぶとしても、お腹が空けば人はいつも通り食事をし、眠たくなれば睡眠を取る、そんな生き物だ。
男が雲を吹き飛ばした石碑の一画だけは雨が止んでいるが、依然としてその周囲は雨が地面を濡らしている。
「悪いな」
「後でちゃんと返せよな」
「どんだけセコイんだお前?」
呆れながらも、男が素直に受け取った。別に本気で返却を求めているわけではない。単に会話を続けながら観察しているだけだ。刀が突き刺さっていたはずの男の胸には傷一つ存在しない。一瞬で回復したのだろうか。或いは本当に最初から傷などなかったか。
集束する膨大なエネルギー。先程の光景、クレイスには過去に一度だけ見覚えがあった。それは自らがギフトに目覚めたときと同じ現象だ。あのときも数多のギフトがもたらした奇跡、体内を循環するエネルギーの奔流が致命傷を癒した。
だとすれば、自分と同等か、それ以上の存在かもしれない。
クレイスは別に自分が最強だと思ったことなどない。
そもそも最強などという言葉に価値はない。どれほどの強さを誇ろうと老化には勝てないし、どれほど剣を極めても、飲み水に毒を混ぜられれば呆気なく死んでしまう。最強などと持て囃したところで、その存在を殺す術は無数にあり、それら全てを防ぐ手段など存在しない。
ならば最適なのは戦わないことだ。
争わなければ負けない。対立しなければ強さを求められない。
目の前の男にどのような思惑があるにせよ、無暗に敵対する必要はなかった。
「何が書かれているのか教えてやろうか?」
「助けてやったんだ。勿体ぶらずに教えろ」
破顔すると、懐かしむように男は語り出した。
「この石碑は未来の選択、テスタメントなのさ」
「未来?」
「そう。エデン、トゥラン。呼び名はそれぞれの種族によって違うが、まぁ、なんでもいい。かつてこの地に住んでいた種族達が選択した未来。あまねく可能性という希望」
男が石碑を撫でる。何処か懐かしそうに語るその表情はどこまでも穏やかだった。
「神からの自立。奴隷からの解放」
滔々と男は語り出す。
「人間、魔族、エルフ、獣人、亜人、竜種……多様な種族が暮らしていた。諍いを乗り越え、互いに手を取り、この地は発展を進めてきた。インフラは整備され、魔力は動力に、動力は機械に。技術は高度に複雑化し、文化は奥深く、娯楽は細分化していった。洗練された社会。それぞれの種族達は最大級の幸福を求めた」
「まるで理想だな」
男が語る理想を一笑に付す。そんなことはあり得ない。
所詮、誰とも分かり合うことなど出来ないのだから。他種族と殺し合い、同じ種族同士でいがみ合い、親子で殺し合い、そして最愛の人は裏切る。それがクレイスの知るこの世界のルールだ。
「本気でそんな理想を目指していたのさ」
「その口ぶりなら、結局は失敗したんだろう? 現に今、そうなっていないからな」
「そう答えを急ぐなよ」
苦笑しながら、男は続ける。
「確実に一歩一歩、階段を登っていた。傍から見ればそれは進化なのかもしれない。ステージを一段高みへと押し上げる。だが、もっと分かり易く言えば、子供が大人へと成長しようとしていた。そんなところか」
「成長ねぇ。まるでこの世界がガキ向けだと言わんばかりだな」
「良く分かってるじゃないか。だから庇護下にあるのさ。それにしても、本当に何も知らないみたいだな。ならついて来い。面白いものを見せてやる」
「こんな時間に男と一緒に散歩か。犬でも連れてくれば良かった」
「ベヒモスでも召喚してみるか?」
「ここで召喚を使ったら、何が出てくるか分からないから却下だ」
男が雨の中歩き出す。その後をわけもなく付いていく。
「そこで疑問だ。ならどうすれば子供は大人になったと認められる?」
「簡単なのは年齢だろうな」
「最もな答えだが、問題はそこじゃない。なら大人になったと年齢で判断するとすれば、それを誰が判断するんだ?」
「大人じゃないのか?」
「この場合は誰だ? 話の流れを考えれば分かるはずだ」
ようやく男の言っていることに理解が追い付く。答えは一つしかない。
「――女神」
立ち止まり、男が振り返る。その黄金色の瞳には色のない感情が秘められている。
「満点だ。目指したのは女神からの自立。しかしそれは上手くいかなかった。何故だと思う?」
「女神が認めなかったから……か?」
男の話は荒唐無稽だ。しかし、その言葉に嘘が混ざっているようにも思えなかった。他種族同士が手を取り合っていたなどと信じられるはずもない。なら何故、人間と魔族は今もまだ1000年以上も争い続けているのか。
「待て。ならその女神ってのは――」
「未来を奪い、可能性を閉ざし、楔を打ち込みバラバラにした。もう二度と自立などと愚かなことを考えないようにな」
冷たい風が頬を撫でた。
「子離れ出来ない過保護なクソババア。そいつが女神の正体さ」




