幕あいの章Ⅱ 寒風の追憶④
歩きながら風にゆれる寒々しい枝を見つめ、シュクリールは深いため息をつく。
何故あそこで計画を進めさせたのだろうと、未だに思い煩う。
(あの時の私はまるで、魔に魅入られたようだった……)
そう思うと、黒髪に菫色の瞳の、冴えた美貌の若者の姿が見えてくる。
白でそろえた上下に貴色である濃い紫の高襟の上着という、成人した王族としての慶事の装い。左手中指にはめられた黄金の指輪。
成人の儀を終え、披露目の昼食会でシュクリールと挨拶したアイオール殿下……現レライアーノ公爵の、若き日の姿だ。
あの日以来、クレイールは憑き物が落ちたように大人しくなった。
カワティでの仕事のことを、ポツポツとシュクリールに訊いてくるようにもなり、シュクリールの方が驚いた。
「私だっていつまでも子供じゃないですからね」
目を伏せ、面映ゆそうに言って笑った、少し大人びたクレイールの顔が今でもありありと思い出される。
(クレイール……クレイール……)
シュクリールは軽く目を閉じ、永遠に若いままの息子の顔を思い浮かべる。
窓の外で風が一陣、強く吹いた。
卑しい蛮族の子のくせに、この国で最も高貴な存在である王族。
自分より年下なのに、自分よりずっと学問も音楽も馬術も出来る存在。
自慢の剣でさえ、最後の最後は彼に敵わなかった。
クレイールの中でアイオール殿下は、人間の姿をしたこの世の理不尽だったのかもしれないと、ずいぶん後になってシュクリールは思うようになった。
その人を汚すことでクレイールの中のしつこいわだかまりが消えたのは、彼がこの世の理不尽などではなく、理不尽に呑まれてあがく、自分と同じただの人間だと納得出来たからかもしれない。
正しいか正しくないかで言えば、正しくないに決まっている。
ただクレイールは、そこまでしないとこの結論にたどり着けなかったのだろうとは思う。
それを認める気はない。
あれは救いようのない大馬鹿だ。
だけど、シュクリールにとって可愛い息子だった。
スタニエール陛下にとってアイオール殿下が、可愛い息子であるように。
風の噂で、睡蓮宮のアイオール殿下が馬で散策中に落馬し、ひどい怪我をしたらしい、それ以来体調を崩しやすくなり、寝込むことが増えた様子だと聞いた。
申し訳なくて、アイオール殿下のそういう噂を耳にする度、シュクリールの鼓動は乱れ、胃がキリキリした。
この国では、成人前の王子や王女は原則表に出てこない。
そもそも、正妃がお産みになった優秀な兄君が二人もいる側室腹の王子など、普段から無視されているも同然だった。
だから有り難いことに、噂そのものはすぐ宮廷から立ち消えた。
王子とはいえ男だから、貞操を云々することもあるまい。
男ばかりがいる環境ではちょいちょい起こる出来事で、剣術や馬術の稽古で怪我をするようなものだと、シュクリールは比較的軽く考えていた。
外聞の悪い話だから表沙汰になることもあるまい、とも。
その読みは半分あたったが、半分外れた。
確かに表沙汰にはならなかった。
が、表沙汰にしなくても王には罰する手段がいくらでもある事を、平和に慣れていたシュクリールは失念していたらしい。
王の態度がいつごろから変わったのか、明確にはわからない。
秀麗な王の横顔はいつ見ても美しく完璧で、さながら神山ラクレイを思わせた。
スタニエール陛下は元々表情豊かな王ではなかったから、シュクリール以外に王の変化に気付いた者は多くなかろう。
神山に似た王の横顔がいつの間にか、シュクリールに対して雪に閉ざされた厳冬の冷ややかさであることに気付き、ひやりとした時にはもう王の態度は変わっていた。
注意深く観察しなければわからない程度の差だったが、王はシュクリールへ完全に心を閉ざし、信頼も親愛もかけらも持たなくなっていた。
アイオール殿下の身に起こったあらましの、ほぼすべてを王はすでにご存知なのだ、と、シュクリールは悟った。
だからと言って王は何も言わない。
王が何も言わない限り、シュクリールも何も言えない。
ただ時が過ぎ、お互い仕事は淡々とこなし続けた。
秋が深まり、鴨の禁猟が解けた。
例年通りクレイールは、王家の森の湖へ鴨猟へ出かけた。
今年でしばらく、湖での鴨猟はお預けになりますねと笑いながら。
そしてそれが、生きているクレイールを見た最後になった。
鴨猟へ出た先で野犬の群れに襲われ……クレイールは死んだ。
骨もむき出しになるほどあちこち食いちぎられ、美しかった顔もところどころ食われた無残な様で、クレイールは死んだ。
もうすぐ成人の儀を行いに神殿へ行く予定だった。
その為に用意された純白の慶事の礼服だけが、彼の部屋に残された。




