第58話 社畜
「ヒノカさん、ヒノカさんはどこに行きましたの?」
ミロロロロロと共にヒノカの下へとやってきたクレイスだったが、再開することはなかった。教会付属の病院からヒノカが姿を消してからしばらく、その事実がミロロロロロに伝わることはなかった。誰も気に留めないまま普段通りの日常が流れている。
痕跡も予兆もなく、職員に聞いても、忽然とその姿を消し現在は行方不明だという。とはいえ、患者の失踪など稀に良くあることであり、病院の職員達にとっては単なる一患者の奇行という範囲に収まってしまう。捜索するのは職員達の仕事ではなく、足取りを追う義務などなかった。
ヒノカが入院していた病室内をミロロロロロはグルグルと歩き回る。おもむろにベッドの下を覗いたり、シーツをめくったりしてみるが、無論見つかるはずもなかった。取替えられたベッドシーツは真っ白なままだ。空になった病室は、ヒノカがそこにいたという事実さえも希薄なものにしていた。
「俺に会いたくなくて逃げ出したか」
「ありえません! 彼女はそんな判断ができる体調では――」
「だが、現に姿を消したんだろ? それが事実だ」
そう言いながらも、自分が来たから逃亡したなどとクレイスも思っていない。言ってみただけである。ミロロロロロがそれをヒノカに伝えていない以上、彼女が知る術はない。しかし現実にその姿はなく、その理由を単純に考えれば、そう、まさに逃げ出した。それが最も合理的な結論であり、それ以外の可能性を考えたところで分かるはずなどない。
所詮は、分かり合うことのできない他人でしかないのだから。
「そもそも会わせてどうするつもりだったんだ? 俺がいきなり激高してヒノカを殺すとは思わなかったのか?」
「何が正しいのかなんて分かりません。ただ、そうしないと彼女は今にも自害してしまいそうだったから……」
「だったら好きにさせてやれよ」
「――本当にそれで良いのですか? ヒノカさんが死んで、本心からどうでもいいと、そう思えるのですか?」
何かを訴えかけるように意思を秘めた瞳がクレイスを見つめていた。ジクリと消えた傷痕が痛むのを感じる。幻肢痛というわけではないが、傷は癒えても刃に貫かれる感触、骨を砕かれる音、痛みの記憶は身体の隅々に刻み込まれている。
ヒノカと再会すればどんな感情が去来するのか、クレイスにも分からなかった。それこそ衝動的にその命を奪うようなことさえあるかもしれない。だが、それならまだマシだとクレイスは思っていた。ヒノカに対してそれだけの執着が残っているなら、詰め寄るだけの昂るほどの感情が残っているなら、再開には意味があるのかもしれない。
だが、起きた事実は変えられない。どんな理由があったとしても元に戻ることなどありえない。何も感じなくなりつつある。復讐心さえも虚無に支配されようとしていた。ロンドを殺すのは規定事項だが、今となってはなんの感慨もなくそれを実行するだろう。しかし、虫ケラのように殺したところで、きっとこの気分が晴れることはない。
馬鹿な父親の凶行やエルフ同士の殺し合いがどうでもいいように、逸脱した自分は世界の歯車から外れたピースでしかない。そのピースが嵌ることはなく、世界へ干渉する気もない。過ぎた力を持て余し行使しないのであれば、それは無力なのと変わらなかった。法外な力を経た代償が無力なのだとすれば、それはあまりにも皮肉なものだ。
なんでも出来るが、なにも出来ない。
ただ無為に今この瞬間を生きている。
この世界の当事者から引きずり降ろされた部外者。
なんらかの目的があってヒノカが逃亡したのだとすれば、何か成したいことがあるのだとすれば、それは自分よりマシかもしれない。少なくとも、ヒノカにはこの世界を生きる動機があるのだから。
「何を言いたいのか知らないが、出ていったのは本人の意思なんだろ? 外野がとやかく言う事じゃない」
「ただちに探させます! 彼女の体調を考えれば一人でそんなに遠くまで行けるとは思えません。教会からも目撃情報を集めるよう御触れを――」
「落ち着け。探して何になる? 【聖女】の権力をそんな私用で使って良いのか?」
「ヒノカさんは【剣聖】です。社会的にもその価値はあります」
ミロロロロロがテキパキと職員達に指示を出していく。ヒノカを放置するつもりはないらしい。その様子をクレイスはジッと見ているしかなかった。ミロロロロロを止める権利などありはしないのだから。誰かに自ら干渉することはない。ひとしきり指示を終え、ミロロロロロが振り返る。あどけない顔は上気し何かを必死に堪えるように耐えている。
「ダーリンはどうして、どうして、いつもそんなにお辛そうなのですか?」
「俺が? 健康面にこれといって不安はないが。昔より遥かに頑丈になったしな」
「そうではありません! ダーリンはヒノカさんと同じようなお顔をしています」
ミロロロロロが一息でまくしたてる。いつの間にか、か細い手が裾を掴んでいた。
「お願いします。もう一度だけ、一度でいいんです。真っ直ぐに彼女を見てあげることは出来ないのですか? その視線の先にはもう入らないのですか? あれほど想っていても、あれほど傷ついていても、もう届かないのですか?」
大粒の涙を浮かべながらミロロロロロが食い下がる。
「どうしてそこまでヒノカを気に掛ける? 赤の他人だろう?」
「そんなつもりはありません。ですが、これではあまりにも不憫で――」
「良く分からないな。全て自分で選んだはずだ。自己責任以外の何がある?」
「違います! 理由があるはずなんです。ヒノカさんはこんな結果は望んでいなかった。彼女の声を聴いてあげられるのはダーリンしかいないんです!」
「――俺だって望んでなかったさ」
諦観と共に吐き出した言葉に、ミロロロロロはグッと口をつむぐ。真に望んだものは手に入らず、得られたのはくだらない力だけだ。
誰かに拒絶されるのは辛かった。蔑まれ侮辱され否定される日々。そうして島を出て、出会った少女は自分を肯定してくれた。ありのままを受け入れてくれた。嬉しかった。自分という人間にも価値があるのだと教えてくれた。
誰でもない他人同士。何の繋がりもない。けれど、人は確かにそんな知らない誰かと通じ合うことができるのだと信じられた。無邪気なまま信じ続けた。そしてそれが恋心に変わるのに時間は掛からなかった。だが、結局は同じように拒絶され、また同じことを繰り返す。そしてついには世界からも拒絶された今、居場所などどこにもありはしない。
「大それたものを望んだつもりはない。人の手に余るような身の丈に合わないような、そんな理想を掲げたつもりもない。望んだのは、俺が欲しかったのは、ほんの些細な――」
愚かなことを口にしかけて言葉を切る。吐き出したところで何も変わらない。
「教えてください。その力はなんのためにあるのです? 【聖女】とはなんなのですか? 力とは、何かを成すためにあるのではないのですか?」
【聖女】という存在はこの世界の至宝だ。
教会そのものが【聖女】のために作られた組織でもある。そしてその【聖女】の役割とは、安寧と幸福を祈る。ギフトという祝福。【聖女】というギフトを授かったときから、そう教育を受けてきた。誰からも愛され、敬われる存在。それが自分の価値なのだとミロロロロロは自覚している。
だからこそ聞きたかった。それら全てを無に帰す存在に自分達は何なのかと。【聖女】が幸せを祈るなら、その【聖女】の幸せは誰が祈るのか。【聖女】が自分自身の幸せを望んではいけないのかと問う。
目の前でヒノカ・エントールが苦しんでいた。それを前にして何もできない自分が、【聖女】であっていいのか。ミロロロロロという個人と【聖女】という自分。その二つのアイデンティティがどちらも揺らぐのをミロロロロロは感じていた。
「なんだそんなことか。【聖女】がなにかなんて簡単だ。そんなものは機能でしかない」
「……機能ですか?」
腑に落ちないのか、怪訝な表情を浮かべる。苦笑を隠せない。クレイス自身もそう思っていたのだから。自分には特別な価値があるのだと、きっと誰かのヒーローになれるのだとそう疑わずに信じられていた瞬間が確かにあった。
「馬鹿らしいよな。ギフトなんてものは歯車だ。社会を構成する機能。あえて言うなら、そうだな。社会の家畜、そう社畜ってところか」
「待ってください! そんなこと――」
「身に憶えないか? 自由もなく、ただ一人【聖女】だからと、組織に囲われ身を粉にして利用されて来たんじゃないか? 笑えるよな。何が【聖女】だ。そんなもん家畜でしかないだろ」
「ですが、社畜などと……」
呆然としたままミロロロロロが立ちすくむ。突き付けられた存在意義の否定。反論しようにも言葉が出ない。目の前の人物は、御使いではなかったのだろうか? クレイスの言葉はクレイス自身を否定しているように思えてならない。しかしそれでいて、その言葉は、ミロロロロロもまた内心何処かで感じ取っていた僅かな不信を捉えて離さない。
「【聖女】は3人しかいないらしいが、希少なギフトというのもおかしな話だ。そもそも何故ギフトに優劣がある? 何故そんなものに生き方を強制されなければならない? いつから俺達は女神の奴隷になった?」
まとまらない思考。このままではいけないと分かっていても、どうすることもできない歯痒さにミロロロロロは身悶える。そんなミロロロロロの頭にポンと手を置くとクレイスはゆっくり撫でていく。
「難しいことは考えなくていい。稀少なギフトを授かった君は、この世界で裕福に生きていけるんだ。それだけで十分に幸せといっても言い」
「それが幸せだなんて思いたくありません……」
「だがそれがこの世界のルールだ。【剣聖】は大好きな【勇者】と一緒に魔王対峙にでも行ったんじゃないか。社畜でしかないギフトの奴隷はその通りにしか生きられない」
「ヒノカさんが【勇者】と一緒などと絶対にありえません! 必ず探し出します。ですから、お願いです。彼女を救ってあげてください」
ミロロロロロが首を垂れる。女神の家畜として生きるだけの、こんな世界で何を救うというのだろう。役割を演じるだけの社畜に救えるものがあるなどと思えなかった。
――なによりも、
「だったら、誰が俺を救ってくれるんだ?」




