第九章 乱⑬
小舟を調べてみた。
10~12人乗りで櫂が1~2本足りないようだが、問題なく動かせそうだった。用心しながら全員が乗り込む。
「わ!」
秘書官の青年が悲鳴を上げた。
座ろうとして、何か尻で踏んだらしい。
そばにいた分隊の隊員がその辺りを探り、短く息を呑んだ。
「どうした?」
サーヴァンの問いに、隊員は無言で持ち上げた物を見せる。
雑に切り取られた、叩き切ったとでもいう断面の、人間の腕……肘から下だった。軽く血がしたたっている。秘書官の青年が再び、細い悲鳴を上げた。
「妙に床がぬるついているなと思ったが、海水じゃなくて血糊だったのか?」
吐き気をこらえた顔でサーヴァンはつぶやく。
「おそらく、小舟を取り合って殺し合いでもしたのでしょうね」
淡々とクシュタンは言い、隊員から無造作に腕を受け取った。そして少し考え、
「どうぞ安らかに」
とだけ言って一瞬目礼し、静かに海へ腕を捨てた。
「何をする!我ら戦士の遺体に勝手なことをするな!」
ラン・ガ・ルガージアンは気色ばんで叫んだが、異国の鬼神には言葉が通じない。唯一言葉の通じる男が
「ではどうするべきでしょうか?閣下が自らお持ちになるのですか?冬場でもこの辺りの気温なら、二日もすれば腐りますよ?」
と言うので、ひるんで黙る。
「……異教徒が」
いまいましそうにそうつぶやくのが、彼の精一杯だった。
「とにかくこの場を離れましょう、分隊長殿。長居は無用です」
クシュタンの言葉に、サーヴァンを始め分隊の者が皆一様にうなずく。
ルードラントーの軍は……気持ちが悪い、生理的に。
少なくとも軍としての統制などまったく取れていない。狂っている。
ここにいるだけで狂気に当てられ、何やらゾクゾクと背が冷えてくる。
小舟は陸へ向かって進み始めた。
風向きにより、悲鳴じみた声が響いてくる。
泣き叫ぶ亡霊の声のようだ。
「おーい!」
しゃがんでブツブツつぶやいていた秘書官の青年が突然立ち上がり、あらぬ方へ向かって声を上げた。
「おーい!おーい!ここだ、助けてくれ!」
「馬鹿!危ない!」
そばにいたサーヴァンの部下は制するが、青年は力任せに身体をよじり、その手を振り払う。
「やかましい!触るなこの汚らわしい鬼神の奴隷め!我は誇り高いルードラの戦士だぞ!」
「錯乱している」
クシュタンはぼそりとつぶやき、静かに立ち上がった。
それに気付いた秘書官の青年は、夜目にもわかるほど顔をひきつらせ、よだれをたらして絶叫する。
「来るな!来るなああ!」
「落ち着け、ルガーノア!」
上官の制する声も彼には届かなかった。
身体を必死によじり、訳のわからないことを息も絶え絶えに叫びながら、彼は半ば以上自分の意思で、船から転がり落ちた。
ただでさえ両手を戒めている上、錯乱しているのだ。泳げる訳などない。瞬く間に海の底へと沈んでいった。
「ルガーノア……」
茫然としたラン・ガのつぶやきだけが、静かになった水面へ落ちた。
さすがに意気消沈したのだろう。
ラン・ガ・ルガージアンから目に見えて覇気のようなものが消えた。
小舟は熟練の水兵たちが巧みに操り、陸へと向かっている。
「……君」
刹那、どう呼んだらいいか迷うような顔をした後、ラン・ガ・ルガージアンはサーヴァンに話しかけた。
「私の部下たちは本当に、皆死んだのか?」
「おそらく」
サーヴァンの素っ気ない返事にラン・ガは、愕然としたような顔をした後、表情を消した。
「何故殺したのだ?」
「それは私が答えるべきことではありません」
「上官の命令か?」
「答えるべきことではありません」
サーヴァンは少し眉根を寄せた。
嫌悪かもしれないし、軽蔑なのかもしれない。少し考え、こう続けた。
「閣下はここへ戦争の指揮を執る為にいらした。ここは戦場で、しかも最前線です。好むと好まざると殺し合いの場にいる限りは、命のやり取りに理由はないでしょう」
ラン・ガは憐れむように首を振り、わざとらしいくらい大仰なため息をついた。
「ルードラよ。無知蒙昧な未開人をお許し下さい」
蔑むような祈りの言葉に、サーヴァンは一瞬、瞳に怒気をひらめかせたが、結局何も言わなかった。




