第2話 一家揃って異世界へ 1
「――きろー。おーい、起きろー」
誰かが俺の額をペチペチと叩いている。
(この声は、姉貴か?)
うるさいなあ。今日は休日だっていうのに。嫌がらせにでも来たのか?
いくら姉貴といえども、休日の睡眠時間という貴重な時間を邪魔する権利はない。そう思って無視を決め込もうとすると。
「起きろって言ってんでしょ! 天上天下踵落としぃぃぃ!」
「ぶはっ!?」
突如、腹部に衝撃が発生した。
「がはっ! げほっ……?」
(何だっ!? 何が起きたっ!?)
肺から空気が吐き出され、遅れて痛みがやってくる。思考は混乱し、考えが纏まらない。
いったい何が起こったのか理解できず、言葉を発する余裕もない。
「あれ? 今まで成功したことないのに」
「あらあら本当ねぇ。私にもできるかしら」
何故かは分からないけれど、どうやら母さんも近くにいるようだ。
痛みで痙攣している家族の一員に一切優しい言葉をかけようともせず、頭上で姉貴と謎の会話を繰り広げている。
(……大学はうんと遠いところにしよう。絶対に一人暮らしをするんだ)
頬を撫でる優しい風と、鼻をくすぐる草の匂いに包まれながら俺はそう決意した。
(……ん?)
風? 草の匂い? 俺の部屋で何でそんなものを感じるんだ?
そこで漸く何かがおかしいと気付き、俺は慌てて飛び起きた。
「ほう、今のをくらってもう起き上がるか。裕也も成長したのぅ」
いつからそこにいたのか、爺ちゃんの声までする。
こんな朝から姉貴と母さん、それに爺ちゃんまでもが俺の部屋にいるなんてありえない。そう、ここが本当に俺の部屋ならば。
新鮮な空気が肺の中を満たし、意識が覚醒する。
目の前には会話を続ける姉貴と母さん。少し離れたところには手ごろな岩に腰掛ける爺ちゃんと、呆然と立ち尽くす親父の姿が見えた。そして周囲に広がる大草原。
(って、草原っ!?)
「どこだここぉぉ!?」
俺の叫びは虚しく宙に消えていった。
◇
「う、疑ってすみませんでした」
ズキズキと痛む頬を抑え、蹲る。
目を覚ますと屋外。
こんな悪戯をしでかすのも可能なのも姉貴しかいない、と確信をもって詰め寄ったのだが、返ってきたのは否定の言葉と右フックだった。
「全く。いくらあたしでも、お爺ちゃんと母さんに気付かれずにこんなこと出来るわけないでしょ。大体あたしだって、ここがどこなのか分からないわよ」
出来たらやるのか、という言葉を飲み込み、改めて周囲を見回す。
目に映るのは見渡す限りの草原と、遠くのほうにある森らしき影だけだ。近所にこんな場所はなかったと思うんだが。
全員で顔を見合わせる。けれどもその表情を見る限り、誰も心当たりがないようだ。
「誘拐、されたのかな……?」
「お養父さんやアキちゃん、私に気付かれずに家族全員を、ですか? 不可能だと思いますけど」
今まで黙っていた親父が不安そうな声を上げたが、それを母さんがばっさりと切って捨てる。
とんでもない自信だが、俺もそう思う。
大体誘拐なら、こんな何もないところに放り出されたりするだろうか。見た感じ、誰も外傷を負っているようにも見えない。
「今のままじゃ、さっぱり分からないな。これからどうする?」
このままここで、ぼーっとしているわけにもいかない。首を捻っている皆の姿を見渡しながら口を開く。
冷静に喋ってはいるけれど、はっきり言って不安全開だ。頭を整理しようにも、余りにも情報が少なすぎる。
もしこの状況でたった一人だったら、確実にパニックになっていただろう。
けれども隣に家族がいる。それだけで落ち着けた。冷静になれた。
「そうですねえ。とりあえず誰か人のいるところを探しましょうか。私、お腹が空きました」
困ったような顔で頬に手を当て呟く母さん。上には上がいた。
いくら冷静なれたとは言っても、空腹を感じるほどの余裕があるわけじゃない。我が母ながら、とんでもない平常心だ。
「賛成―。あたしもお腹空いたし、お風呂にも入りたいし。昨日の夜、めんどいからパスしちゃったのよね。まさかこんなことになるなんて、ミスったわ」
母さん同様に鋼の心を持つ姉貴も、ちょっと困った、程度のノリで声を上げる。
かくして我が家の権力ピラミッドの頂点たる二人の意見が採用され、俺たちは人里を求めて歩くことになった。
まあ、このままここにいてもしょうがないしな。
方向? 姉貴が勘で決めた方に向かうことになった。
腰の高さ程もある草原の中を歩き続けること数時間。
既に太陽は真上に昇り、俺たちの体をジリジリと灼いている。
朝から何も口にしていない。空腹はまだ何とかなるが、喉が渇いた。
今は七月。
毎日扇風機か冷房なしでは生きていけないほどに暑い日々が続いていたけれど、幸いなことに今日はかなり涼しい。むしろ若干肌寒いくらいだ。それでも喉が渇くことに変わりはないが。
出発直後には弾んでいた会話もいつの間にか鳴りを潜め、今は皆黙々と足を動かしている。
(何か飲みたいな……)
願いが天に通じたのだろうか。俺が人知れずため息をついた瞬間、姉貴と爺ちゃんがほぼ同時に足を止めた。
「二人とも、どうしたんだ?」
問いには答えずシッ、と口に人差し指を当てる二人。
そのまま数秒間、全員が足を止めて耳をそばだてていると、爺ちゃんがニヤリと笑った。
「この先から水の音が聞こえるぞい」
「水!?」
瞬間、それを聞いた親父が弾かれたように走り出す。普段の姿からは信じられない速度だ。
慌てて俺たちも続いたけれど、先を行く親父との距離は開くばかり。
(凄いな親父。こんなに足が速かったのか。……っていうか)
「父さん、速過ぎない?」
俺と同じ疑問を持ったのか、横を走る姉貴が首を傾げる。
滅多に走る機会のない母さんや爺ちゃんよりも、というのならまだ分かる。
けれども姉貴や、仮にも毎日部活で走りこみをしている俺を引き離すほど速いなんてことがありえるのだろうか?
(隠れて鍛えてたようには見えないけれど)
疑問は解消されぬまま、親父を先頭に走り続け、やがて俺たちは小さな川原に到着した。
川の底まで透けて見えるほど綺麗な水の流れ。時折跳ねる水しぶきに乾いた喉を刺激され、先を争うようにして水を飲み始める。
美味しい。
学校でよく水道水を飲むことはあるけれど、あんなものとは比較にならない。火照った体と空きっ腹に、程よい冷たさの水が染み渡る。
全員が満足するまで水を飲み終えると、思い思いにその場でくつろぎ始める。
「いやあ、疲れたね。このまま少し休憩しようか」
服が汚れるのにも構わず、その場で横になる親父。日頃の運動不足もあって、相当疲れているみたいだ。よく考えたら、むしろここまで俺たちについてこれたことが意外だ。
「このような植物、見たことがないのう。本当にここはどこら辺なんじゃろうか」
一方爺ちゃんは、難しい顔をして辺りの植物を調べている。
「あらあら、食べられる野草があればよかったのですけれど。私もう、お腹ペコペコで」
その横で爺ちゃんと一緒に草花を眺めている母さんには、どうやら別の目的があったらしい。確かに喉が潤ったせいで、さっきよりも空腹感を感じる。
そして姉貴は川辺でシャドウボクシングをしていた。
何で休憩中に疲れるようなことやってるんだ……。
「しかしあれだね。どうやらうちの近所じゃないのは確かみたいだね。何でかは分からないけれど、皆動きやすい服装だっていうのが、不幸中の幸いというか何というか……」
俺もその場に腰を下ろしながら、顔だけこっちに向けて話しかけてくる親父に頷き返す。
あまりの暑さに耐え切れず、昨晩俺は上半身裸で寝ていたはずだ。ところが今朝地面の上で目が覚めたときには、何故か学生服にスニーカーを履いていた。
他の皆も、爺ちゃんの袴姿を除けば普段外出時に着るような服装をしている。いや、爺ちゃんも普段着と言えば普段着なのか。
ここが近所じゃないというのも間違いない。近所どころか市内にもこんな場所は存在しない。
いや、むしろここは日本なのだろうか。
目を覚ますと見知らぬ地。生えている植物は爺ちゃんも知らないものばかり。
ありえないとは思う。だが、心の一部が『その可能性』を主張しているのも否定できない。
(……いやいや、そんな馬鹿な)
『ゲームのやり過ぎが原因』『現実と妄想の区別がつかなくなっている』
テレビでよく流れるそんな無責任なテロップが俺の頭の中を流れる。
(ありえない。ここは日本で、ちょっとした田舎なんだ。うん、ありえない。そんな漫画みたいな話が――)
「間違いないわ、ここは異世界よ!」
頭を振ってその可能性を追いやろうとしていると、絶妙なタイミングで姉貴が叫んだ。突然のことに全員が注目する。
「私達皆、召喚魔法や事故だったり神様の悪戯や手違いだったりで、地球とは別の世界に飛ばされたのよ!」
異世界。
地球とは異なる法則で成り立つ、全く別の世界。
創作物では頻繁に目にする言葉だ。
最も種類が多く一般的なのは、魔法が存在し、ドラゴンなどの魔物が闊歩している世界だろう。いわゆる中世ファンタジー世界だ。
元々ゲームなどではそんな世界を舞台にした物語が多かったが、最近では地球で普通に暮らしている主人公が、突然異世界に飛ばされることから話が始まる、という小説も増えている。ちなみに転生なんて特殊な場合もあるらしいが、今はおいておこう。
母さんはなるほどねぇと頷いていたが、爺ちゃんと親父は何を言ってるんだ、とでも言いたげなポカンとした表情で姉貴を見ている。
俺はゲームや漫画で偶々その類の知識があったので、姉貴の言っていることが分かる。それに丁度同じ可能性も考えてもいた。
けれど一般的には、爺ちゃんと親父の反応の方が普通だろう。
皆が様々な反応を示す中、姉貴はうんうんと一人で頷くと話を続ける。
「朝起きたときから不思議だったんだけど、夏にしては涼しすぎると思わない? 今まで一度も成功しなかった天上天下踵落しが簡単にできるようになっていたし、父さんの足はとんでもなく速くなっていた。さっき再確認してみたけど、いつもより大分体が軽いわ。これは身体能力強化の特典付きね。誰か他には体に違和感を感じたりしてない? もしくは夢の中で私たちをここに飛ばした神様に出会ってるとか」
「そう言えば、あんなに歩いたのにほとんど疲れていないわねえ」
普通に考えたら荒唐無稽な話だが、母さんはあっさり納得したようだ。そのまま姉貴と二人で話を始めてしまった。
爺ちゃんと親父の方を見ると、相変わらず呆然としている。恐らく姉貴の言葉の半分も理解していないだろう。姉貴達が二人の世界に入ってしまうと、助けを求めるように俺の方へ視線を送ってきた。
(うーん、何て説明すればいいんだ?)
その可能性がある以上、二人にもそっち関係の知識を持っておいてもらったほうがいいだろう。
その後全く予備知識のなさそうな二人に『異世界』なんていう、日常生活を送る上では絶対に耳にしないであろう言葉の意味と、諸々の知識を噛み砕いて説明すること十分弱。
何とか最低限のことは理解してくれた。
「ええとつまり、少なくともここは日本どころか、もしかしたら地球ですらないということかい?」
半信半疑で首をひねる親父の言葉に頷く。
「まだ確定じゃないけどな。日本にだって探せばこんな場所いくらでもあるだろうし、国外の可能性だってある。ただ服装のことや身体能力に異常があったりと、あまりにも現実離れしている状況だからな。あくまで可能性の一つだってだけで――」
「死ねぇっ!」
突然姉貴の叫び声と、巨大なハンマーを岩に叩きつけたような大きな音が辺りに鳴り響いた。
「何だ!?」
思わず会話を中断し、腰を浮かせる。
音の発生源に目を向けると、そこには岩を殴りつけた姿勢で固まる姉貴の姿があった。
遅れてズルリと、岩に張り付いていた何か生き物のようなものが地面に落ちる。
「姉貴、何だそれ?」
音にも驚いたが、こっちの方が驚きだ。生まれて初めて見る生物だ。しかもかなり大きい。
(トカゲ?)
それを見て最初に頭に浮かんだのは、大型のトカゲだった。図鑑やテレビで見たことがある。確かコモドオオトカゲ、とかいう名前だったか?
(……いや、違うな)
二メートル近くある全身を覆う、強靭そうな鱗。長い手足から生える鋭い爪。記憶にある巨大トカゲの姿とは明らかに違う。
だがそんなことよりも。
ビクビクと痙攣するトカゲもどきの体と、それを殴りつけた姉貴の拳。そして大きなヒビの入った岩。この三ヵ所に視線を何往復かさせ、俺は最も気になっていることを尋ねた。
「で、……頭は?」
足元に転がっているトカゲもどきには、頭部がなかった。
何となく答えは分かっているが、信じられない。
「ええと、ここ?」
若干気まずげに答えた姉貴が指し示したのは、ヒビの入った岩。
最も亀裂の深い部分を中心に、ペンキでもぶちまけたかのように赤黒い液体が広がっている。そして液体の所々には何かの肉や、骨のような白い塊が付着していた。
「うっ!」
そして姉貴の足元に転がる白い球体。ブヨリとした筋のようなものが張り付いたそれが一体何なのかは、あまり考えたくもない。
「いやー、いきなり飛び出してくるから、思わず本気で殴っちゃった。危ないわね。裕也も気をつけなちゃ駄目よ」
誤魔化すように笑う姉貴。危ないのはお前の方だ。
こんなでかい生物の頭部を粉砕するとか、どんな力してんだ。身体能力が上がっているとしても、強すぎだろ。
「ちょ、こら! 離れるな!」
思わず一歩後ずさると、それを追うように手を伸ばしてくる。
やめてください。比喩でもなんでもなく、その手は凶器です。
「晃奈、本当に素手の一撃でこれを成したのか?」
俺が姉貴から逃げ回っていると、いつの間にかトカゲもどきのすぐ側に、爺ちゃんがしゃがみこんでいた。力の抜けた前足や鱗をじっくりと触りながら、何かを検分しているみたいだ。
「えぇ、そうですね。私が見てた分には、そのトカゲさんが草むらから急に飛び出してきて噛み付こうとしたのを、岩ごと殴りつけた感じですわ」
手をニギニギさせながら俺に近づいている姉貴の代わりに、母さんが答える。それを聞くと爺ちゃんはふむぅ、と頷いて立ち上がり、全員を見渡してこう言った。
「日本、どころか地球上にこんな生物はおらんじゃろう。それとこの生物、鱗もそうじゃが非常に頑丈そうじゃ。少なくとも昨晩までの晃奈ではこんな芸当ができんほどにはの。進士の件もあることじゃし、晃奈の言うたとおりその異世界とやらも含めて、わし等の身に尋常ならざる出来事が起きたのは間違いなさそうじゃな」
どうやら爺ちゃんも、ここが地球ではないとの結論に達したみたいだ。
一家の最年長の言葉にニコニコと笑みを絶やさない母さんと、顔を青ざめさせる親父。そして姉貴は新しい玩具を与えられた子供のように、目をキラキラとさせている。
「とりあえず人探しに戻ろうか。川があるってことは、上流か下流に村とかあるかもしんないし」
ここがどんな世界なのかはまだ分からないけれど、人がいるのなら生活するのに水は必須なはずだ。
ある程度休憩もできたところでそう提案すると、爺ちゃんがそれを遮るように手を振る。
「いや、その必要はあるまい。誰か近づいてきておる」
爺ちゃんの向ける視線の先。目をこらすと、下流の方にいくつか人影のようなものが見える。
「とりあえずあやつらに情報と、できれば食料も分けて欲しいところじゃの」




