三十四話 君をのせて
現代では大阪-東京間を新幹線が二時間半で結んでいた。世界一周すら航空機を駆使すれば最短43時間でクリアできるとか。対して江戸時代では江戸-京都間を旅人は徒歩で二週間かけた。この時間差を考えると現代の移動の速さ、江戸時代の移動の遅さが良くわかる。現在進行形で縄文時代で暮らしてる私からするとどっちも速すぎて頭おかしいんだけどね。道と言えば獣道しかない縄文視点で言えば、整備された街道を歩くだけで良い江戸時代も十分過ぎる。
でも速いか遅いかどっちがいいのかと聞かれれば、やっぱり速い方が良い。
と、いうわけで、私はオオガミの背中に乗せて貰って超快速狼便を楽しもうとした。普通の狼は時速30~40kmぐらいで七時間走り続ける事ができる。これが白狼なら倍以上。彼の背中に乗せて貰って走れば、移動時間を大幅に短縮できる。世界樹(富士山付近)と白狼の巣(大阪付近?)を一日往復も夢じゃない。
……たぶん、私は物の怪の姫が巨大な白狼を平然と乗り回しているイメージが漠然と頭の中にあったんだと思う。そうでもなければ、オオガミの背中に乗って走り出して三歩で振り落されて地面に叩き付けられる、なんて恥ずかしい事にはならなかった。もうね、彼女の人外っぷりが身に染みて分かったね。作中で人にも獣にもなれぬ憐れな子、とか言われてたけど、嘘ばっかりだよ。あれ絶対人間辞めてるから。
私も大概人間辞めてるけど、オオガミにしがみつく筋力もバランス感覚も無いので、素直に鞍と鐙を作る事にした。
前世の社会科見学で行った歴史資料館で見た鞍と鐙の記憶を頼りに、革を切り、張り合わせ、オオガミに試着してもらって出来を確かめながら作っていく。長い縄文暮らしで私の製作技能はセミプロレベルまで上がっている。完成度はとにかく、実用できる程度のクオリティでいいなら鐙と鞍の製作も難しくない。
乗られる側のオオガミの意見も聞きながら作ったので、乗り心地も乗られ心地も良い物に仕上がった。
早速鞍と鐙をつけたオオガミに乗って元の住居白狼の巣を往復し、置いてきたものを運び込む。雨が少なく雪も降らない土地だった事が幸いして、半壊した住居に置き去りにしていた諸々の荷物は半分以上無事だった。
オオガミは私に気遣って走ってくれるので、体の大きさの割にあまり揺れない。そして高速道路を走る車に風防無しで乗っているようなものだからかなりの風を感じるはずなのに、扇風機の強ぐらいの風しか来ない。他にも全然助走をつけていないのに不自然な跳躍距離を見せたり、垂直に近い崖を駆けあがったり、物理さんが仕事に手抜きしてるような機動を見せつけてくれた。流石オオガミ、私にはできない事を平然とやってのける! そこに痺れ(ry
そうして白狼ヤマトのオオガミ便で運送を済ませてからは、丸々二年を生活環境の整備に費やした。飢饉はまだ続いてはいたものの、白狼の庇護下にある私は十分な食料が寝ているだけでも届けられたし、餓えた獣の襲撃も完全ガードしてくれる。大自然が今までで一番ロングスパンなプレッシャーをかけて殺しに来ているというのに、皮肉にも今までで一番安全快適、びっくりするほど何事も無く順調に仕事が進んだ。
まず岩屋を建て直して、石造りの家にする。土間や外付けの風呂場で焚いた火の煙と熱が床下を通るように基礎を作り、床暖房代わりした。白狼達に爪で削って岩を切りだしてもらい、引っ張ったり押したりして運んでもらい、と散々手伝ってもらって、基礎にも壁にも柱にも私の遺灰を撒いて何か良い事が起こるようにおまじない。屋根まで石にすると落ちてきた時が怖すぎるので茅葺にして、最終的にコンビニぐらいの広さの家ができた。匠もびっくりなビフォーアフター。白狼の群れも全員ばっちり入る。崖下は風通しが良く、日中は木陰になって、近くに水を引いて来てあるので夏も涼しい。
水を引いて来て、とあるように沢から水を引いて来て上下水道も作った。これも白狼達にせっせと地面を掘り返して頂いた。ほんとありがとうございます。
他にも養蜂を再開したり、海岸に行って砂浜に塩田を作ったり、麻の群生地を探し当てたり、粘土の採取場を見つけ出したり、登り窯を造ったり、と、やれる事はやれるだけやった。なんだか九割近く白狼のマンパワーに頼った気がするけど、狩りに費やす時間が大幅に減った分、白狼達もけっこう暇してたし、別にいいかなって。
人類の空への夢は大昔からずっと続いてきた。
人類にとって空を飛ぶ一番身近な存在は鳥で、最初は腕に鳥の翼を模したものをつけて羽ばたきながら崖を飛び下りる、という無謀な挑戦がされていた。魔女が箒に乗って飛ぶ、というありえない空想が信じられていたのも、それだけ人間が空を飛ぶという事が幻想の領域として考えられていたからだと言えるのかも知れない。
そして人類という翼を持たない雛が大空への飛翔を始めたのはいつかと聞かれれば、ライト兄弟のフライヤー号が有名だと思う。現代人に聞けば十人中九人はそう答える。
どっこい残り一人は、気球と答える。
実際、気球が空を飛んだのはフライヤー号よりも百年以上早い。ほとんど風に流されるままだとしても、上昇と下降ぐらいは操れるし、何よりもはっきりと「人が乗って」「空を飛んで」いる。人類史に残る偉大な発明だったと思う。発展はしなかったけど。
という訳で、私はその偉大な発明を人類史に数千年早く刻んでしまおうと思った。気球、作成開始。
いやほら生活空間整ってから暇だったからね。どうせ暇を潰すなら大きな事しなきゃって。
蜂蜜酒を蒸留してアルコールを貯めつつ、人間大の小型熱気球を作って実験。できるかぎり薄くて丈夫な紙を使ってみたところ、一回目は浮上前に引火して焼け落ち、二回目に浮いたと思った次の瞬間に引火して焼け落ちた。気球の耐火性に難がありすぎる。
仕方ないので気球に使う紙に遺灰を混ぜたら、焦げたそばから脱皮するように剥がれて再生するようになった。火傷の下から新しい皮膚ができていくようで、見ていてちょっと気持ち悪い。でも問題解決。困ったら遺灰を使えば大体フワッとした感じでどうにかなる、これ非常識な常識。
一日のほとんどを趣味につぎ込めるニート紛いの夢のような日々を、わふわふとまとわりついて来るタマモや白狼と戯れつつ気球作りに費やす。
枯草を集め、潰して繊維を取り出し、遺灰を混ぜ、薄く延ばして重石を乗せ、乾かす。できた紙を麻糸で縫い合わせて更に大きな紙にして、気球の形になるように整形する。気球の大きさはカッパドキアの旅行パンフで見た写真を思い出して参考にした。乗り物の部分は木で枠を作って、麻紐で網のように床と壁をつくった。枠付きのハンモックといったところか。
全部を室内で作るには大きすぎるので、パーツだけ作っておいて、天気の良い日を見計らって外で一気に最後の組み立て作業をした。途中でタマモ達にイタズラでズラズタに引き裂かれなかったのは、それを予測して完成途中のパーツを厳重にしまっておいた私の警戒心の勝利。まあ、まっさらな大きな紙を見てソワソワうろうろしてるケモノを見れば、誰だって考えてる事わかるだろうけど。障子を張り替えた途端に飼い猫が意気揚々と切り裂くのはもはや様式美。
そして更に。何度も災害や事故を超えて用心深くなった私に隙は無い。
気球を飛ばした後、引火した時のために消化用の水を積み。風に流されてとんでもないところに行かないようにもやい綱で気球と地上を繋いでおき。鳥が飛んできて穴を開けようとしても撃退できるように投擲用の砂利を積み。お腹が空いた時のために干し肉と蜂蜜どんぐりクッキーを積み。
トドメに万が一にも天気が急変して嵐に遭ったりしないように、雲一つない快晴&風の無い日を初飛行に選んだ。まさに万全……! 鉄壁の構え……! 矢でも鉄砲でも持って……こられたら墜落するね、うん。何事も起きませんように。
初飛行の日、野次馬に集まってきた白狼達に囲まれながら、養蜂用花畑の真ん中で気球に火を入れる。最初は萎んでいて手で支えないとくたびれてしまった気球も暖められた空気を吸って膨れていき、丸くなって持ち上がる。気球と乗り物を繋ぐ紐がピンと張った所で、私はおっかなびっくり乗り込んだ。このドキドキ感が恐怖なのか期待なのか自分でも良くわからない。能天気にぴょんと飛び乗ったタマモが羨ましい。これから何が起きるかも理解してないみたいだけど、案外それぐらいのほうが遊覧飛行を楽しめるのかも知れない。うう、緊張で気持ち悪くなってきた。
ここまで大がかりに準備を進めてヘタレたら、一体何が始まるんです? と期待して集まっている白狼達の顔が失望に染まるのが簡単に想像できる。無邪気な期待を裏切るのが辛い。父さんが嘘つきじゃなかった事を証明するためにも、ラピュ……じゃない、空に行かないと。おっけー、空は友達怖くない。
自己暗示をかけているうちに、気球がふわりと花畑をこするようにして動いた。内臓が浮き上がるようなどこか懐かしい浮遊感。変な話だけど、エレベーターが上がる時の感覚を思い出して急に落ち着いた。ああそっか、こんなの全然大したことない。現代人にとって、空を飛ぶのは別に珍しい感覚じゃない。
でもタマモはそうじゃなかったようで、空を飛び始めた途端に泡を喰って乗り物の中をぐるぐる走り回り、錯乱してきゅんきゅん恥も外聞もなく泣きわめきながら半分転落するように気球を飛び降りた。そのまま花畑に転がり、仰向けになってぴくりとも動かなくなる。気絶したらしい。気球はもう二メートルも上がっていて、タマモを拾いには戻れない。
「『ふかふか』、タマモの面倒看てあげて!」
「わふん!」
近くにいた白狼に看病を頼んで、いざ行かん紺碧の空へ。熱気球「ロムスカ3号」、発進!
熱気球はゆっくりと上昇していった。森の木々の枝が一本一本目線の高さまで下がって来て、下に落ちていく。木の先端をかすめてどんどん上がり、急にぱっと視界が開けた。眼下一面に広がる鬱蒼と茂る原生林。生命に溢れた濃い緑と、どこまでも蒼い空のコントラストが目にまぶしい。
たまらず、私は胸いっぱいに息を吸い込んで、地平線の向こうまで届けと思いっきり叫んだ。叫んで、叫んで、笑った。爽快な気分だった。
ぼぼぼぼ、と低い音を立ててアルコールが燃える。地上で感じるよりも、風がずっと軽やかだった。
ちょっとした高層ビルぐらいの高さまで上がると、海が見えた。日の光を反射して、波がキラキラ輝いている。歩いていけばあんなに遠い海も、空に上がればこんなに近い。
そこで気球が軽く何かに引っ張られるように揺れて、上昇が止まった。もともと気球を係留する紐はそんなに長く作っていないから、これぐらいの高さで限界いっぱいだ。私は乗り物の縁に頬杖をついて空の彼方を眺め、歌を口ずさんだ。緩やかに吹く風で気球がゆりかごのように優しく揺れる。今この地球でこの景色を見られる人は、きっと私だけ。そう思うとますます愉快だった。
しかし楽しい遊覧飛行も燃料という切実な問題があり、積んでいたアルコールはあっという間に燃え尽きた。あれだけ準備して、空にいられたのはたぶん十分ぐらい。でもこの感動はプライスレス。燃料さえ用意すればまた何度だって飛べる。
気球に溜まった熱い空気が冷えて高度が自然に下がるのを名残惜しく待つ。ああ、せっかくこんなに高い所まで上がったのに、重力には逆らえない地を這う生き物の宿命。センチメンタルに浸りながら、少しずつ下がって、下が、下……あれっ。なんか上がってない?
上昇気流にでも捕まったのか。いやまだ遊覧飛行続けられるならそれはそれで嬉しいんだけど。
一抹の不安を感じて、何気なくもやい綱を引っ張って確認する。
スカッた。
「えっ」
乗り物から頭を出して、綱を結んであるはずの場所を見る。
何もなかった。
もやい綱はほどけていた。下を見ると花畑に落ちて蛇のようにとぐろを巻いているモノが見える。
「ちょっ……!」
全身の血がざあっと引いていく音がした。
火はもう止めているのに、もやい綱もないのに、上昇していく。風に流されていく。ゆっくりと、確実に、地上と花畑から離れていく。あわわわわわわ……
下を見る。落ちたら潰れたトマトになる高さだった。絶対飛び降りれない。木の枝をクッションにして飛び降りる? 無理無理、ランボーじゃないんだから。焦ってぐるぐる狭い乗り物の中を歩き回る。その場でジャンプしてなんとか下に降りさせようという無駄なあがきはやっぱり無駄に終わり、妙案は何も思いつかない。
もう気流から自然に外れて落下を始めるのを待つしかない。こんな事になるんだったら手動扇風機みたいなチャチなものでもいいから推進器を作って積んでおくんだった。何もできない、祈って待つしかないというのは苦しい。いやでもだってもやい綱がほどけるなんて誰も考えないから! 小刻みに揺れてたからそれで結び目が緩んだんだろうけど! 四重ぐらいに堅結びしとけばよかった!
後悔先に立たず。いくら悔やんでも時間は巻き戻せない。かといって未来に目を向けても何もできる事がないというのがまた救い様が無かった。
最悪にも、気球は海に向かって流されて行っていた。ああ、これはもうだめかも分からんね。海に出て陸地の見えないところで墜落でもしたら永久に海流に乗って大海原を漂う事になりかねない。
もう飛び降りるしかない。このまま気流に身を任せて最悪の結末になるぐらいなら、まだどうにかなる今、墜落死した方が、マ、マ、マシだから……!
せめてもの悪あがきに、森の上空を抜けて海上に差し掛かったところで身を乗り出す。上手く着水できれば死亡回避もワンチャンスある。
足ががくがく震える。ああ嘘でしょ、怖い怖い怖い! 高飛び込みでもこんな高さから落ちないよ。清水の舞台なんて目じゃないってこれ。あああああああでもどうしても今落ちないと取り返しのつかない事にぃいいいいいあああああううううううあああああああっ!
あー!
もうどうにでもなれぇ!
ルルメノ=アマテラス、逝きます!
「いに"あ"あ"あ"あ"……!」
そして私は踏み潰された猫のような悲鳴を上げながら真っ逆さまに落ちていき、海面に叩き付けられて死んだ。
「あまてらす、おかえり。おそらふわふわ、あまてらすぷかぷか。たのしそうだった。こんどは、たまもものせて」
「あ、うん今度があればねハハハ」
びしょ濡れで花畑に戻った私を、尻尾をぶんぶん振るタマモと白狼達がお出迎えしてくれる。引き攣った笑いしか出ない。
猛スピードで視界いっぱいに迫る海面は、当分悪夢に見そうだった。




