第九章 乱⑨
敵の無謀な体当たり作戦をいなし、少し沖合へ向かっていた艦が舵を切る。
味方の船団が停泊している方角へ、と。
『虫』に入り込まれた黒い獅子は今、身を強張らせている。
彼はあまりにも強かったので、自らを害する者がいるということさえ、思い浮ばなかった。
彼はあまりにも巨大だったので、誰が相手であろうと虫のようにひねりつぶせるのだと思い込んでいた。
虫が身体に入り込み、内側から自らを蝕んでくるなど想定以前、あり得ないことだった。
そのあり得ないことが起こってしまった。
ラクレイドの『虫』に拘束されたあちらの将校たちはまず、甲板で戦っている海兵たちへ、船室及び持ち場へ戻るよう命令を出した。
剣ひとふりですでに十数人を屠った鬼神の化身は、命令を聞いて脱兎のごとく船底へ戻る敵を、何の感慨もなく見送る。
剣を振って血を払い、剣身を袖口で軽く拭って鞘へ納める。
(……彼らは戦いに来ているのではなかったのか?)
敵の骸を踏まないように気を付けながら、クシュタンは暗い甲板を進む。
辺りへの注意は怠らなかったが、大息をつきながら胸でそうひとりごちる。
思いがけない状況で瞬く間に仲間が殺され、うろたえているのはわかる。
しかし数こそ多いものの、訓練を受けたとはとても思えない動きで、それも丸腰でこちらへ飛びかかってくる者が大半だったのには、違和感を通り越しあきれた。
ルードラントーの平海兵は、通常武器を携帯しないのかもしれない。
が、他国と戦争に来ているのだ。
武器携帯の有無はともかく、敵との白兵戦を想定した訓練を一切受けていない、若い新兵ばかりなのはどういうことなのだ。
(……分隊長に伝えなくては)
この艦だけかもしれないが、ルードラントー軍は何かがちぐはぐだ。
ひょっとするとあちらは、本気でラクレイドと海戦をするつもりが無い……のかもしれない。
嫌な予感に胸が騒ぐ。
ゆれる足許を踏みしめ、クシュタンは艦橋へ向かう。
生臭い湿った風が、今更ながらクシュタンの髪を乱した。
「兵の撤退命令は出した。後は何だ」
不貞腐れたようにそう言う司令官へ、分隊長であるサーヴァン軍曹は指示する。
「あなた方の船団の近くへ行って下さい」
司令官はあからさまに蔑んだ顔をする。
「馬鹿な。わざわざ捕まりに行くのか?やはり異教徒は愚か者だな」
「挑発は無意味です、閣下」
サーヴァン軍曹は淡々と言い、父親ほどの司令官を見つめる。
「閣下、あなたのお名前は?」
「異教徒に名乗る名などない」
そうですか、とつぶやくと、サーヴァンは手の爆弾の導火線に火をつけるべく、隠しからマッチを出す。
「何をする気だ!」
さすがにぎくりと身を震わせ、司令官はわめく。
「別に。爆弾と一緒に、あなたを艦橋から蹴り出して甲板に落とします。あなたの絶命と艦の損壊が同時に行われますから」
「馬鹿な!私を殺すのか?」
「あなたを生かす、意味がないようですので」
サーヴァンの言葉に、司令官は更にわめく。
「馬鹿者!我はラン・ガ・ルガージアン、この度の作戦の総指揮官だぞ!」
「異教徒に名乗る名はない、とおっしゃいませんでしたか?」
「やかましい!」
サーヴァンはマッチを隠しへ戻した。
「ラン・ガ・ルガージアン閣下。ではご命令を。この艦をお仲間のいらっしゃる場所へと」
司令官は歯噛みして、椅子に縛り付けられた艦長を見た。
「言う通りにしてやれ!」
身の内に『虫』を抱えたまま、病んだ黒い獅子は仲間のいる群れへと帰る。
己れが『虫』を仲間に移してしまうであろうことすら、病んだ獅子はもはや理解出来ない。
常勝は諸刃の剣。
負けを知らぬ者はおそらく、真の意味での勝ちも勝つ為の粘り強い模索も、知らないまま成長してしまうから。




