十六話 洪水のあと
「生きてる……」
一度河まで流された後、流れの緩やかな流域に出た僅かな時間に死にもの狂いで流木と岩の間を荷物とタマモを抱えて飛び移り、なんとか岩の上にたどり着いた。全ての力を使い果たした私はぐったりと倒れ込む。流されている途中にあちこち打ったせいで全身が痣だらけだった。右肩と腰のあたりの鋭い痛みは骨折かヒビかも知れない。
あんな曲芸じみた奇跡的脱出劇をもう一度やれと言われても無理だ。次は絶対に足を踏み外して河に落ちる。疲労や寒さだけではない、極度の緊張からの解放で手足がガタガタ震えるのを押さえられなかった。タマモはぶるぶるっと体を震わせて水を撥ね飛ばし、尻尾を丸めて怯えた鳴き声を上げながら私のお腹に身を寄せた。
目元から熱い涙が零れる。怖かった。本当に怖かった。あんな大魔王にひのきのぼうとおなべのふたで挑むような真似は二度とやりたくない。
のろのろと宝珠を取り出し、患部に当てながら改めて周りの様子を観察する。
雨は小雨になっていて、風も弱まっている。薄目でも周囲の様子はそこそこ分かった。
どうやらかなり下流の方へ流されてきたようで、荒ぶっている河の両岸に続く森の植生がちょっと違うのが見て取れる。今私達がいる場所は平らな灰褐色の大岩の上で、水面よりも一メートルほど高くなっている。寝転がれる程度のスペースもあった。
もう体力の一滴まで使い果たし、もう眠ってしまいたかったが、このまま寝たら十中八九そのまま衰弱死する。
しかし死んでもいいから寝たい。今寝れば苦しまずに死ねる。苦しくないなら死んでもいい。雪山の遭難で「寝るな! 寝たら死ぬぞ!」「もう眠らせてくれ、凄く眠いんだ」というやり取りは定番だが、死んでもいいから寝たいという気持ちが身をもって分かった。私の場合は死んでも生き返るからなおさら睡魔に抵抗する気は失せる。
睡眠欲が限界突破して最早考えるのも面倒だ。私は目を閉じ、ネズミの姿をした睡魔と握手して一緒に夢の国に旅立った。
どれぐらい時間が経ったか分からないが、私は目を覚ました。空を見ると日が傾いていて雨雲の間に晴れ間が見えたので、寝ていたのは二、三時間だと思う。
足元を見ると灰まみれの蓑と麻服を尻に敷いていた。やっぱり死んだらしい。いつ死んだかもよくわからない静かな死に方だった。
毎回これぐらい穏やかで安らかな死に方ならいいのに……いや、その代わりにいっそ舌でも噛んで自殺しようかと思うほど体力とか気力とか勇気とかを振り絞ったのか。やっぱり死なないのが一番いい。
足を横に崩して座り込み、私の蘇生を見たのかびっくりして目を瞬かせているタマモを抱き上げ、灰を払ってから膝に乗せる。リザレクションしたおかげで疲労も負傷も全てリセットされ、快調そのもの。すっきりした頭で冷静に周囲を観察する。
台風は完全に通り過ぎたらしく、数時間前の暴風が嘘のように凪いでいる。ただし河はまだまだ荒れ狂っていた。轟音で耳が痛い。
私達がいる大岩から陸地側へ点々と小岩が続いていて、小岩の間に流木が大量にひっかかり、水の流れをせき止めてダムのようになっている。流木を足場にすればもっと安全な陸地側へ移動できそうだ。
続いて足元の灰。今までは着ていたものも一緒になっていたのに、今度は蓑も麻服も燃えずに残った。ちゃんとした加工品だからだろうか。そもそも蘇生する時に本当に物理的な火を出して燃えているなら、最初に死んだ時に森林火災が発生しているはずで。自分の体だけ燃やす不思議な炎のような何かが出ている、と考えた方が良さそうだ。あるいは太陽の光を浴びた吸血鬼のようにサラサラと灰になるのか。真相がどうであれ考えるだけ無駄っぽい。どう考えても物理現象じゃないから予測できない。
棚ボタと思う事にして、麻服をよく絞ってから着る。蓑は絞るのも短期間で乾かすのも難しく、雨が止んでいるなら着る必要もないので、河に投げ込んで捨てた。そのへんのもので一時間もあれば作れるものを後生大事に持ち運ぶ意味はない。
灰は岩にぶつかった濁流からはねる水しぶきを浴びてほどよく湿っていた。また丸めて宝珠にしようかとも思ったが、ふと思いついて一つにまとめず小さな珠複数個にした。ビー玉ぐらいの小さな珠を八つ。それより二回り大きな珠を二つ。
次に宝器の中にしまっておいた石器を出し、自分の髪を六本切る。三本ずつ三つ編みにして太さと強度を上げていると、タマモが勝手に宝器の中に首を突っ込んで燻製魚を引っ張り出した。そういえばタマモは朝からずっと何も食べていない。
「あ、ちょっと待っタマモ」
「う"ー!」
「いや食べていいよ。いいけど食べる前にちょっと貸して。すぐ返すから」
「……くぁん」
タマモは少し迷ったが燻製魚を差し出してくれた。私は受け取った魚から小骨を一本探して抜き出し、返す。
膝に一心不乱に魚を貪るタマモを乗せながら髪を三つ編みにして、編み終わったら小骨を針代わりに使って珠に穴を開けていく。
最後に髪の紐に珠を通して繋げば完成。
――・・●・・――
こんな感じのネックレスが二組できた。
宝珠にすると持ち運びに不便だから、首にかけておけるようにしたのだ。普段は首にかけておいて、必要に応じて外して患部に当てればいい。服の下に入れておけば隠すのも簡単でいいとこ尽くめ。
名付けて宝飾。
一つは自分の首にかけ、もう一つは紐の長さを調節してタマモの首にかけてあげた。タマモは後脚で首を掻いてイヤイヤしたが、それをつけてるとケガがすぐ治るよ、と言って聞かせると渋々納得して掻くのをやめた。こういう時は特に日本語が通じるのは本当に助かるなと思う。あとはタマモも喋れればいう事ないんだけどそこまで上手くはいかない。
行動する前に腹ごしらえしておこうと、宝器から自然薯を出して齧る。タマモが物欲しそうにしていたので少し分けた。
死なないために避難したのに、結局死んだ。余計な苦労をした。やっぱり集落にいた方が良かったかも知れない。しかし集落にいても、どの道流されて鉄砲水に巻き込まれた気がする。
はぐれた縄文人達は無事だろうかと少し心配になる。無事に山にたどり着いていればいいが、二次遭難が怖いので探しには行く気はしない。そもそも現在進行形で自分が遭難している。帰り道なんて分からないし、河を上流に遡って行っても、集落は水没しているか流されて消えているだろう。戻る意味がない。
彼らとは仲良くはなっていたが、自分の身を危険に晒してまで救助に奔走するほどの絆は感じない。幸運を祈っておく。宝器は一セット贈ったままだから、それを上手い事使えば洪水の後の苦難も凌げるだろう。
これからの方針としては、まず河から離れる。これは鉄板だ。もう一度鉄砲水が来たり不意の突風で足を滑らせて落ちたりしたら、海まで流されて海流に乗って漂流とか、土砂に埋まって海底に沈んで脱出できなくなるとか、そういう危険がある。
河から離れたら簡易住居を作り、生活基盤を築きながら周囲の捜索。元いた集落の住民と合流できたらそれが一番いいが、別の集落が見つかればそこで新しく交流を始めてもいい。いっそ下流まで行って塩作りに手を出してもいいかも知れない。塩づくりの基本は新聞のコラムで読んだ事がある。
自然薯を腹に収めた私は、荷物を体に縛り付け、首にタマモを掴まらせてそろそろと移動を開始した。ごちゃごちゃと絡まった流木の上をトカゲのように四つん這いになり、亀のようにゆっくりと移動する。水しぶきで全身にかかってあっという間にびしょ濡れになった。タマモが怖がってがっちり首を掴むので爪が食い込んで痛い。
比較的足場のしっかりしている流木を選んで慎重に移動し、無事に陸地についた。タマモを下ろし、首をさする。強風で倒れた倒木に背を預けて休むと、三十分ほどで傷はふさがった。宝飾も宝珠と同じ治癒効果があるらしい。よかった、小さく加工したせいで治癒効果がないゴミになりました、ではやるせない。
河から脱出したとはいえまだまだ鉄砲水や急な増水に巻き込まれる危険性は高かったので、休憩後、河から離れて山の方に歩き出す。下流にはまだ行かない。下流域だと複数の川が合流してますます川幅も水量も増えている。今行くのは危険。高台に逃げて、河が穏やかになるまで待つ。
台風の後の森は無茶苦茶で、みずたまりや小さな川のような流れがそこかしこにできていた。広範囲にわたって腐葉土が流されて赤茶けた土が剥き出しになっていたり、その土さえも洗い流されて木の根が剥き出しになっていたりする。水の流れが淀んだ場所には未熟な木の実やしなびた花や葉っぱがどっさり溜まっていて、小鳥達が水際で青い木の実をつついていた。
普段は日光を遮る樹冠も枝葉が折れて吹き飛んだためかなり穴だらけになっていて、そろそろ日も暮れるというのにしっかりと光が地上まで届いている。とはいえ夜になれば暗くなるので、早々に野宿の場所を決めないといけない。体をねじ込める大きなウロがあればよし。無ければ手頃な倒木に身を寄せて寝るしかない。
うろうろと野宿先を探してうろついていると、視界の端で動くものがあった。見れば木立の陰に槍の穂先で地面を掘り返している男がいた。私に背を向けていて、こちらには気付いていないようだ。
一瞬まさかの当日合流か、と喜びかけたが、よくよく見るとなんだか違う。後姿が見慣れなかったし、麻服には私が居た集落の住人達と違ってラーメンのどんぶりの模様に似た模様がつけられている。腰に巻かれている毛皮も見覚えがない。
別の集落の住民のようだ。
ふむ。まさかこんなに早く別の集落の人に会うとは思わなかった。縄文時代は意外と人口密度が高かったのだろうか?
……いや、単にこの河沿いに集落が多いだけだろう。洪水さえ考えなければ河沿いは住みやすい。世界三大文明も大河に沿って発達したのだから、河沿いに集落が集まるのも道理だ。
少しばかり考え、接触してみる事にする。彼らの集落が無事なら、泊めてもらえるかも知れない。いくらか食料を分けてもいいし、なんなら宝器を一つか二つ譲ってもいい。彼らの集落も今回の洪水で失われたのなら残念だが、それでも一人で野宿するよりは一緒にいさせてもらった方がいい。夜の間に野性の獣に襲われないとも限らない。
私はまだ地面を掘り返している男に近づき、注意をひくためにすみません、と声をかけた。男が振り返る。そして、
「うぁあああああああああああ!」
「あああああああ!?」
いきなり絶叫された。私も釣られて絶叫した。予想外の反応に心臓が跳ね上がる。驚きすぎて腰が抜け、私は尻餅をついた。
男は顔を引き攣らせ、槍を構えて後ずさる。
「ばっ、ばっ、化けものだぁあああああ!」
「うぇ!?」
後ろを振り返る。誰もいない……いや、タマモが私の背中に隠れていた。
え、タマモが化け物? いやいや。彼の位置から私の背後のタマモは見えない。じゃあ私が化け物? 確かにヒトではないけど。
「いやいや私は化け物じゃ」
「あああああああああっ、うううううう、動くなっ! 動くなあっ!」
弁解しようとすると槍を目の前に突き付けてきた。
「ひっ! おおおおおおお落ちっ、落ちつぁ、おち、落ち着いて」
「しゃ、喋るなっ!」
動いても喋ってもいけないらしいので両手を挙げてホールドアップしたまま固まる。まずはその槍を下ろそう、ね? いい子だから。話せば分かる。
私は今にも刺されそうで怖かったが、彼も怖がっているらしい。槍の穂先が震えていた。震えるたびに切っ先が私の鼻をかすめるので気が気じゃない。
なぜこんなに怖がられているんだろう。後ろから声をかけたから驚いた? いや、声をかけてから振り向くまでは普通だった。おかしくなったのは私の姿を見られてからだ。
白髪と翠の目のせいで化け物に見えたのだろうか。分からなくもないが、集落とのファーストコンタクトではここまで怖がられなかった。色違いでも見た目は人間だ。角はないし、牙も翼もない。パーツは人間と同じ。でも怖がられている。
集落との接触と今回で違うところといえば、フキ服ではなく麻服なのと、一対多ではなく一対一なのと、森の中での遭遇なのと、全身が河で水しぶきを浴びたままびしょびしょなのと……あっ。
目だけ動かして自分の体を見る。泥水で汚れた私の長い白髪は、葉っぱや細かなゴミを巻き込んでぐしゃぐしゃに服に絡まっていた。前髪もだらんと垂れて目元が半分隠れている。
これじゃ見た目妖怪じゃないですかヤダー! 今の自分の姿が客観的にどう見えるか完全に失念していた。この有様では深きものどもの一種だと思われても仕方ない。
極度の緊張からか荒い息を吐いていた縄文人は、きゅいんきゅいんというか細い鳴き声を聞いて眉根を寄せた。私の背後でタマモが怯えている声だ。
縄文人は槍を私に突き付けたままゆっくりと側面に回り、私の背後を見ようとする。
既に友好的に接触しようという気は失せていた。化け物であると思われた、という最悪の第一印象から挽回する交渉術は持っていないし、さっきから槍を突き付けられているのが怖くて仕方ない。
だから、縄文人が私の後ろにいるタマモを見て、なんだただの子狐が、とホッとして気を緩めた隙を見計らい、私は逃げ出そうとした。逃げきれるかは分からなかったが、じっとしていて事態が好転するとも思えなかった。
「おふっ!?」
しかし足に力が入らず、数歩で転んで頭から泥に突っ込んだ。不覚! 焦りすぎて腰が抜けているのを忘れていた。泥から頭を抜いて慌てて振り返ると、男が怒って槍を振り上げるところだった。
と、そこにタマモが飛び込んできて私のお腹の上に乗り、牙をむき出して男を威嚇した。胸に熱いものがこみ上げる。ありがとう、タマモ。嬉しいよ。でも今はダメだ。お前が立ちはだかっても意味はない。
「タマモ、逃げろっ!」
私はタマモを掴んで後ろに放り投げ、男が振り下ろした槍を避けそこね、脳天を貫かれた。




