第九章 乱⑭
小舟はようやく、フィスタ湾の船着き場へ戻った。
水平線の辺りがぼんやり明るい。
風のまにまに喧騒が、金属音や鈍い爆音と共に聞こえてくる。
ここから先は歩いて移動させる為、ラン・ガ・ルガージアンの腰から下の戒めを外した。
舟を降りて砦に向かって歩く途中、不意にラン・ガはうずくまった。
「どうなさいました、閣下」
眉をひそめてサーヴァンが問う。
「……頭が痛い。軽い吐き気もする」
くぐもる声で彼はつぶやいた。
サーヴァンに彼のつぶやきを訳してもらったクシュタンと分隊の隊員たちは、皆一様に眉をひそめた。
「仮病?」
「でも、こんなところで仮病を使う意味があるか?」
「もしかすると」
クシュタンが口を開く。
「単純に船酔いかもしれないが、昏倒させるために殴った後遺症かもしれないな」
厄介だな、と彼は口の中でつぶやく。
ラン・ガ・ルガージアン閣下は、この戦におけるルードラントー側の代表者だ。出来れば健康な状態で生かしておきたい要人である。
頭を殴ったのが原因で死なれでもしたら、後々面倒なことになりかねない。
和平交渉でこじれる可能性が、かなりの割合で出てくる。
「諸君。すまない。せめて上体の戒めだけでも、取るか緩めるかしてくれないか?息苦しいんだ」
大息をつきながら、今までになく殊勝な態度で彼は言う。
しばらく迷っていたが、サーヴァンは部下に命じ、手首以外の上体の戒めを取った。
ラン・ガは何度も大きく息をつき、強張ってしまった肩や後ろ手のままの腕、首を、ほぐすように回したり振ったりした。
「閣下、あまり頭はゆらさない方が良いですよ。砦に着いたらすぐ医者に診せますから……」
そこでサーヴァンは言葉を切った。
ラン・ガがひとつ大きく腕を振ると、手首の戒めが切れていた。右手にはごく小さなナイフ。服のどこかに仕込まれていたのかもしれない。
すぐさまクシュタンが動く。が、ラン・ガの方が一瞬早かった。
彼は上着の腹部をナイフで裂き、黒光りする鉤状の何かをその内側から取り出した。
轟音。
クシュタンが一瞬のけ反り、脚をもつれさせて転倒する。
「拳銃だ!」
サーヴァンが叫んだ。
分隊の者たちは素早く身を伏せ、距離を取る。
話には聞いていたし、知識としては知っている。
が、実物を見たのは初めてだ。
当然、轟音と共に鉛玉が飛び出すこの武器を想定した訓練までは、彼らとてしていない。
「はははは!驚いたか、愚かな未開人ども!ルードラの戦士を甘くみるな!」
もう一発、二発。
威嚇するように空へ向かって轟音をとどろかせた後、彼は、敵へ拳銃を向けたままじりじり後退る。
「ルードラに栄光あれ!我、戦士の園の碑にこの名を刻む!」
わめき、彼はこめかみに銃口を当てた。
しかし銃声が轟くことはなかった。
ナイフに利き手を貫かれた、ラン・ガの絶叫だけが響く。
上体を起こして荒い息をついているクシュタンが、ラン・ガをにらみつけていた。
「あっさり死なせるか、このくそったれが。責任取りやがれ!」
彼らしくもない荒っぽい悪態をつくと、今度こそ身体から力が抜けた。さすがにもう起きられる気がしない。
「クシュタン殿!クシュタン殿!」
サーヴァンの声が段々遠くなってゆく。
下腹部が燃えるように熱い。
そこから血が流れ出ているのがぼんやりとわかる。
(……セイイール様)
もはやこの世にいない主へ、クシュタンは話しかける。
困ったような顔でこちらを見ているセイイールの青い瞳が、見えるような気がした。
クシュタンはそちらへ、力のない笑みを向ける。
(私は私に出来る、最善を尽くしました)
セイイールがうなずく。
(ですから……もうそちらへ行っても、よろしいでしょうか?)
ぐっと眉根を寄せたセイイールの唇が、大馬鹿者、と動くのを認め、クシュタンはふふふと小さな声で笑った。
そして彼は、満ち足りた眠りの中へと己れの意識を手放した。
戦いは夜を徹して続いた。
白々と夜が明ける頃、ようやく戦闘は終わった。
硝煙のたなびく中、打ち上げられたクジラの死骸にも似た軍船の残骸が、明るく清々しい朝の陽射しに、無残に照らし出される。
互いに多くの死傷者が出たが、勝敗は明らかだった。
ラクレイド側は、総指揮官であるラン・ガ・ルガージアンをはじめとした、数人の将校と下士官、生き残った海兵を捕虜とした。
そしてラクレイド側の戦死者として記された名前の中に、多くの海兵と数人の将校や下士官と共に、一人の義勇兵の名前があった。
『トルニエール・クシュタン 30歳』……と。




