115:ギャルが来てくれた
ただぼんやりと雲を眺めていた。僕がモールデートの時に食べたバニラ味のソフトクリームみたいな入道雲が、海みたいに真っ青な空を、ゆっくり東へ泳いでいる。地上は無風の灼熱地獄って感じだけど、上空には風が吹いてるんだなあ。
「行けなかったなあ。テカリンピックの予選」
別にあの催しに興味があるワケじゃないけど、叔父さんとの約束を破ってしまったのが申し訳なかった。
行ける、つもりだったんだ。昨日の事は昨日の事。と言うか二日連続で元クラスメイトに会うなんて、そうない確率だし。そう思ってた。けど、駅の改札をくぐることが出来なかった。ピッとICカードをかざすだけの、その動作が出来なかった。
あっち方面の電車に乗れば、クラスメイトじゃなくても、あの学校の生徒の誰かには会うかも知れない。教師や職員に会うかも知れない。そこまで広げたら、確率はグンと上がる。先生が敵だったとは思わないけど、それでも「久しぶりだな。今の学校は上手くやれてるのか?」って聞かれるのを想像しただけで、とてもとてもしんどかった。
「なにが、一人で乗り越えられるだ」
自分が見えてないにも程がある。
「乗り越えられるどころか、振り出しに戻ってるじゃないか」
学校に行けなくなった日と同じ。足が出ない、あの感覚。背中がヒンヤリして、夏だと言うのに、指先が震えた。例の吐き気がして、気が遠くなった。
ショックだった。一年前の最悪の状態は脱したハズだったのに……
「……弱いなあ、僕は」
あざ笑うかのようなアブラゼミの合唱に、頭をグワングワン揺らされてるみたいだ。目をつぶる。
家族の顔が浮かぶ。母さん、父さん。姉さん、メグル。叔父さん、叔母さん。みんなに迷惑を掛けて、期待を裏切って、僕は逃げ出した。
そして一年近くの時間をもらって、今日やってることは前と同じ、逃避行。まるで成長がない。
「かなり酷い顔してるだろうな。このままじゃ……帰れない」
また心配をかけてしまう。
「今、何時だろう」
あまり遅くなると、そっちで心配かけちゃうか。
僕はスマホの側面に親指を伸ばし……ん? あれ? 点かない。
「あ、そっか。充電切れ」
昨夜、残量を確認して、後で充電しておこうと思ったハズなのに。忘れちゃったんだ。
そっか。もう昨夜の段階で、平常心を失ってたのか。
自分の心の弱さに愕然とする。そして、唐突に、こんなことを思った。
こんなに弱くて、これから先、どうやって生きていけるんだろうか、なんて。ふ、と。「死」という一文字が脳裏をよぎった。バカバカしい。こんな一時の感傷で。そう思う気持ちとは裏腹に、その黒い影に背中を押されているように錯覚した。このまま身を委ねてしまえば、それは甘美なことのようにも……
「康生!!」
「……っ!」
セミの合唱すら突き抜けるような大声に、僕はハッと気を確かにする。変な方向に考え始めていた。引き戻してくれた、その声の主を慌てて探す。あ、公園の入り口か、と振り返った時には、その人は自転車を乗り捨てるようにして、猛然と駆け寄ってきていた。
銀に輝くミディアムヘアを振り乱しながら、あっという間に僕の目の前まで来ると、
「このアホ!!!! バカ康生!!!」
あらん限りの声で怒鳴った。僕はビクッと体が跳ね、唐突な音の奔流に思考も停止してしまった。
そんな僕を、しかし今度はギュッと潰れそうなほどに強く抱きしめてくる。え? え? どういうこと? 何も分からないまま、だけど次の瞬間、僕の頬に温かな水がかかる。雨、じゃないよね。こんなに晴れてる。
「どんだけ心配かけさせんだよ……」
星架さんの声が震えて、裏返っている。そこでようやく、頬に当たる水分は、彼女の涙だと分かった。
「そんな、ちょっと寄り道しただけで……」
「アホ! だからアホだって言ってんだよ! 三時間も。体調不良っつって、音信不通になって、こんな炎天下で! 心配するに決まってんだろ!」
「さ、三時間!?」
そんなに経ってたのか。何もせず、ただ雲を見てただけなのに。
「それに、アンタ、昨日のこともあって! 思い詰めてんじゃないかって!」
そんな大袈裟な、とはきっと言えないんだろうな。星架さんの声が聞こえるまで、自分が何を考えかけていたか。
「みんなも心配して、探し回ってる」
少しずつ、星架さんの声量も落ち着いてくる。だけど僕を捕まえたままの両腕はきつく体に回されたままだ。
「そう、だったんですね」
「そうだったんだよ。何回も電話したのに出ねえし」
「すいません、スマホも充電切れてるの、今さっき気付いて……」
星架さんは少しだけ僕の拘束を緩めて、自分の目元の涙を拭った。僕はその姿に、不意に鼻の奥がツンとした。こんなに心配してくれてる。それが嬉しくて、だけどこれ以上、甘えるワケにはいかないと、グッと歯を食いしばった。そして笑う。安心させたくて。
だけど、星架さんは、僕のその笑顔を、
「笑うな」
完全に否定した。




