第九章 乱⑩
艦は静かに海上を進む。
クシュタンが艦橋へ入った瞬間、中にいた者すべて……敵も味方も、ぎくりと身をゆらした後、硬直した。
全身に返り血を浴びているし、ぬぐったとはいえ顔や髪にも血は付いていよう。
彼らの言う凶悪な鬼神以外の何者でもない姿だろうと思い、思わず苦く笑う。
「分隊長殿。サーヴァン軍曹。ちょっとよろしいですか?」
クシュタンが声をかけると、サーヴァンははっとしたように何度か目をしばたたき、手にしていた小さな爆弾を副隊長に渡して近付いてきた。
「どうなさいました、クシュタン殿。ひょっとして、お怪我をなさったのですか?」
そろっとクシュタンの全身を見やり、やや離れた位置でサーヴァンは問うた。クシュタンは首を振る。
「いや。俺はほとんど怪我なんかしてない……有り難くないことに」
不思議なことを言うクシュタンへ、サーヴァンは首を傾げる。
「いくらなんでも単身であれだけの敵兵の相手をして、こちらがほぼ無傷なんてありえない。彼らがいくら新兵でも……な」
意味がじわじわとわかってきたのか、サーヴァンの顔色が変わってきた。
「この船団は何かが変だ、少なくともこの艦は。軍としてちぐはぐすぎる。ひょっとするとルードラントーの海軍は常勝におごり、単に腑抜けているだけなのかもしれない」
サーヴァンはちらりと、傲慢な顔でこちらをにらんでいるラン・ガ・ルガージアンと名乗った司令官を見た。
「だが、それだけではなさそうな気がする。作戦を続行するにせよしないにせよ、この情報は本部へ早めに送った方がいい」
サーヴァンはうなずく。
「わかりました。作戦終了後すぐ……」
「それでは遅い……」
苦い顔でクシュタンはつぶやきかけたが、かと言ってこんな込み入った内容を告げる手段など、今はない。
ため息をつき、軽く目を伏せる。
「杞憂で済めばいいのだが」
「彼らが船を操る以外は素人の集団なら、作戦そのものには都合がいいです」
苦い顔のクシュタンへ、サーヴァンはあえて明るい声で言う。
「まずは作戦の遂行を考えます」
「……それしかないな」
クシュタンとしてもそう言うしかなかった。
戒められた司令官のそばへ戻り、サーヴァンはルードラントー語で問う。
「閣下。あなたはこの作戦の最高責任者でいらっしゃる。本当ですね?」
ラン・ガ・ルガージアンはにらみつける。
「どういう意味だ、異教徒め」
「文字通りの意味です。あなたの命令にすべての者が従う、つまりそういうことかとお聞きしただけです」
やや得意そうな、それでいて苛立ったような、そんな顔をラン・ガ・ルガージアンはした。
「言うまでもないわ!」
「それが荒唐無稽、無茶な命令でも?」
「貴様らは上官の命令は絶対と教わらなかったのか?」
蔑むようなゆがんだ笑みを見せる司令官の胸ぐらを、サーヴァンはつかんで立たせた。
「ではご命令を。お仲間の艦が目視で確認出来る近さまで来ました。もう少しで大砲の射程距離でしょう。お仲間の艦を、大砲で撃て、と」
「ああん?」
意味がわからなかったのか、ラン・ガ・ルガージアンは不可解そうな顔をした。
「もう一度言いましょう。お仲間の艦を、大砲で撃て。攻撃しろ。そう命令して下さいと言ったのです」
意味がわかったのか、司令官はこぼれ落ちそうなほど目を見張った。
「嫌ならあなたには頼みません、艦長でもかまわないでしょうし。そうそう、そこにちょうど血に飢えた鬼神がいます」
サーヴァンは、顎でしゃくるようにして血まみれのクシュタンを示した。
「彼はもう、何十人ものあなたの部下を屠っています。今更もう一人殺すことをためらう男ではありません。彼にあなたの身柄を預け……」
「ちょ、ちょっと待て!」
ラン・ガ・ルガージアンは、光のない目でちらりとこちらを見る、血まみれの男に本気で恐怖した。
奇妙なまでに整った顔立ちの、無表情な男だ。
浴びたように血まみれなのに恐怖も嫌悪もない顔で、何の感慨もなさそうにこちらを見ている。
人間のあたたかみなど微塵もない、殺人の為の機械のようだ。
「我々は、あなたである必要などないのです、閣下」
たどたどしいルードラントー語が、かえって恐怖をあおる。
「ご命令を。さもなくば今……」
「わ、わかった!」
誇り高きルガージアン……『ルードラの武術の徒』の裔たるラン・ガは、ひっくり返った声でわめいた。
「わかったから!殺さないでくれ!」
病んだ黒獅子は愚かにも、ただ痛みから逃れたい一心で、群れの仲間の喉笛に食いついた。
フィスタ砦屋上。物見係が叫んだ。
「敵艦が同士討ちを始めました!」
レライアーノ公爵はニヤリと笑む。
「第一の虫は任務を遂行したようだな。よし、一気に動け!」
ひときわ明るい暗号弾が、砦の上空で炸裂した。




