第7話 盗賊 2
時間が経つにつれて益々激しさを増していく雨。
見張りをするにしてもほとんど何も見えなくなっているのに困っていると、交代の時間より早めにやってきたムグルもお手上げだと両手をあげた。
雨音のせいで周囲の物音が判りづらく、可視範囲も狭い。長年Bランク冒険者であるムグルをして、万全に警戒できるのが馬車とテントから極僅かの距離のみだと言うのだ。
「いつもなら俺と御者だけだし、何とかなるんだけどねえ」
人数が増えればそれだけ守る対象も警戒すべき範囲も広くなる。出来ないことを中途半端にやるよりは、出来る能力を持った人物に任せてしまったほうがいい。
「適材適所ってね。その代わり親父さんは午前中しっかり休んでもらうってことで」
この雨と闇夜の中でも問題なく警戒を続けられる人物。【危険察知】のスキルを持つ親父に番をしてもらおうというムグルの提案に、俺は一も二もなく同意した。親父には負担がかかるけれど、その分昼間に休んでもらえればいいだろう。
「あ、裕也おはよう。あれ、まだ夜? 今日の見張り番は裕也とムグルさんだったはずじゃあ……」
そうと決まればとすぐにテントに引き返し、幸せそうな顔をして眠る親父を叩き起こす。一体何事かと眠気眼を擦る親父に事情を説明すると、唐突な目覚めを提供されたにも関わらず快く承諾してくれた。偶に思うんだけど、親父は聖人君子の類いなんじゃないだろうか。
「悪いな親父。今度親父の番の時に代わるから」
いいよいいよ、と笑顔で外に出ていく親父を見送って横になると、一気に睡魔が襲ってきた。思っているよりも疲れが溜まっているみたいだ。
(これはすぐに寝れ……そう……だ……)
数時間前にムグルと御者があっという間に寝入ってしまった理由に納得しつつ、俺の意識は雨の音の中に掻き消えていき――。
「いやあ、昨日の雨が嘘のようだな。こいつはありがたい」
「ああ! そうだな! って言うかもう少しゆっくり!」
朝から大声を出す羽目になっていた。
昨晩の雨の影響でぬかるんだ地面。その不安定な足場の上を、二頭の馬が泥を跳ね上げながら駆け抜けている。必然その後ろに繋がれた馬車も相応のスピードで引きずられることになるのだけれども、地面の状態が状態だ。
アスファルトで舗装されているわけでもなく、ただ人が踏みしめただけのような道。そんな所をそれなりのスピードで駆け抜ければ、いくら大商人御用達の高価な馬車と言っても最悪の乗り心地になる。
「うん、元気な声だ。若くて実にいいね」
「聞けよ!? 上にいる俺たちもだけど、親父が中で寝て――」
「ちょっと! ガタゴトガタゴト揺らし過ぎなのよ! お尻打っちゃったじゃない!」
爺ちゃんと一緒に幌の上に乗っていた俺が御者台に向かって文句を言っていると、中にいた姉貴が鬼の形相で顔を突き出してきた。
その迫力に御者が小さく悲鳴を上げているが、隣に座るムグルはどこ吹く風だ。
昨日早めに休息に入った分今日は急ぐと言っていたけれど、まさかここまでスピードを出すとは思わなかった。ムグルのスキルで運動能力を強化された二頭の馬は、まるでお互いに張り合うようにして駆け続けている。
「なあに、もうすぐコダール村だ。そら、そこの三叉路を右に曲がれば――」
ムグルがそう言っている間にも馬は勢い良く右に曲がり、それに振り回されるように馬車が横滑りする。
「馬鹿! 落ちる落ちる!」
「裕也、少し落ち着かんか」
「いや、無理だろ!?」
俺が四つん這いになって必死に幌を掴んでいる横で、爺ちゃんは姿勢を崩すことなく座っているだけだ。その顔にはどことなく楽しげな笑みが浮かび、余裕すら感じられる。一体どうやったらそんなに落ち着いていられるんだ?
よく見たら本来馬を操るべき御者までもが顔を真っ青にして、椅子にしがみつくようにして座っている。
え、何? この馬車誰が操縦してんの?
「一旦停めろお!!」
思わずあげてしまった悲鳴のような声がムグルに届いたのか、馬車の暴走がようやく治まる。と思ったらそのまま徐々にスピードが落ちていき、道のど真ん中で完全に止まってしまった。
(どうしたんだ? まさか俺の言うことを聞いたわけでもないだろうし)
急な停車もムグルの指示なのか、御者も戸惑ったようにムグルの顔を見つめている。
「ちょっと! 今度は一体何なのよ!」
「あらあら、もしかしてもう着いたんですか?」
「僕、もう少し寝ててもいいですか?」
怒鳴る姉貴の横から母さんと親父も幌をめくって顔を出してくるが、ムグルは黙って周囲をを見据えたまま、一言呟いた。
「……臭うな」
◇
コダールは四方を森に囲まれた、人工二百人にも満たぬ小さな村である。
特産品があるわけでもなく、立地的な価値があるわけでもない。ただ村民が暮らす家と、彼らが生きるための糧を生み出す僅かばかりの畑が存在するのみだ。
村の中心部には村民の暮らす家屋が寄り添うようにして並立し、その周囲を簡素な木製の柵が囲んでいる。人々の仕事場である畑はその外に広がっており、やや不便を感じさせる構造となっているが、これにはれっきとした理由がある。
それはこの世界に住むすべての人の敵、【魔物】という種の存在によるものだ。【魔物】とは体内に【魔石】と呼ばれる物質を宿す生物を指す言葉だが、彼らは総じて人を害するという性質を持つ。
そのせいで人々は自分の身を守るため、自分達の集落の周りに壁を築くことを余儀なくされた。大きな町にはより大きな壁を。より重要な地区には更に強固な壁を。
しかし必要とは言え、人が住むすべての場所にそんなものを築く余裕はない。更に言えば壁さえ築けば安全だという保証もないのだ。
一定の水準を超えた力を持つ魔物であれば単体で石製の壁を破壊することが可能な上に、そもそもが空を飛ぶ種には全く意味がない。
そこでその地を収める領主は少しでも人々の安全を守るためにと、配下の騎士団に定期的に集落や街道周りの魔物を駆除させている。騎士団の目の届かぬ範囲や、予期せぬ魔物の発生には冒険者ギルドに討伐依頼が出され、場合によっては騎士団と合同で駆除作業が行われることもある。公にされてはいないが、冒険者が討伐した魔物の一部をギルドが買い取る金額には国や公的機関からの助成金も含まれているのだ。
だが壁、騎士団、そして冒険者、そして魔物に対抗すべく先人たちが幾重にも考えだした無数の策。それら全てを持ってしても、防ぎきれぬ不測の事態というのは起こりうる。そのために人は最後の最終手段として、ある魔道具を作り出した。
【撃竜煙】。
――過去にドラゴンの襲撃からとある集落を守り抜く助けとなったことから、そう名付けられた魔道具だ。
とある魔物の体液を基に精製されたそれは、特定の手順を踏んで起動させることにより、赤色の狼煙を発生させる。その煙は多少の水では決して消えず、山を超えた先からも視認できるほど空高く登り、ひどい悪臭を放ち続ける。
魔物といえども生物である以上、本能的に悪臭を忌避する。とは言え、いくらひどい臭いを撒き散らしても、そんなもので魔物を遠ざけていられるのは極僅かな時間だ。だがその僅かな時間にすべてを託し、異常を察した周囲の騎士団や冒険者たちに救援に来てもらう為にと作り出された代物が【撃竜煙】。力を持たぬ人々が最後に縋る、唯一の希望だ。その有効性と重要性から、領主に認められた全ての集落に常備されている。
当然使用後には臭いが残ることになるが、特に人体に害のあるものではないし、命を失うことに比べれば遥かに安い代償だ。これを預かる人間は自分達の身に危険が迫った時、何の躊躇いもなくこれを使用するだろう。
事実この魔道具が普及して以来、魔物により滅ぼされた集落の数は極々僅かに留まっている。
そして今、御者台の上に座るムグルの鼻はその独特な臭いを嗅ぎ取っていた。
獣の臓物を醗酵させたものを、より濃く煮しめたような悪臭。
昨晩の雨の影響か、横にいる御者や《ファミリー》の面々は感づいていないほど薄いものだが、過去に一度でも嗅いだことのある人間ならば決して忘れはしない。一度直に嗅げば三日は鼻が使い物にならないとまで言われる代物だ。その使用される状況も相まって、ムグルの記憶にも深く刻み込まれている。
「……慎重に進んでくれ。【撃竜煙】の臭いがする」
ムグルの言葉に御者は驚いたように目をむくと、無言で頷き馬を進める。それを聞いてもよく分かっていないのか、《ファミリー》の面々は顔に疑問符を浮かべたままだ。まさかBランクになってまで撃竜煙のことを知らないということはありえないだろうが、もしかしたら使用される場面に出くわしたことはないのかもしれない。
それはとても幸せなことだ、とムグルは思う。
そこに住む全ての人々。大人が、子供が、老人が――自分達の生存を賭けて壁に隠れ、武器を取り、そして全ての望みを外部からの救援に託して火をつけるのが撃竜煙だ。
その報せに気付いた者がいて運良く救援が間に合ったとしても、そこに広がる光景は凄惨の一言に尽きる。
(あんなものを見なくて済むならその方がいい。あんなものを使わなくて済むならその方がいい)
撃竜煙が使われたのはコダール村と見て間違いないだろう。近辺に他の集落があるという話は聞いたことが無いし、個人で携帯している人間など稀だ。だがこの距離で臭いがほとんど漂ってこないという事実は、火が消えてからかなりの時間が経っていることを意味している。
昨晩、雨が降りテントに潜り込むまでにコダール村の方角に撃竜煙らしきものの煙は確認できなかった。それは他ならぬムグル自身の目でも確認している。つまり撃竜煙が使用されたのも火が消えたのも、その後ということだ。
(確かに昨日の雨はかなり激しかったが……)
その程度で撃竜煙の火は消えてしまうものなのだろうか。
ムグルはそこまで撃竜煙の仕組みに詳しいわけではなかったが、世界的に普及している魔道具がそこまでヤワなものだとは思えなかった。加えて一度起動した撃竜煙は起動の時と同様一定の手順を踏まねば停止させることは出来ず、そこいらの魔物がそれを解除できるはずもない。
ならば早々に救援が来たのですぐにお役御免とばかりに消されてしまったのだろうか。こちらの方がまだ考えられる。
《ファミリー》の面々には伝えていなかったが、迷宮都市の方面からこちらに向かって来ているはずのムグルの仲間。チーム《風来》の面々とは、コダール村付近で合流する予定だったのだ。
折しも彼らがいる迷宮都市方面は昨日からずっと風下の方角にある。異変に気付き、現場へ急行していてもおかしくはない。そして彼らならばこの付近の魔物程度など、造作もなく蹴散らせるだろう。
(アイツなら人一倍鼻も利くしな)
二人のチームメンバーのうち、獣人である仲間を思い浮かべてムグルはそう自分に言い聞かせた。
――最悪の可能性から目を背けるようにして。
「ム、ムグルさん……。コダール村です」
御者の言葉に周囲を見渡す。
一面に広がるのは手入れの行き届いた広大な畑。
いま目に映っているのは黄色い果実を実らせた高さ五メートル程の樹木群だが、村を囲む広大な土地には雑多に分けられた区画ごとに様々な種類の農作物が育てられている。人口僅か二百といえども、それだけの人間を食べさせるとなればそれなりの収穫が必要なのだ。
視界を覆う木々の群れと村に近づくにつれ細くなっていく道幅に、ムグルは益々警戒心を募らせていった。
やがて馬車は別の農作物が植えられている区画に差し掛かり、横にいる御者はもとより、興味深げに周囲を見渡す《ファミリー》の面々にも警戒の色が走る。
徐々に濃くなっていく異臭、そして目の前に広がる光景の異常性に全員が気付いたのだ。
――誰もいない。
まだ昼というほどではないが、日が昇ってからそれなりの時間が経っている。何故誰も畑仕事に出ていない? 昨晩何かしらの事件があったからだとしても、余りにも静か過ぎる。もう村の中心部は目と鼻の先だというのに。
そして何よりムグルが注目したのは畑の様子だ。撃竜煙の使用を迫られるほどの魔物が現れたはずにも関わらず、一切荒らされた様子がない。まさかお行儀よく道を並んで侵攻してきたわけでもないだろう。
他の方角からの襲撃、もしくは強力な一個体が村を襲ったという可能性もなくはないが、その場合でも何人かは村を捨ててこちら側にも逃げてきているはずだ。誰一人として姿を見かけないのはおかしい。
(頼むから思い過ごしであってくれよ……)
膨らむ最悪の可能性。
畑を荒らすことなく一直線に村へ向かい、撃竜煙の仕組みを理解した上で、誰一人として逃げ出せぬように事を進めることが可能な戦力を保持する――そんな存在。
――いる。たった一つだけ、心当たりがある。だがそれは。
(警戒すべき相手だってのは認識していた。だからわざわざ《ファミリー》も雇った。だがそれにしても、だ。ありえるのか? 二百人弱もの村人がいて誰も逃げ出せないなんてことが。一体どんな絡繰で……)
落ち着け、と自分の考えを否定するように頭を振るムグル。そもそもまだ村が全滅したとは決まっていないのだ。先に考えたように、誰かの手によって事態が解決している可能性も十分にある。
やがて樹高の高い作物が植えられているエリアを抜けると視界が広がり、村の中心部を囲む木の柵が目に入った瞬間――。
「裕也! 晃奈! 見るな! 馬車に入っておれ!」
幌の上に座る斎蔵の、焦ったような怒鳴り声が響いた。




