逆転の策
「マグライア!」
吸血鬼の自室。
テーブルにヌイを横たえながら、オレは声を荒げた。
ここでお茶会を開いたのが、遠い昔のように感じる。
「マグライア。いるんだろう。起きろ!」
「うるさいね、きみ。何事だい」
霧が室内に渦巻いたかと思うと、銀髪の吸血鬼が憮然としながら姿を現した。
「高貴なるボクの安眠を妨げて……魔王様?」
マグライアが緋色の瞳を眇めた。
動かないヌイの姿を見て、取り乱さないあたりはさすがだ。
「説明している時間はない。マグライア、確認するぞ。お前は以前、うっかり寝ぼけてヌイの血を吸ったことがあると言っていたな」
「……それが?」
「こうも言っていた。吸血鬼は、吸った相手の血を、何十年も体内に留めていると。そしてその血を、他者に分け与えることで、眷族を増やすと」
「それで?」
「詳細は省くが、ヌイの身体から魔王の血が消滅した。今ヌイの身体を巡っているのは、人間の血だけだ」
「それは、魔王様は死んだも同然だね」
オレはかぶりを振った。
半ば自分に言い聞かせるように否定する。
「そうはならない。マグライア、ヌイに噛み付いて血を分け与えてくれ。命の源たる魔王の血が戻れば、ヌイは恐らく復活する」
緋色の双眸が爛々と、オレを窺っている。
……おかしい。
マグライアが冷静なのはいいが、動揺がまるで見られないのも妙な話だ。
「魔王様を吸血鬼にする気かい?」
「いいや。自分より上位の種には、その魔物が持つ特殊な力は効かない。吸血鬼の眷属化の力は、魔王に通じない。マグライアが自分で話したことだろう?」
「なるほどね。ふん、人間にしては考えたね。だけどお断りだ」
「……何だって?」
オレは、自分の瞳孔が収縮するのを感じた。
マグライアが何を言っているのか理解できない。
「時間がないんだ! 何か報酬が必要なら――」
「いみじくも、今きみが言った通りさ。力関係の問題だよ」
「何?」
オレが身を乗り出すと、マグライアは気だるそうに銀髪をかき上げた。
「いいかい。この魔王様はもう魔王様じゃなくなった。何の力もない、ただの人間さ」
物分りの悪い幼子に、丁寧に教え聞かせるような口調。
「ボクより下位の劣等種を、高貴なるボクが、どうして助けるんだい?」
「――」
一瞬、目の前が暗転し、倒れそうになった。
額からこぼれた汗が、頬を伝う。
「お前……」
「きみも同じと思いたまえよ。人間の分際でこれ以上、ボクに意見する気なら、ただでは済まない」
「あ……」
声が出ない。
焦点が定まらない。
絶望の気配が、思考を黒く塗り潰していく。
マグライアは、魔物にとっての常識を述べているに過ぎない。
それは正論だ。
人間がどう反論したところで、決して覆らない類のものだ。
なら情に訴えれば。
論外だ。
そんなものが通じる間柄ではない。
もうダメなのか?
奇跡など一片も願っていない。
道理に沿った行動に対して、正当な結果がほしいだけなのに。
人を手にかけた悪人には、それすら許されないのか。
もう――ダメか。
「ぁ……」
オレは膝をついた。
虚空に伸ばした手が、力なく床に落ちる。
マグライアは、そんなオレを鼻で笑った。
「用は済んだかい? 魔王様がいなくなった以上、ボクもこの城にいる理由はない。さようならだ」
ああ。
終わった。
オレは生きている。
だが、もう終わった。
オレは負けたんだ――。
『ジロー』
そういえばミッケが、別れ際に何かを言っていたな。
『ヌイ様を――』
言っていた。
『――助けて』
……。
……。
「おい。ニワトリ以下の変態吸血鬼」
霧になりかけていたマグライアが振り返る。
緋の双眸が剣呑な色に輝いた。
「まだ何かあるのかい。警告はしたよ、人間」
「いや、何。お前がニワトリ以下ってことを、証明する必要がありそうだと思ってな」
「ないね。この場できみが干からびて終わりだ」
マグライアが真紅の唇を開く。
鋭い牙が覗いた。
「あるだろう。ニワトリは恩を忘れるが、餌場は覚えている。お前は両方忘れる」
「……何を言いたいんだい、人間」
「お前は確か、人間の狩人に追われていたところを、ヌイに救われたんだろう?」
オレへと詰め寄るマグライアの足が止まった。
「そしてヌイの庇護下に入り、この城に住み着いた。なるほど――」
蔑みの笑みを貼り付け、オレはマグライアを嘲った。
「高貴なる吸血鬼様は、借りを借りっぱなしで満足なさるほど、卑しい心根の持ち主だったと」
「人間……」
「借りは返す。それでこそ高貴なる者。借りたものをこそこそ盗み取るのは、卑劣な下種のやることだ」
マグライアの両拳が、小刻みに震えた。
怒りの形相が浮き上がっている。
「で、念のために聞くが」
下腹に力を込め、オレは低い声を絞り出した。
「お前は、高貴なる吸血鬼様ってことでいいんだよなあ……?」
「貴様――!」
オレの肩を、マグライアの手が、握り潰さんばかりに掴んだ。
凄まじい握力だ。
オレは唇を噛み、苦悶の声を押し殺す。
どれほどの時間が経ったのか。
肩にかかる力が離れ、オレは顔を上げた。
美麗の吸血鬼は眉間にしわを寄せていた。
「……マグライア」
「これきりだ、人間。寛大なボクに感謝することだね」
冷たい声で告げると、マグライアはテーブルに寄り、ヌイの首元に唇を添える。
鋭いものが肉を抉る、小さな音がした。
ややあって、マグライアがヌイから離れる。
真紅の唇を己の舌で舐め上げ、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「魔王様の血は全部返した。これで借りはなしさ。足りなくても知ったことじゃないけどね」
ああ、その心配はいらない。
見ろ、ヌイの肌が血色を帯びてきた。
ヌイの小さな唇が、柔らかな桃のように色づいてきた。
ヌイの胸が、ゆっくりと上下を始めた。
「は……」
自分が笑ったかどうかも定かではなかった。
オレは疲労と安堵で、意識を失った――。




