第33話 「剣聖」と「聖女」
ヒノカ・エントールに出会ったのは偶然だった。
クレイスに会えず、ブランデンから帰る途中、もしかしたら宿に戻っているのではないかと立ち寄ってみると、そこにはピクリと動かず、まるで糸の切れた人形のように生気を失っているヒノカがいた。
一目でただ事ではないと察する。
その目はなんの光も映さず、彼女の右手は、まるで何かを握り締めるかのように固く閉じられていた。
ギルドでの事情聴取で大まかには何があったのかを把握しているものの、その詳細まで事細かに知っているわけではない。このような状態の彼女を放っておくことも出来ず、ヒノカに何があったのかを聞こうと連れ帰ってみるが、ヒノカは依然として物言わぬ状態のまま2ヶ月近くが過ぎていた。
これまで一度も会話が成立したことはない。
ただ、時折何かに取り憑かれたかのように「ごめんなさい」と、謝罪を繰り返していた。
彼女は――壊れている。
ミロロロロロはそう判断した。
【聖女】の回復魔法を掛けてみても効果がない。回復魔法では、肉体のダメージは回復出来ても、心までは癒せない。
食事も喉を通らないのか殆ど取ろうとしない。危険を感じ現在は点滴を打っているが、投薬も長くは続かないだろう。いずれにしても彼女が少しでも精神を回復しないことには、この状態は脱せない。
「はぁ。ヒノカさん、ならば、あなたどうして――」
――裏切ったのですか?
と、聞こうとして言葉を止める。
これほどまでに心を壊している彼女が、本当にクレイスを裏切ったのだろうか。ミロロロロロには到底そんな風には思えなかった。間違いなく彼女はクレイスに恋をし、そして愛している。
でなければ、説明が付かない。
ミロロロロロは考える。自分は恋を知らない。そんな自分が、果たして、ここまで強く誰かのことを想えるのだろうかと。壊れてしまう程に、強く、強く、一人を愛せるのだろうかと。
彼女はクレイスに恋をしている。
自分のライバルだ。
でも、それでも、ヒノカにはこのまま不幸になって欲しくないとミロロロロロは思っていた。そして、彼女をこんな風に貶めた嫌悪すべき存在を、絶対に許せないという激情が増していく。
これほど誰かを憎んだことなどない。
【聖女】とは、許しを与える存在だ。だが、もし仮にあの男が許しを乞おうとしても、自分は殺すだろう。許せるとは微塵も思えなかった。
ヒノカは恐らく最悪な形でその気持ちを踏み躙られた。どれほどおぞましい行為が行われたのか、口にするのも想像するのも憚れるが、それが彼女にとって何よりも許せないことだったからこそ、ヒノカ・エントールは壊れた。その恋心と共に。
「……うっ……あぁ……!」
「大丈夫ですか! ヒノカさん!?」
突然、ヒノカが苦しみ出し嘔吐する。
しかし、吐き出すものは何もない。胃液が逆流するだけだった。刺激臭が鼻につく。
とっさに上級回復魔法を掛けるが、やはり効果はなかった。
ここしばらく、ヒノカは特に気分が悪そうだった。明らかに身体が体調不良を訴えている。食事と睡眠で回復するようなものなら良いが、それ以外が原因の場合だと対処のしようがない。
(ままなりませんわね……)
嘆息が漏れる。事情を聞くどころではなかった。
面倒事を抱え込んでしまったが、今更見捨てることも出来ない。
ただでさえ、ここ数日、ミロロロロロ自身も女性特有の症状で気が滅入っていた。重い方ではなかったが、だからといって決して楽でもない。しばらくは憂鬱な日が続きそうだった。
「――――え?」
そのとき、ある一つの可能性が思い浮ぶ。
ミロロロロロには経験がなかったが、知識としては知っている。
女性なら誰もが、自然と学んでいくことでもある。
その想像を否定したくて、これまでの事を振り返る。
彼女が壊れてしまった理由、これまでの期間、最近になり特に調子の悪そうな様子。
幾つのもピースが、悪意に踊らされながら的確に嵌っていく。破滅的な予想が現実なのだと語っていた。間違いであって欲しいと願うほどに背筋が凍り付いていく。
それはあまりにも最悪で残酷な可能性。
仮にもしそれが正解なら、彼女は今すぐにでも自ら死を選びかねない。
「ヒノカ・エントール。まさか貴女は――」
それを口に出す事が出来ない。
口にして、それが彼女の耳に入ればそれこそ終わりだ。
望まない存在が、自らの胎内にいるなど、そんなことに耐えられるはずがない――
(彼女は「妊娠」しているのかもしれない……!)
どんな選択をするにしても、ギリギリのタイミングだった。対処が遅れれば、いずれヒノカ自身も自身の身体の変化に気が付くだろう。それは彼女にとって、絶対に受け入れられないもののはずだ。
なんとしても手遅れになる前にこのことを彼に伝えなければならない。
壊れたヒノカ・エントールの心に言葉を届けられるのは、彼しかいないのだから。
(ダーリン……どうか間に合ってください!)
こうして、ミロロロロロは再び彼に会いに行くべく、その場から駆け出した。




