第54話 巨神獣
視界に広がる絶景。それは幻想的な光景というより、禍々しいものでしかない。ザリザリと編み上げたブーツが土を踏み鳴らす。死地に向かいながら、されど歩みを止めることなど許されない。
「気を付けなさい。そろそろ縄張りに入るわよ」
「これが失敗したら……俺達は今度こそ終わりだな」
その言葉には暗に失敗を肯定するような響きが込められていた。事実、これが失敗すれば、もうこの場に赴くことも出来なくなるだろう。六度目だ。もう六度も失敗を重ねてきた。その度に大きな犠牲を出し、同胞が死に、悲劇を繰り返してた。犠牲になった者達の家族が嘆き悲しみ、悲観にくれ、暗澹とした絶望だけがそこにあった。
「……失敗なんてしないわ」
希望は壁の外にしかない。壁を抜ける。それこそが悲願だった。この自然の監獄から抜け出すために、どれほどの犠牲を払ったのか。<<ガフの壁>>と呼ばれる神が作り出した檻。超自然現象によって造られた壁。その向こうには、きっと楽園が広がっているはずだ。
過去の文明によってもたらされた技術により、壁を抜けるために開発された機功船ノアは十年も前に完成している。しかし、その起動となるトリガーが足らない。膨大な魔力をエネルギーに変換して動かすノアには、複数の術者の力が必要だ。その操縦者となるべく、生まれながらに高い魔力適正を持つ術者も揃っている。理論上はいつでも壁を超えられるはずだった。
それでも十年も停滞をせざるをえなかったのは、「公害」によるものだ。高濃度の魔力汚染によって夥しい魔力に晒され続けた結果、どれほど魔力適正が高いとしても、その負荷に身体が耐えられなくなっていた。一般的な魔法を使うことに支障はなくても、ノアを動かすほどの高い魔力を維持することができない。壁の途中で誰かが倒れれば、それで終わりだった。そしてそれは全滅を意味する。袋小路に陥ったまま犠牲だけが増え続ける。
唯一、可能性があるとすれば「魔力汚染」を完治させることだけだ。しかし、それにも問題があった。
「神なんて随分と忌々しいものね」
「巨神獣か。ただの化け猿にしか見えないが……」
「魔力汚染」の完治に必要なポーションの精製には、ある含有成分を持つ植物が必要だった。しかし、その群生地は「巨神獣」と呼ばれる獣の縄張りでもある。
「巨神獣」。外見こそ猿にしか見えないが、その体躯は途方もなく巨大で、その知能は他の獣とは比較にならない。その皮膚は魔力に対し高い耐性を持ち、魔法で傷をつけることも困難だった。狡猾で残忍な神の遣わせし化け猿。それが巨神獣だ。
彼らの目を掻い潜り、採取に向かうこと六度。そのすべてが失敗し、そして向かった者達は誰も帰ってこなかった。今回が七度目であり、事実上最後の機会でもある。前回の失敗から二週間ばかりが経過していた。もう時間がない。急がなければ、永遠にこの自然の監獄に閉じ込められたままになる。
「シェーラは残った方が良かったんじゃないか? シェーラに何かあったら仮に成功しても俺達は終わりだ」
ジールの言葉にシェーラは苦笑を返す。
「もう選択肢なんてないの。か細い可能性に縋るしかないのなら、誰がやったって同じだわ」
自分は六度も温存されてきた。その度に自分以外の誰かが犠牲になり、そしてその命の代償はなにも得られていない。シェーラは支族の長として、それに耐えられなかった。悔恨の涙は枯れ果てている。今、必要なのは、求めるものはただ一つの結果だけだ。
そろそろ巨神獣に縄張りに差し掛かる。どこからがその縄張りなのか、まるでその答えを提示するかのように、この巨大な森の中で、それは入り口だとでも言わんばかりに、不自然な加工が施されていた。木の棒が無造作に地面に突き刺されている。木の棒には何かが括りつけられブラブラと揺れていた。
「――ふざけるな!」
「そんな……ゲーリー? ゲーリーなの!?」
それは一つではなかった。周囲には同じような木の棒が幾つも地面に突き刺してある。そして同じようにそこにはソレがぶら下がっていた。
それは、前回、採取に向かったメンバー。
その生首がぶら下げられていた。
「……自分達の縄張りに侵入してきた外敵を晒しているの?」
「敵意なんて見せなかったはずだ! それなのに、どうしてこんなことが出来る!?」
肉は腐り落ち、外見を留めていないが、ほんの僅かに面影が残っていた。完全に頭蓋骨になるにはもう少し掛かるだろうか。それゆえにその残酷性はひと際際立ち、生々しい恐怖というリアリズムをもたらしている。
嗚咽が零れる。ゲーリー・アンケズム。勇敢な戦士だった。それでいていつも気さくで、長という立場にあるシェーラにとっては数少ない気の置けない相手でもあった。心配するシェーラにいつも通りの笑顔を浮かべ、絶対に採ってくると約束してくれた。震える手がかつてゲーリーだった者の頬を撫でる。
あまりにも悪趣味だった。自分達のテリトリーを侵せばこうなるのだと、アピールでもしているのかもしれない。今すぐに根絶やしにしてやりたい。強く強くそう願う。憎悪を抑えきれない。それでも、現状の自分達には反抗するだけの力がない。魔力汚染によって、その力は常に制限されている。そんな状態で勝てる相手ではなかった。自分達に求められているのは、巨神獣という悪魔の目を盗み、ポーションの原料を掠め取ることだけだ。
亡骸に手を合わせる。骸を手厚く供養することさえできなかった。迂闊にこの場から動かせば、自分達の存在に勘付かれる危険性がある。それだけは避けなければならない。もう後などないのだから。
一歩、神なる獣の縄張りに足を踏み入れる。ここから先は地獄だ。数刻後には、自分の首が同じように晒されているかもしれない。抗い難い死が目の前に広がっている。慎重に、全神経を研ぎ澄ませシェーラ達は進んでいく。
極度の緊張が体力を著しく奪う。乾く喉が水分を求めていた。そっと、木筒に入れた水を口に含む。巨神獣には魔法は効かない。出会ってしまえば、精々、目くらましをして逃げる時間を稼ぐことくらいしかできないだろう。
どれだけ進んだだろうか。シェーラ達は違和感を憶えていた。巨神獣と一切遭遇しないという可能性は想定外だ。誰から犠牲になるのか、その順番すら決めていたくらいだ。不快な巨神獣の鳴き声も聞こえない。それどころか、森の中にいるにも関わらず、あまりにも不自然なまでの静寂。
「どういうことなの……?」
「シェーラ。なにかおかしい。引いた方が良いんじゃないか?」
他のメンバーもキョロキョロと視線を這わせているが、何も見つからない。いや、見つからないことが本来ならおかしい。異常なのに何が異常なのか分からない。或いはこれこそが巨神獣の罠に嵌っているのか……。
「引いてどうなると言うの? 私達は進むしかないの」
恐怖がせり上がってくる。他のメンバーも同じだろう。状況が読めない。巨神獣は獲物を見つければ群れで襲い掛かってくる。故に誰かが囮になれば逃げる時間を確保できるかもしれない。そのために採取に向かうメンバーは常に複数人で構成されていた。もっとも、逃げ帰ってきた者はいない以上、囮に効果があるとは言えないのだが……。
「気配がしない……?」
「縄張りを移動したなんてことはないよな……」
生態に詳しくない以上、それも可能性の一つではある。だが、シェーラにはそうだと思えなかった。それはシェーラだけではないのかもしれない。この場にいる全員が感じ取っていた。濃厚するぎるほどの死の匂いを。肌にまとわりつくような死を。
巨神獣など、まるで比較にならない絶対的な死を
「逃げ――――ッ!?」
防御魔法を展開する間もないまま、轟音が静寂を引き裂いた。
◇◇◇
「キヒ……キヒヒ……ギヒヒヒ……!」
力を込めると、左手で掴んでいた首がボキリと鈍い音を立ててへし折れた。白目を抜き口から泡を吹き出し死体となったソレを無造作に放り捨てる。
「なんだったんだコイツ等?」
植物の採取の成功したクレイス達の下に、突如、巨大な猿が襲ってきた。知能が高いのか、その動きは極めて統制が取れていた。群れで襲い掛かってきた猿達は30匹はいただろうか。数の多さに魔法を使ってみたが、思いのほか高威力になってしまい、放ったクレイス本人が冷や汗を掻いたくらいだ。だが、驚きなのはここからだった。
その一撃で半数近くの猿達が消し炭になったが、この高濃度魔力汚染地域において魔力耐性が高いのか、堪えた猿達も多かった。仲間がやられたことに激怒しているのか、極度の興奮状態にあった猿達は逃げもせずそのまま襲い掛かってきた。ひと際巨大なボス猿らしい最後の一匹を仕留めると、これで打ち止めなのか他に気配はしなくなる。
「ビビりすぎてちょっと阻喪をしてしまいましたわ!」
「胸張って言うことなんでしょうかそれ……?」
デカい猿の死体が積み上がっているが、さりとてそれをどうするわけでもなく、どうしようもなく、無意味に眺めることしかできない。零れ出たのは至極真っ当な感想だった。
「この猿達、成長期なのかもしれないな」
「それで片付けてしまえるダーリンの器に感動しました」
「それにしてもおっきなお猿さんですね」
ツンツンとトトリートが死体を触っているが、完全に死んでいるので特に危険はない。
「ひょっとして縄張りだったのか? 悪いことをしたな」
「いきなり襲い掛かられたわけですし、しょうがないですわね」
「クレイス様、アレを見てください!」
先程まで見事な青に染まっていた森は、魔法による影響で黒土に変わっていた。威力が高すぎたため、大きく地面が抉れ広範囲が焼け爛れているが、驚くべきことにもう復元が始まっている。自然の自己修復機能とでもいうべきだろうか。だが、それにしても異常なまでの早さだった。
「これも高濃度魔力の影響か。便利なもんだ」
「見れば見るほど、違う世界という気がしますね」
何か疑問を持ったところで、それを誰かが答えるわけではない。疑問は疑問のままそこにあり、別に答えを知りたいわけでもない。これといってさしたる関心があるわけでもなく、そういうものなのだろうとクレイスは納得する。
「これだけ原材料があればエリクサーが大量生産できますわね」
「そんなことしたらポーション市場が崩壊するぞ」
「……それは……困ります」
しょんぼりしているミロロロロロだが、ポーションの精製は教会が担っている。教会の貴重な収入源であり、潤沢な資金の源でもある。エリクサーを大量生産することができれば多くの人を救えるかもしれないが、必ずしもそれが正解とは限らない。教会の筆頭とも言える【聖女】のミロロロロロとしては悩ましい問題とも言えた。
「どのみち、こんなところまで取りに来れるとも思えないがな」
結局はそれが全てであり、いずれにしても稀少品であることには変わりはない。トトリートの姉を救うために協力しただけであり、それ以外に使うつもりも市場に流すつもりもクレイスにはなかった。
「これでようやく姉上が助かるんですね……」
「精製するのにもそんなには時間は掛からない。2日くらいでなんとかなるだろ。一度決めた事だ。最後まで面倒みるさ」
「良かった……。本当にありがとうございます!」
「他に何か稀少なものがあれば、持ち帰るのも良いのではありませんか?」
「興味はない」
エリクサー以外にもそういうものがあるのは分かっていた。だが、元々あちら側にはないものを持ち込んだとしても、大して意味があるとは思えなかった。それを扱える者もいなければ、それこそ使い切ったらそれまでだ。継続的な供給が不可能であれば、それはないのと同じだ。
これといってトラブルもなく、つつがなく採取は終わった。拍子抜けのような気もするが、厄介事に首を突っ込みたいわけでもない。帰りは転移を使えば一瞬だ。呪文を唱えかけたそのとき、
「――貴方達、何をやっているの!」
その場に現れたのは五人ばかりの集団だった。先頭には女性が立っている。先程の猿とは違い、いきなり襲い掛かってはこないことから意思の疎通が可能なようだ。理性の光がその瞳からは感じ取れる。しかし、浮かんでいる感情は動揺、或いは困惑といったものが複雑に絡み合っていた。一瞬トトリートに視線を向け、再び声を掛けて来た集団に戻す。
トトリートに似ているようでまるで違う。その肌の色も瞳の色も。特徴的な耳だけは共通していた。トトリートが困惑に満ちた表情で、見たままを呟く。
「黒いエルフ……?」
声を掛けて来たのは、褐色の肌を持つエルフ達だった。




