手
3階の屋根から突き出すように、見張り塔が伸びていた。
階段ではなく、はしごを登っていく。
塔上に顔を出すと、冷ややかな夜風が吹き付けた。
灰色の髪がさらわれ、オレは目を細めた。
「ああ……。確かに、静かでいい場所だ」
オレは石製の柵から身を乗り出し、仰ぐように空を見上げた。
濃厚な藍色が、雲に混じって空を覆っている。
星は見えない。
澄んだ空気を吸い込むと、思考が少しだけ明瞭になった。
「ふう……」
細長く息を吐き出すと、オレは柵に背を預けて座り込んだ。
足場も石製のため、服越しにひんやりとした感触が伝わってくる。
ローブを着てくればよかったかもしれない。
「これから……」
顔を上げる。
瞳に何も映さず、ぼんやりとする。
これからオレはどうするのだろう。
国家反逆罪は、この大陸に住む人間にとって、最悪の罪状の一つだ。
王国にはもう戻れない。
「いっそ復讐でもしてやれば……」
本心だ。
勇者ユウやブゼラ大臣を憎む気持ちが、ふつふつと沸き立ってくる。
しかし人間としての倫理が、歯止めをかける。
復讐はよくない。
復讐では何も解決しない。
復讐は憎しみの連鎖を重ねるだけだ。
それに――そもそも現実的ではない。
「一個の人間が、一国に弓を引くのか?」
この大陸唯一にして最大の王国に?
先代魔王が現れるよりずっと前から、長らく続いている、歴史と伝統に裏打ちされた国家に?
無理だ。
本格的に反逆すれば、圧倒的な武力でもってネズミのように踏み潰されるだけだ。
「結局のところ――」
泣き寝入りしか残されていないのだ。
選択肢など始めからない。
考えてみれば、罪人として認定された者に、何かを選ぶ権利などあるはずもない。
当然のことだ。
「でもまあ、いいか……」
魔王城での暮らしも、そう悪いものではない。
イモ顔のゴブリンにも、頭の悪いトロルにも、隙あらば突っつこうとするコカトリスにも、ずいぶんと慣れた。
魔物との生活を楽しんでいる自分を、今のオレは素直に認めることができた。
今まで通り、この城の下働きとして置いてもらおう。
いろんなものを諦めて――。
「……」
不意に視界が暗くなった。
頭から布を被せられたのだ。
「……これは、オレのローブ」
緩慢な仕草で、頭からローブを取り去ると、傍らに小さな影が佇んでいた。
オレを見下ろすその表情は、いつもと変わらず感情を映さない。
「ヌイ……」
「寒いから」
「……ああ」
オレは気だるい動作で、ローブを肩に羽織る。
ヌイは遥か遠くの地平線に目をやった。
「……」
「……」
オレは俯いてぼんやりしている。
ヌイは遠くを眺めてぼんやりしている。
静かな夜だった。
オレは喋る気力がなかったし、ヌイもとりたてて話をしなかった。
そういえばこいつ、オレを心配して来てくれたんだろうか?
だとしたら、あとで礼を言わないとな……。
「復讐」
唐突にヌイが口を開いた。
オレの心臓が跳ねた。
さっきまで考えていたことを、読み当てられた気分だ。
「復讐はよくない」
ああ、言われなくてもわかっている。
「復讐に正当性はない」
わかっている。
「でも、それは人間の理屈」
……?
「魔物はそう考えない」
オレは顔を上げた。
ヌイの横顔は、影が落ちて窺えない。
「復讐はよくない。正当性もない。でも、それを理解して、それでも本当に復讐を望むなら――」
ヌイが向き直った。
曇り夜空の下、漆黒の双眸がオレを見つめる。
最初に出会ったときに魅せられた、吸い込まれそうな黒曜石の瞳。
「魔王の手を取って。きっと、あなたの力になる」
「――」
オレは金縛りにあったように、ヌイを見つめ返した。
半開きの口から、言葉が出てこない。
しばらく無言で視線を交差させると、ヌイは黒衣を翻した。
「私はこの城で、ジローの諦めた姿を、見たことない」
そう言い残し、ヌイは静かにはしごを下りていった。
「諦めた姿を、か……」
溜め込んだ息を吐き出し、オレはまた柵に寄りかかった。
「この城に来てからは、そうだったかな……。昔はそうでもなかったんだがな……」
ふと、魔法学校にいた頃を思い出した。
貧しい生まれに引け目を感じていた。
だから遠慮していた。
いじめられることに慣れてしまった。
慣れることで、諦めていた。
そう、諦めていた。
非力な身体だとか、ケンカが弱いだとか、多勢に無勢だとか、そんないろいろなことを言い訳にして、オレはずっと――。
「……あの頃に、一度でも反抗していれば。一度でも、諦めなければ」
何かが、変わったのだろうか。
胸の奥で燻っていた黒い憎悪が、徐々に湧き上がってきた。
「時間は戻らない。あの頃のことは、もうやり直せない。でも」
今回は、まだ間に合うのかもしれない。
まして、大陸最強の魔王が手を貸してくれるのだ。
利用しない手はない。
諦めずに済む。
もう遠慮する必要はない。
昔の弱い自分と、決別できるんだ。
復讐が叶うほどの力が、今のオレには備わっているんだから。
「そういえば、最初にオレが魔王討伐を決意した動機が……確か、人生をやり直すためだったな」
皮肉なものだ。
あのときは、勇者ユウの口車に上手いこと乗せられ、同行しただけだった。
「そうと決まれば、ヌイに会いに行こう。悪は急げだな」
唇を歪める。
オレは高揚する自分を、自覚していた。
憎悪が躍動しながら、血と一緒に全身を駆け巡っているようだ。
ブゼラ大臣。
勇者ユウ。
戦士セン。
目に物を見せてやる。
オレは滑るようにはしごを下りた。
ヌイの部屋は同じ階層だ。
自然と早足になる。
「ジロー?」
出し抜けに声をかけられた。
ヌイの自室前に、ちょうどミッケが居合わせていた。
「ミッケか。何してるんだ?」
「夜食を召し上がるかどうか、ヌイ様に聞こうと思って……あんた、大丈夫?」
ミッケが金髪を揺らし、睨めつけるようにオレを見上げてきた。
「ああ、もう心配はいらない。今のオレは、かつてないほど充実した気分だ」
「むしろ今のあんたが、心配なんだけど。何、その熱に浮かされたような顔」
ミッケはそう言うと、思案するように眉根を寄せた。
「ヌイ様に何の用かは知らないけど……。ジロー、ちょっと付き合って?」
「悪いが後にしてくれ。今忙しい」
すげなく断ると、ミッケは金の瞳に、険しい色を覗かせた。
「いいから、ヌイ様に会う前に、ちょっと来なさい」
「いや、だからな――げふ!」
反応する間もなく、オレは床に転がされていた。
足払いをされたのだと、遅れて気づく。
「おい、ミッケ。オレは一刻も早ぐえええ」
ミッケは無言で、オレの襟元を掴んで引きずっていった。




