二十一話 海の見える家
風呂は海岸近くに掘ると海水が染み込んでくるので、川をちょっと遡った場所に作った。相変わらず水たまりに焼けた石を落とす単純構造だが、特に困ってはいない。シャワーや石鹸が欲しいというのは高望みが過ぎる。
休火山(この時代だと活火山?)の富士山が近くにあるのだから山を探せば温泉ぐらい見つかりそうな気はしたけれど、今は食の探求に勤しみたい。
アサリの塩汁は滲み出たエキスと塩味のハーモニーが予想以上に良かったので、ここ一ヵ月ほど夕食でメインを飾っている。塩を使い過ぎない所がポイントだ。海水よりもちょっと薄いぐらいが貝の旨みと塩味がよく調和する。それに塩分の摂りすぎは体に良くない。昔料理番組で観たうろ覚えの知識によると、日本人の年間平均塩分摂取量が2500g? ぐらい。体重を加味すると、私は1000gぐらいが適量になる。一日一つまみか二つまみぐらいの塩で十分必要な塩分は摂る事ができる。
そう考えるとファーストフード店の塩まみれなフライドポテトの塩分が恐ろしくなる。あんなの毎日食べてたらそりゃー健康に悪いってなものだ。ああいうのはたまに食べるからこそインパクトがあって美味しい。
貝の塩汁と浜辺の野草の塩もみ、森で獲れるキノコの塩焼きなど、塩をそのまま使うだけでも一気に食卓が豊かになり、海に来てから食べる楽しみがぐっと増した。料理はいいね。人間が生み出した文化の極みだよ。
しかしせっかく海に来たのに貝と塩だけというのはもったいない。
鰻を今度は塩ダレで食べてみたかったが、タマモも毎回上手く鰻を獲ってこれるわけではない。川に筒を沈めれば捕まるだろうけど、残念ながら古くなった雨どいもなければ竹もない。大人しく網で漁をする事にする。
麻を探してきて網を作り、浅瀬に定置網を仕掛ける。Vの字に仕掛けて両端に返しを作れば、魚の習性から一度入ると出られなくなる。
仕掛けた後は放置して引き上げるだけでいいお手軽漁法だ。最初の集落での実績もある。
が、定置網を仕掛けて一晩経って見に行くと、網にアシカが絡まって滅茶苦茶になっていた。そうだね、海には川と違って君達がいたね。こんにゃろう。
魚の代わりに食べてやる、と石器を手にアシカに飛びかかるも、相手は巨体で、海の中。猛烈に暴れて弾き飛ばされ、不安定な体勢で突き出した石器は皮で滑って刺さらない。タマモに加勢を頼んだら水に濡れるのを嫌がって拒否され、逃げられてしまった。
網はボロボロに破られ、魚にもアシカにも逃げられ、得たものは疲労だけ。骨折り損のくたびれ儲けだ。
アシカに壊されないほどしっかりとした仕掛けを作るには材料も知識も経験も足りない。網を壊したアシカがそのまま網に絡まるとは限らないから、定置網をアシカ漁目的で設置するのは苦しい。かといってアシカ用のトラップなんて知らないし思いつかない。
タマモの報告によれば、この付近の砂浜一帯は全域がアシカの生息地になっているため、アシカが来ない場所に定置網を仕掛ける、という作戦も不可。
よろしい、ならば戦争だ。動物を狩るのには若干の心理的拒否感があったが、必要なら容赦はしない。
海中での勝負は分が悪い。陸に上がっている間に狩猟してくれるわ。
石器では攻撃力が低いようなので、柄を取り付けて槍を作る。タマモには人間の手足を引き裂くぐらいのスペックはあるが、アシカの皮膚は人間よりも分厚いし、何よりも群れている。タマモ単独で突っ込ませて袋叩きにされたら目も当てられないので、連携して狩りをする事にした。
槍と網を持って砂浜に伏せ、砂を体にかけて、さらによく洗ってゴミやら得体のしれない生き物やらを丁寧に落とした海草を被る。天気は快晴。湿った海草がギラギラと照り付ける直射日光を和らげてくれた。
しばらく待っていると、狩りに出かけていたアシカがぞろぞろと上陸してきた。前脚を動かしてのしのしと砂浜に上がり、思い思いの場所に寝転がる。
と、そこに私と同じく海草に包まって隠れていタマモが飛び出した。牙を剥き出し、盛んに吠えて追い立てる。泡を食ったアシカは飛び起き、何かあったらとりあえず海! といった風に一斉に逃げ始める。
ざっしざっしと巨体を揺らして半分跳びはねるようにして逃げるアシカ。しかし四足で俊敏に駆けるタマモの方が段違いに速い。作戦通り狩り易そうな小さな子供のアシカがタマモに追われて砂浜に孤立した。大人のアシカ達はよほどテンパッたらしく、子供を護衛しようとする様子はない。今まで砂浜で陸の獣に襲われた経験が無かったのかも知れない。
大人のアシカが助けに来ない事を確かめ、私はギリースーツを脱ぎ捨ててビーチフラッグよろしく走り出した。追い回されて動きが鈍っている子供アシカに網を投げつける。子供アシカは上手く網にかかり、弱々しく暴れた。
そこに、狙いを、つ、け、て、
「そぉい!」
大きく振りかぶり、全身の体重を乗せてアシカの腹に槍を突き刺す。肉を貫く生々しい感触と共に鮮血が噴き出した。念のために引き抜いてもう一度刺そうと引っ張るも、痛みに暴れるアシカに振りはらわれる。致命傷……かどうかは分からないけど確実に重傷は負わせた。わざわざ手負いの獣に近寄って反撃を貰う事もない。
逃げられる事だけに注意してタマモと一緒に距離をとって見張っていると、数分でぐったりと動かなくなった。
「タマモ?」
「くぉん。たぶん、もううごかない」
タマモがスンスンと空気の臭いをかぎ、微妙なお墨付きを出す。死んだふり、という事はなさそうだった。
用心して流木を投げつけてみても反応はない。死んだか、死んでいないとしてももう動けないようだ。
……生まれて初めて大型の哺乳類を殺したのに、案外何も感じない。今まで散々殺されたり重傷を負わせたりしてきたし今更かなー。この程度で動揺するヤワな精神力で縄文時代は生きていけない。
最初の集落でカワウソや鹿、イノシシの解体は何度か見た事があるので、大雑把な手順は分かる。
まず近寄って槍の石突でアシカの頭を強めに小突き、最終確認。よし、反応無し。死んでる。
一度仮屋に戻って槍を置き、石包丁を持ってきて、腹を掻っ捌いて内臓を引きずり出す。どことなく脂っこい濃密な血の臭いが赤黒い血と一緒に噴き出した。うえっぷ。血の臭いは何度も嗅いだ事あるけど、今回のコレは獣臭さと磯臭さが混ざって嫌な感じになっている。
臭いを嗅がないように口で息をしながら首に刃を入れ、引き千切るようにして切り落とす。切断面は荒く、素人目にもド下手なのが良くわかる。血で滑るわ石包丁の切れ味が悪いわ筋が固いわ疲れるわ。集落で見た解体はもっと簡単そうだったんだけどなぁ……これが熟練度の差か。
タマモに解体を手伝わせると爪と牙でもっとズタボロになってしまうので、新鮮な内臓を与えて大人しくしていて貰う。タマモはしばらくご機嫌で内臓を貪っていたが、途中で肝臓らしきものを咥えてとっとこ近づいてきた。
「あまてらす、あまてらす」
「ん? お腹いっぱいになったらお昼寝していいよ」
「んーん、ちがう。ないぞう、ぐつぐつする。ひ、だして」
「え、煮るの?」
「にる。しろいこな、かける。おいしい」
「いいけど白い粉じゃなくて塩ね、塩。白い粉だと別の意味になっちゃうから。言ってごらん、塩」
「しお」
「よし、上手」
一端解体を中断し、水入りの宝器を簡易竈にセットして火種を入れてあげると、タマモは前脚と口を使って器用に枝を竈に入れたり灰を掻きまわしたりして火の面倒を見始めた。
この圧倒的知能……! 自分で火を熾せない所を差し引いてもほとんど人間に等しい。三本の尻尾をわさわさ揺らしてソワソワ煮立つのを待っているタマモを見ていると、私がもう十万年ぐらい過去に来ていたら人類ではなく狐類が地上の覇者になっていた可能性もあるのではと思えてくる。二尾で知能が上がり、三尾で身体能力が上がって喋りだし……四尾になると二本足で歩き出すかも知れない。いや、進化の過程的には二足歩行→言語習得なのか。なら二足歩行より先に喋り出したタマモはどこに向かっているんだろう。
と、あまりタマモを見てばかりもいられないので、解体に戻る。
アシカの頭は使い道が思いつかなかったので砂浜近くの森に埋める。それから内臓を抜きだしたアシカを波打ち際まで引きずっていき、ヒレを切り落としながら血を洗い流した。海は赤黒く染まったが、すぐに薄れて分からなくなった。血の臭いに誘われて鮫か何かが寄って来ると怖いのでさっさと砂浜に撤退し、麻紐でアシカの足を縛って流木に吊るす。血がぽたぽたと垂れて砂に染みをつくった。
血抜きをしている間に砂浜についた血の跡を消す。特に殺害地点は赤黒く染まり、血なまぐさい。とりあえず血の跡には砂を被せて誤魔化しておく。鼻の効く動物を誤魔化せるとは思えないが、やらないよりはマシだろう。
血抜きが終わったら流木から降ろして破れ目を作らないように慎重に皮を剥ぎ、皮の内側の肉を削ぎ落とす。とりあえずざっと削いだら肉の処理に移る。
血の気滴る新鮮な肉を手のひらサイズに厚く切り分けていると、物欲しそうにタマモが見ているのに気が付いた。
「食べる?」
「おなかいっぱい……」
タマモは心底無念そうにうなだれた。
解体は思っていたよりもずっと重労働だった。真夏の日差しの下で肉を切り分けていたら汗が異様なぐらいだらだら流れて命の危険を感じたので、屋内に避難してそこで解体を続行。臭いがつくと嫌だから外でやりたかったんだけどまあ仕方ない。
切り分けた肉は容器に一枚一枚塩をまぶしながら入れていく。塩の分量が分からないのでちょっと多めに。保存容器は深鍋、壺、深皿の三種一セットの宝器と、土器二つ。土器には塩と真水を入れてあって、深鍋宝器が煮炊き用、深皿宝器はフライパン兼取り皿。壺に塩漬け肉を入れるが、あまり大きな壺ではないので全ての肉の内三分の一しか入れる事ができなかった。
余った肉の半分は手頃な細長い流木にささくれを作り、そこに鈴なりに引っ掛けていき外にぶら下げておく。潮風と太陽光で上手い事干し肉になってくれる事を祈る。鳥が来て盗られても困るので、タマモに見張りを命じておいた。
残った肉は特に加工せずそのまま食べる。肉を放置すると、酵素の働きによってタンパク質が分解されアミノ酸に変わり、旨みと柔らかさが増す。これが肉は腐りかけが旨いという言葉の所以だ。夏場なら丸一日置いておけばちょうどよくなる、と思う。三日だと危ない。タンパク質の分解と同時に雑菌も繁殖するから、あまり置きすぎると本当に腐ってしまう。
未加工の肉は今日の夕食から明後日の夕食まで肉尽くしでちょうど食べきれる。新鮮な肉はここ最近ご無沙汰だったから楽しみだ。
アシカの肉を全て処理すると、もう日が落ちてきていた。少し早いけど夕食にする事にする。
疲れた腕をもみほぐしながら平らな石に肉を乗せて焼くと、油がどんどん染み出してきた。石を伝い、滴り落ちて火勢が増す。なんだか勿体なかったので深鍋宝器に貯めておいた。
油の出が止まってきて火が通った所を箸で取り、吹いて冷まし、期待を込めて口に入れる。さて味の方は……
「……んぐ?」
寒天とゴムを足して二で割ったような不愉快な食感だった。味も淡白すぎて全くわからず、その割に獣臭さとなんとも言えないエグみがしつこく残っていて旨みもなにも無い。はっきりいってクソ不味い。
もしかして食べる部位が悪かった?
塩漬け肉を一枚出して、塩を落としてから焼く。ちょうどよく火の通った肉を食べても、やっぱり不味かった。
まだ子供のアシカだから、老いて肉が固くなっていたという可能性はない。病気にかかった様子もなかった。熟成が不十分とか、肉が固いとか、そういう問題じゃない。
結論。アシカの肉は食用に適さないらしい。
そ、そんな、あんまりだよこれは。ほとんど一日潰して無駄骨?
軽く泣きそうになりながらタマモを見ると、また小腹を空かせたようで冷ました肉をガツガツ食べていた。
おお。良かった、タマモさんなら美味しく食べられるんですねやったー!
「ペッ! まずい」
と思ったら吐き出した。
やっぱり不味いんじゃないですかやだー!
タマモがふて腐れた様子で土器の水に口を突っ込んで口直しをし、家の隅の方で丸くなる。ありゃもう明日まで機嫌直らないかな。随分ガッカリしたらしい。私もだよちくしょーめ。
しかし前向きに考えれば防水性の高そうなアシカ皮が手に入ったし、油は大量にとれそうなので、無駄にはならなかったのは幸いだった。
油の使い道は明かりとか燃料とか揚げ物とか。動物性油で揚げ物か……いや、贅沢は言えない。ああそうだ、石鹸もあった。確か油と強アルカリを混ぜて、って強アルカリの調達無理だ。弱アルカリなら灰汁があるんだけど。身近な物で作れる強アルカリの製法なんて知らない。
油の用法を考えながら肉を片っ端から焼いていき、油をとる。蒸発した油のせいか肌がべたべたした。あんまり健康に良くなさそう。
集めておいた薪をほとんど消費し、引き換えに肉を全て焼いて油をとり終わった。深鍋宝器が油でいっぱいになる。これだけあればちょっと贅沢に使えそうだ。ただ今日の風呂を沸かす分の燃料まで使ってしまったのは迂闊だった。
薄目を開けてチラチラ溜まっていく油を見ていたタマモに今度は舐めてしまわないように厳重に言い含め、深鍋宝器にテキトーに蓋をして隅の方に置いておく。この時点でももうあたりは真っ暗だった。海の方を見ると星明りが海面に反射してキラキラ光っている。ちょっとロマンチック、と思った瞬間に海面からアシカらしき影が顔を出して一気に興ざめした。
散々疲れた一日だったが、寝る前に獣臭いアシカの皮の内側に唾液を塗りつけておいた。鞣すためだ。
皮を鞣す時は灰だったか石灰だったか、何かに漬けて処理をするのは覚えてるけど、具体的に何だったか覚えていない。原理的には「腐敗の原因になるタンパク質を取り除く」のが皮鞣しの目的だから、タンパク質分解酵素を含む唾液でも代用は効くはず。胃液の方が強力な気もするけど、流石にわざわざこのためだけに胃液を吐く気にはなれない。それにそもそもどうやって吐くんだっていうね。
油の使い道を考えたり、住居をマトモなものに建て替えたり、足りない容器を作って補充するために粘土の探索をしたり。まだまだ予定は山積みで、生活は安定しているとは言えない。今回無駄に使ってしまった塩の補充もある。
大量の仕事は煩わしくもあり、嬉しくもあった。退屈は病のようなものだから。




