二話 緊急クエスト:生き延びろ
初期位置には万が一救援が来た場合に備え、落ち葉が積もった地面に木から折り取った枝を一本突き刺し、その一本を中心の軸にして三角錐をつくるように枝を五本刺しておく。こんな造形が自然にできる事はあり得ないし、十歩ほど下がって見てもかなり目立つのが確認できた。これでとりあえず大丈夫。
私は十歩歩く毎に地面に近くの木から折り取った枝を突き刺しながら森の中を移動する。頭上を見上げると太陽の位置が心なしか低くなっていた。木の影の端に指先を当てて数分待ってみると、影が指先に浸食し、影が伸びているのが分かる。目覚めた時点では昼だったらしい。夜になったら迂闊に動けないから、タイムリミットは日没後、太陽の光がなくなるまでか。それほど時間的余裕はない。体力的余裕も。
森の中を歩いていると乾燥して硬くなった枯葉やささくれた木の枝が足の裏を擦ったり引っかいたりしてチクチクする。最初の五十歩ほどは屋外で全裸という珍しい体験でびくびくしたり、乱雑に歩いて足を怪我するのが怖くてそ~っと歩いたりしていたものの、すぐに開き直って堂々とサクサク歩くようにした。
どうせ誰も見ていないし、もし誰かに見られたら恥も外聞もかなぐり捨てて助けを求める。ちょっとぐらい足を怪我しても水の探索ペースが上がる方が良い。
歩きながら目視で日の光を反射した水のきらめきの欠片でもないかと血眼になって探す他、木の枝を五本刺す毎に立ち止まり、水音が聞こえはしないかと耳を澄ます。しかし何度立ち止まっても木々のざわめきと時折それに混ざる鳥の鳴き声しか聞こえない。
木に登って確かめた限りでは、森に川は無かった。あるとすれば沢、池、水たまり。落ち葉が積もってできた腐葉土は水をよく吸うから水たまりはできないが、倒木のウロや割れ目なら雨水が溜まる可能性は高い。生水飲むと腹を壊すなんて言ってる場合じゃない。欲しい、たった一滴。
初期地点から百本枝を刺した場所で耳を澄ませても、水音一つ聞こえず。ここまで湿った倒木はあっても水は溜まっていなかった。
上を見上げる。まだ日は高い。空腹はあるけど十分動ける。まだ焦る時間じゃない。
暗い未来を考えないようにしながら枝を辿って初期地点までもどる。探索中に何か初期地点に変化があったかもという一縷の望みは出発時と変わらない枝の三角錐に打ち砕かれた。
べ、べつに一縷の望みといっても十、いや五……二パーセントぐらいだったし。大丈夫、私は落ち込んでない。
何も情報が無い状態で、唯一何か特別な意味がある可能性を持つ初期地点から離れるのは得策ではない。私は初期地点から、最初と逆方向に探索を始めた。
枝を折って刺して折って刺して。耳を澄ませ、落胆し。強めの風が起こした木々のざわめきの中に水音を聞いた気がしてそちらに十数歩歩いてもう一度耳を澄ませ、願望からくる空耳だったと分かってまた落胆し。
初期地点を起点に八方向各百本枝を刺しても私は一滴の水の飲めていなかった。樹冠で日光が遮られ地上に届く光は弱く、草は生えていないし、キノコもなく、ゼンマイかワラビかよく分からないくるくるした植物はあったものの、ゼンマイでもワラビでも生では食べられないので意味がない。水無し、食料なし。
喉の渇き、空腹、赤く染まりだした空の絶望感。
もしかしたら、という裏切られると分かっている期待を捨てきれずに初期地点まで戻り、私は膝を折った。やっぱり変化は何も無い。
今から探索範囲を広げようとすると、足元が見えなくなる前に初期地点に戻れるか分からない。今日の探索は終了にして寝てしまう事にする。
夜の間に初期地点に救援が来る可能性も、無いだろうけど、無いだろうけど! もしかしたら! 億に一つぐらいは! あるかも、知れないし……
探索ができない夜間は寝る事で体力消費を抑える。私は寒さ対策に落ち葉を集め、その中に潜り込んだ。髪に葉が絡まって肌を葉がちくちくさして、寝心地劣悪。喉の渇きも消えず、すきっ腹で空しさばかりが広がる。
昨日はふかふかのベッドの中で寝ていたのに。なんで私がこんな目に。
思わず泣きそうになったが、泣いたら水分消費が早まる。心理的理由ではなく物理的理由で泣くのをぐっと堪え、努めて何も考えないようにして眠った。何か考えれば泣いてしまいそうだったから。
翌朝、目覚めて最初に思った事は「喉が渇いた」だった。
ぼんやりしながら冷蔵庫に常備しているお茶でも飲もうと身を半分起こし、ガサガサと体から滑り落ちる落ち葉の感触と音で今の状況を一気に思い出す。
「っあああああああ!」
何か無性にやるせなくなって叫びながら飛び起き、地面に心の底から湧き上がる何かを乗せた拳を叩きつけた。衝撃で落ち葉が舞う。
夢じゃなかった。夢であって欲しかった。涙が一筋頬を伝うのは止められなかった。起床からの地面攻撃で体力を使い果たしたかのように体から力が抜けていく。
ああ。
ああ!
あああああああああああああああああああああああああああああああああ!
もう嫌だ。何も動きたくない考えたくない。全てから逃げ出したい。この飢えから渇きからも、例えようも無い孤独感からも全て解放してくれるなら、一生その人の奴隷になってもいい。
しばらく地面に突っ伏して、ありったけの気合いと根性で手足に力を入れてのろのろと立ち上がり、森の奥へ伸びる地面に刺さった枝の道をふらりふらりと辿りだす。
分かってる。誰も助けてくれない。とにかく動かないと。
枝を辿る機械になったように、黙々と、力なく、道標を目印にふらふら歩く。終点まで歩いたら、手頃な木の枝にだらりと手をかけ、体重を乗せて半分倒れこむ様に折り取る。そして十歩歩いて、地面に刺した。
ひたすらその繰り返し。一回枝を折るたびに、一歩歩くたびに、確実に私の中から何かが抜けていく。
休みたいが、一度休んだら二度と立ち上がれない事ははっきりと分かった。もう体力でも気力でも魂でもなんでもいいからとにかく絞り出して、歩いて歩いて歩き続けて、限界が来る前に水が見つかる事を祈るしかない。
やがて意識が霞がかかったようにおぼろげになってきた。あまりの空腹で脳に栄養が回らず、頭が働いていない。何故水を探しているのかもあやふやになる。
生きるために水を探す。でも何故生きる? 生きたいから? 死にたくないから? もうよくわからない。ただ楽になりたい。楽になりたければ水を探さないといけない。でもなんで水飲むと楽になるんだったかな……
もう何度木の枝を刺したかも分からない。枝を一本折るために三十秒、枝を刺すのに一分、十歩歩くのに二分はかかるようになっていた。
我ながらここまでよくもったと思う。私は頑張った。これまでの人生でこんなに頑張った事はない。でも、とうとう限界が来た。
枝に手をかけ、折る時にクラッと意識が薄れ、手が滑って膝が折れた。そのままバランスをとる事もできず地面に倒れこんでしまう。落ち葉の地面は思いの他優しく倒れる体を受け止めてくれた。お前はよくやったよ、と労ってくれているようだった。
ああ止まってしまった。もうダメだ。動けない。
情けない事に、絶望や空しさよりも「もう動かなくていい」という安心感の方が勝っていた。
ハッ、動かないと死ぬのにね。馬鹿な感情だ。緩慢な死の気配から逃げる事よりも目先の安心感を優先するなんて。
本当に……わたしは……すくいようがない――――
目が覚めた。口はカラカラに渇いて、喉に綿が張り付いているようだった。
うつ伏せに倒れ、横を向いた頭に九十度曲がった森の景色が映る。私は十秒ほどかけて自分がまだ生きている事に気付いた。
生の喜びは欠片も沸いてこなかった。あのまま死なせてくれればよかったのに。もう涙も出ない。
いっそ舌を噛んで死のうか。いや、舌を噛む力もない。
私はぼんやりと森を眺めながら静かに死を待った。
すると視界の端、木の陰から一匹の子狐がひょっこり顔を出しているのを見つけた。
狐。狐かあ。狐だなあ。
何かを考察するほどの気力すら失われ、そんな幼稚園児以下の感想しか出てこない。
じっと私を見ていた子狐は首を傾げ、てってこと私に近寄ってきた。ふんふんと私の体に鼻を押し当てている感触がする。
私の全身の匂いを嗅ぎ終った子狐は私の顔を覗き込み、前脚の肉球でたしたしと頭を叩いてきた。反応は返せない。ぼんやりと目だけ動かして子狐を見る。
顔を覗き込む子狐の獣臭を嗅いだ私は、唐突に喰われるんだ、と悟った。
キツネは雑食で、動物の肉も食べる。無力に倒れ伏す死ぬ寸前の人間の肉は、さぞかし新鮮で喰いでがある事だろう。
子狐が牙を剥き出す。首に生暖かい尖ったものが当たる。
いっそ一気にやってくれと祈った瞬間、首に激痛が走った。肺が引き攣り全身がびくんと痙攣したが、呻き声すら出なかった。
首のあたりから燃えるような灼熱を感じる。弱弱しい心臓の鼓動に合わせて血が噴き出ているのが分かった。
痛い。苦しい。口の中にこみ上げた塩っぽい血の味、ぐらぐら揺れる視界。もう何もかもどうでもいい。
口を真っ赤に染めて私の肉を咀嚼するキツネを見ながら、私の意識はゆっくり遠のいていった。
一歩45cmで計算。歩幅=身長×0.37、らしい




