魔王の実力
オレは目を見開いた。
ヌイの横顔は炎の色を照り返し、ほのかな赤みを帯びている。
小高い丘から見下ろすオークの集落が、遠目でもわかるほど紅蓮に染まっていた。
家屋と思しき粗末な小屋が、あちらこちらで燃え上がっており、熱気が火の粉を天高くまで運んでいた。
羊か何かを囲っていたであろう木の柵は、崩れ落ちて見る影もない。
「……圧倒的だな」
数が違いすぎる。
棍棒や農具を手に、まだ奮戦しているオークも何十と見受けられたが、槍と皮鎧で武装した大量の兵士が、集落を押し包むように展開していた。
のみならず集落の正門には、まだ待機中の兵が、ゆうに数百も控えていた。
ヌイが無言で駆け出した。
魔法を使うにはまだ遠い。
オレも急ぎ足で後に続く。
幸い草々の丈は低く、足を取られることはない。
ふと燃える建物の影に、見覚えのある人影が映り込んだ。
遠目でも、その手が掲げる純白の剣を確認できる。
「勇者ユウ!」
表情まではわからないが、一太刀ごとに、まるで紙のようにオークを斬り捨てていくその様は、嬉々とした雰囲気を如実に醸している。
怒りがこみ上げてきた。
だが、それよりも、あれはダメだ。
あの剣とヌイを、かち合わせてはまずい。
「ヌイ!」
先を行く小さな肩を掴むと、ヌイが振り返った。
表情こそ乏しいが、黒い瞳が鋭利に細められていた。
「人間と戦いたくないなら、待ってて」
「そうじゃない。簡単に言うぞ」
オレは一呼吸置いて、眼下の戦場を指差した。
「あそこに勇者ユウがいる。どうせ傭兵の真似事でもしているんだろうが、ヤツの持つ剣は魔物殺しの聖剣だ」
「聖剣?」
ヌイが動きを止める。
オレは頷いた。
「詳細は後で説明するが、とにかく近づくのはまずい。魔法の届く距離ぎりぎりから、強力な魔法で一気に、後方にいる待機兵の群れを叩くんだ」
「実際に戦ってる兵士じゃなく」
「そうだ。なぜなら、待機兵の中に隊長がいる。馬に乗ってるヤツがそうだ。あれを潰すのが一番早い」
「わかった」
ヌイの決断は早い。
丘の中ほどで、ヌイは足を止めた。
弓の遠射でもまだ届かない距離だ。
「ここからか?」
「ん。下がって」
長い杖を両手で掲げ持つヌイ。
オレは素直に後退した。
ヌイの黒髪が、ゆっくりと舞い上がる。
黒衣が風もなくはためき、足元の草がざわめき始めた。
魔力が膨れ上がる気配。
オレは喉を鳴らした。
首筋の産毛がおぞけ立つのを感じる。
ただの空気が、明確な圧力の層となって、オレを吹き飛ばさんと押し寄せた。
冷や汗が全身から噴き出した。
何だこれは。
オレは一度、魔王と戦ったんじゃないのか?
屋内だから加減したと言っていた。
ならばこれが、魔王の全力なのか。
肌が痛いほどに泡立つ。
こんなものを鳥肌とは呼ばない。
熱くて冷たい氷の針が、全身をくまなく刺し貫くような感覚など、味わったことがない。
ヌイが掲げる杖の先。
中空に、紫の光が、小さな太陽のように輝いた。
耐え切れずに目を逸らすと、丘の中腹を見上げるユウと、視線が交差した。
ユウの表情が凍りついた。
唇が何を紡いだのか、はっきりと読み取れた。
「生きていたのか」と。
それも一瞬。
ユウは、魔法を準備しているヌイを見て取ると、すぐさま踵を返した。
敵も味方も無視して、オークの集落から逃げ出したのだ。
後手を引いたら戦わない。
賢明な判断だった。
「テンライ」
オレが視線を戻したときには、ヌイは杖を振り下ろしていた。
視界を塗り潰すほどの強烈な閃光が迸る。
まるで天の落雷を束ねたような、巨大な稲妻が、文字通り兵士の群れを飲み込み、一斉に薙ぎ払った。
一時的に目をやられ、まぶたの裏が傷む。
オレは両眼を押さえて呻いた。
「ジロー。だいじょうぶ?」
「あ、ああ……」
薄っすらと目を開く。
まだ景色が明滅しているが、見えないことはない。
そしてオレは声を失った。
凄まじい光景だった。
大地の一部が煙を上げて焼け焦げ、数百もの兵士は大半が黒い塊と化し、動かなくなっていた。
もはや隊長の見分けもつかないだろう。
「ジロー?」
「……いや、まだ混乱した残存兵があちこちにいる」
心のうちに湧き上がりかけたヌイへの恐怖心を、悟られないように押さえ込む。
ヌイは魔物を守るために、ここまでやってきた。
ならば、この惨状は必然だ。
魔王と行動を共にする覚悟に不足があった。
それは認める。
だが、今は悔いているときじゃない。
「ヌイは集落の正門側から行ってくれ。残存兵を全部、追い払う必要がある。オレは裏手に回る」
「ん」
オレは一気に丘を下った。
まだ生きているオークがいるかもしれない。
そしてもし、集落内で戦闘に興じている兵士がいるなら、ヌイの魔法に気づかなかった可能性もある。
「プギー!」
甲高い鳴き声が耳に入った。
集落に踏み込むと、2匹のオークが、転びそうになりながら必死に逃げ回っていた。
子どもと母親だろうか。
その後ろからは何人もの兵士が、槍と怒号を振りかざしながら、オークに迫っていた。
兵士の1人が槍を突き出す。
母親のオークが悲鳴を上げて倒れた。
兵士が笑う。
子オークが泣き叫ぶ。
胃がざわついた。
以前のオレなら、何の違和感も覚えない光景だったろう。
しかし今は、どうしようもなく不愉快だ。
オレは今にも燃え落ちそうな小屋の影に、身を潜めた。
炎が肌をひりつかせるが無視する。
こっちは単独、相手は複数。
勇者なら剣1本であしらえても、非力なオレは、少々頭を使う必要がある。
「シップウ」
杖を一振りして、魔法を放つ。
強烈な突風が吹きつけ、家屋の一部を倒壊させた。
燃え上がる柱が、兵士たちと子オークを分断する。
「裏手から逃げろ。早く行け」
オレの言葉は当然、子オークには通じない。
しかし切羽詰った雰囲気を汲み取ったのか、子オークは名残惜しそうに母親の亡骸を見つめてから、一目散に逃げ去った。
「ふうっ。さて、あとは」
息を吸い込む。
熱気にむせそうになるが堪える。
オレは大声で叫んだ。
「正門が危ないっ! 隊長の命令だ! 全員、増援に向かえーっ!」
兵士たちはそれを聞くと、顔を見合わせ、弾かれたように走り出した。
これでいいだろう。
正門に着いて現状を把握し、さっさと撤退するもよし。
運悪くヌイと遭遇して丸焼きにされても、自業自得だ。
傍目からも、生き残りはもう絶望的だったが、あと少し粘ってみよう。
飛び来る火の粉をローブで払い除けて、オレは集落の奥へと足を進めた。




