第61話 姉妹
「ッ――!」
ふいに左足に痛みを感じて思わずよろける。壁に手を付きなんとか身体を支えた。視線を周囲に向けるが、周りには誰もいない。そのことに何処か安心を覚え、大きく息を吐きだす。
まじまじと左足を見る。傷一つ見当たらなかった。しかし、そんなはずはない。目覚めかけていた終滅の魔獣との戦いで潰されていたはずだった。だが、まるでそんなことなどなかったかのように足は元通りになっている。
【聖女】の力。それはドリルディアによる強力な回復魔法が成し得た奇跡だった。本来なら喜ばしいはずの事実も今は億劫に感じてしまう。
「どうして私なの……」
その言葉を聞く者はいない。いや、聞いていたとしても理解は出来ないだろう。どこまでも虚しく響く。自分の部屋へと辿り着き、倒れ込むようにベッドに身体を投げ出した。まだ体力も戻っていない。なによりも気力が限界だった。
私、トトリトートはゆっくり左足を撫でる。この痛みは本物なのだろうか。確かに左足は快癒している。だが、私の記憶の中に残る左足は潰れていた。その齟齬が生み出している痛みだ。それは現実なのか錯覚なのか、私には分からなかった。
最愛の妹が私の為に尽力してくれた。その結果として、私は目を覚まし、こうして生きている。私を蝕んでいた寄生虫は数日もあれば完全に駆虫できるらしい。生き延びることができた。障害もなく、明日を迎えられる。また妹と一緒に暮らすことができる。それは私にとってなによりも大切なことだ。
しかし、目覚めた後の世界は一変していた。
現れた黒いエルフ。
その境遇、過去を知れば、決して無関係ではいられない。過去の過ち。いや、それは過ちではないのだろう。理由があったはずだ。そうしなければならなかった理由が。私が魔獣の討伐に出向いたように、見捨てるという選択をせざるを得なかった。今となっては分からない過去の真実がそこにはあるのだろう。
どう言葉を掛けて良いのか分からなかった。シェーラと名乗った彼女の要求を飲むことも不可能だ。提示された要求を飲んでしまえば、エルフ社会に大きな不利益を与えてしてしまう。過去の清算を求められているが、それでも、いきなりそれを言われても対処できない。
私はお飾りの族長だ。交渉も五大老が主導していた。年齢に裏打ちされた深い知識と経験。彼等の出した結論に従うことに異論はない。
だが――
あのような対立を選択して良かったのか、もう少し歩み寄れなかったのか。シェーラは明確に敵だと認識したようだった。最初からそう予想していたとでも言うように彼女は明快だった。
これから争いの火種となることは目に見えている。どうすれば……そんな答えなどない選択の正しさを求めてしまう。
「どうして私ばっかり……」
魔獣も討伐も過去の清算も。どうして自分ばかりがそんな責任を負わせられなければならないのだろう。族長だから? どうしてももっと早く、或いはもっと遅く。自分が族長という立場に就くよりも早く、或いは引退した後に起こってくれれば……。
最低だということは分かっている。他力本願だということも。それでも、嘆かずにはいられない。自分がお飾りだと言うなら、その責務まで担う必要があるのだろうかと。
「なら、逃げたらどうだ?」
誰もいないはずの自室に男性の声が響いた。
◇◇◇
「あ、貴方は……? それにどのようにここへ……?」
トトリトートは重い身体をベッドから起こすと、声の下に視線を向ける。ドアの前に一人の男が立っていた。黒い瞳を澱んだ闇が更に色濃く染めている。
「ちょっと聞きたいことがあってな」
「不法侵入……というわけではなさそうですね。ま、待ってください。貴方はもしかして――」
会話を交わす途中、トトリトートはその人物の正体に気付く。
自分の立場を考えれば当然だが、この場所はそれなりに警備は頑丈だ。わけもなく悪戯に侵入しようと思って出来るものではない。ならばこの男はなんなのか。慌てた様子もなく平然と自らの自室に現れたエルフではない人間の男。
「クレイス様ではありませんか?」
「自己紹介の手間が省けるのは結構なことだ」
トトリトートは居住まいを正すと深く頭を下げた。
「お力を貸して頂きありがとうございます。今こうして生きている、そのことがどれほど困難なことだったか、身に染みて理解しております。このお礼はトトリントン家の当主として正式に――」
「気にしなくていい」
「そういうわけには参りません! それに魔獣も打ち滅ぼされたと聞いております」
「いや、そっちは丸っきり身に覚えがないんだが、気のせいだろ」
「そ、そうなんですか?」
「俺に聞かれても困るが」
ドタバタと音がしてドアが勢いよく開かれる。
「姉上! それにクレイス様もお久しぶりです!」
「先に行ってしまうなんて酷いですわ。もうぷんぷん!」
部屋の中にミロロロロロとトトリートが入ってくる。
「前から思ってたんですけど、ミロ様ってイタいですよね」
「誰が媚びを売ってるブリっ娘のイタい女ですか! あと略すの禁止!」
「そ、そこまでは言ってませんけどぉ」
「まぁ、ダーリンに媚びを売っているのは紛れもない事実です」
「えぇ……認めちゃうんですかそれ……」
ガヤガヤと親し気な乱入者にトトリトートは目を丸くする。
「トトちゃん?」
「姉上! シェーラさん達との会合、大丈夫でしたか?」
「え、えぇまぁ。あの、そちらの方は……」
「私はドリルディアさんと同じ【聖女】のミロロロロロ・イスラフィールですわ」
「あら、ドリちゃんのお友達なのね」
トトリトートは面識のあるドリルディアと同じ【聖女】だと聞いて警戒を緩める。もっとも妹と軽口を叩き合っているのを見れば、心配するようなことなどなにもない相手だ。それに……。サッと視線をクレイスに向ける。気配もなく、音もたてずにこの場に現れたこの男に警戒など無駄だろう。その気なら、何一つ気づかぬままに殺されている。
「もしかしてクレイス様、私に会いに来てくれたんですか! 嬉しいです! これぞ友情パワー」
満面の笑みを浮かべるトトリート。
「水を差すようで悪いが違うぞ。というかお前、そんな性格だったか?」
「姉上が元気になり、後顧の憂いもなくなったので、本来の私を取り戻しました!」
「そうなのか?」
トトリトートに問いかけてみる。
「トトちゃんは元気なだけが取り柄ですから。いつもお腹丸出しで寝ているのに、風邪だって生まれから一度も引いたことないんですよ」
「やだなぁ……そんなに褒められると照れますよ姉上ぇ……」
トトリートが姉に抱き着いていた。
(馬鹿だ……)
(バカだ……)
(可愛い……)
三者三様だが、概ね似たような心境を抱く3人。
「そこのシスコンエルフはさておき、別にお礼をしてもらいに来たわけじゃない」
シェーラ達との諍いなどまったくなんの関心もない。どうでも良かった。そんなものはどこまでいっても他人事にすぎない。首を突っ込む方がお門違いだ。むしろ不要な介入をすれば、それが新たな禍根に繋がりかねない。最初から納得のいく答えなどないのだから。
「戻ってきたのはちょっとした好奇心だ。『災厄』、それがなんのか。教えてほしくてな」




