幕あいの章Ⅱ 寒風の追憶①
シュクリール・デュ・ラク・リュクサレイノ卿は今、秋宮の回廊を侍従を従えて歩いている。
侍従が捧げ持つ藤で編んだ籠には、リュクサレイノ領の中でも有名な葡萄酒の産地・サラの白葡萄酒があった。
フィスタでの戦闘が収まり、ラクレイド側があちらの指揮官らを捕虜として身柄を拘束した、という知らせが入ったのは朝だ。
戦は一段落ついたらしい。
ここしばらく夏宮で、昼夜なく緊張して過ごしてこられた執政の君に、一度ゆっくり休んでいただこうということになった。
それでもかの方は昼近くまで、当面の指示を出すなど忙しくしていらっしゃったが、軽い昼食の後は臣下の皆に勧められるまま、秋宮のご自身の部屋へとお戻りになられた。
ゆっくりと湯を浴びて疲れをほぐし、午睡を取っていただく予定だ。
「父上」
宰相を務める現リュクサレイノ侯爵・フレデリールが、夏宮にあるシュクリールの控室へ来たのは、昼食後しばらく経っての頃。
「屋敷に使いを出し、サラの白葡萄酒を持って来させました。夕刻にでも父上の方から、差し入れとして陛下に直接、持っていって下さいませんか?陛下はお若い頃からサラの白葡萄酒がお好きでしたから、お疲れを癒す為に少しは役立ちましょうし」
さすがに私は夏宮を離れる訳には参りませんのでと、フレデリールは苦笑いする。
侍従か誰かに託けてもかまわないだろうが、身内が直接持っていった方が執政の君もお喜びになるだろうという、彼なりの心遣いのようだ。
凡庸な上、少なからず問題を抱えている不肖の息子だが、こういう細やかな気配りは昔から出来る子だった。純粋に嬉しくなり、シュクリールは快諾した。
陛下が午睡から覚められたという知らせが来たので、シュクリールは面会の手続きを取る。手土産代わりに葡萄酒を持参することも伝え、役人に見せて許可も取る。
そして今、彼は秋宮の陛下の居間を目指し、回廊を歩いている。
中庭に面した明かり取りの窓の外には、時節柄、華やいだものはない。
夕闇の中で、葉を落としきった寒々しい広葉樹の枝と、夕闇に沈む黒ずんだ針葉樹の葉が少し、風にゆれているくらいである。
(……クレイール)
寒々しい風にゆれる夕闇の中の木立ちを見ていると、シュクリールには思い出してしまう出来事がある。
持って行き場のない怒りや苛立ち、それと同時に甦る激しい後悔。
忘れたくとも忘れられない、あの日のことを思い出すのだ。
シュクリールには、正妻であるライオラーナ元王女との間にカタリーナ、最も古くから世話をしていて、結局最後まで面倒を見た糟糠の妻的な愛人との間にフレデリールと二女、その時々に囲った愛人との間に数人、子がいる。
クレイールは、シュクリールが最後に愛人として世話をした若い女との間に生まれた子だった。
豪奢な金の髪が美しい流れ者の娘で、どうやらシュクリールの目を盗んで情夫を作ったらしく、子供を置いて出奔した。
要するにあばずれ女だったのだ。
住まわせていたこじんまりした屋敷からめぼしいものをすべて持ち出し、売り払い、部屋の真ん中に幼い子一人を置き去りにして女は去った。
後足で砂をかける、とはまさにこのことだ。
シュクリールは丸まっている幼子を抱きしめ、本宅へ連れ帰った。
凍えた手足を温め、あたたかいスープを飲ませて寝台に寝かせた。
あの日、絨毯すらなくなった部屋の中でポツンと、手足を縮めて丸くなっていた幼児のクレイールを思い出すと、シュクリールは未だに涙が出てくる。
だからか……シュクリールはかなり、クレイールを甘やかして育ててしまった。
少年と呼ばれるようになる頃には、クレイールはわがままな上、他人に対し虚勢を張るかのように傲慢な態度を取る、ちょっと問題のある子になっていた。
本宅に住む、比較的年齢の近い腹違いの兄姉たちとの仲もあまり良くなかった。
あばずれの母と田舎者の守役に育てられていたクレイールの、行儀や態度が元々悪かったせいで疎まれたのかもしれない。
それとも、愛人とはいえ下級貴族の子女である母から生まれた兄姉たちが、流れ者の子であるクレイールを見下して意地悪く疎外したせいなのかもしれない。
どちらが先なのかはわからないが、互いにそんな寒々しい気分があったのは、仕事や付き合いで屋敷を留守にしがちだったシュクリールにも察せられた。
ただ、たまにしか会えないシュクリール以外、甘えられる相手も味方もいない状況の中でクレイールが、真っ直ぐ育たなかったことは否めない。
この子は貴族社会は元より王宮や領地での官吏としても、あるいは市井に降って商人等になったとしても、上手く周りとなじめないかもしれないなとシュクリールは思った。
それでもシュクリールは、クレイールをきつく叱ったり無理に厳しく躾けたりすることは出来なかった。
部屋に独り取り残され、表情のないこわばった顔で縮こまっていた幼い彼を思い出してしまうと、可哀相で何も言えなくなってしまうのだ。
将来はリュクサレイノの力の及ぶところで、見栄えが悪くなく実害の出にくい、名誉職的な閑職へ回してやり、それなりに暮しが立つようしてやらねばなるまいとシュクリールは密かに思っていた。
父の心とは裏腹に、クレイールは王宮での栄達を目指している様子だった。
年齢の高い兄たちが要職についているので、対抗意識があるのだろう。
王子の『学友』の話が来た時には飛びつくように乗ってきた。
クレイールの年齢と立場では、たとえリュクサレイノ侯爵の息子であっても第一王子の『学友』は無理だった。
が、父上のお力でライオナール殿下の学友になれるようにしてくれと、クレイールはかなりしつこく駄々をこねた。
さすがのシュクリールも閉口し、わがままばかり言うなら『学友』の話は辞退すると叱りつけるように言ったところで、ようやくクレイールはあきらめ、第二・第三王子の「学友』になることを受け入れた。
(まず、ここで間違った)
あれの性格で、王子の『学友』などちゃんと務まるはずなかったのだ。
ましてや第三王子……レーンから来た蛮族の母の血を引く王子、などという、複雑な出自の王子の『学友』など。
『学友』の話など、あれの耳に入る前に握りつぶしてしまえば良かったのだ。
(クレイール……)
そうすればお前は今でも生きていて……ひょっとすると、幸せな家庭を築いていたのかもしれない。
窓の外で揺れる小枝を見つめ、シュクリールは胸の中でひとりごちる。
ひねくれたあれを理解し、支えてくれる優しい女性ともし出会えていれば。
シュクリールはもう一人、孫を持てていたのかもしれない。
思い、微苦笑をもらす。
詮無い話だ。




