第一章 二つの遺言状⑧
慣習の通り死の二日後、王家の森の奥にある王家の墓へセイイール陛下の亡骸は埋葬された。
王の埋葬の儀式は、近しいお身内だけでしめやかに行われる。
ただ、妊婦と三歳未満の幼児は参列を遠慮する慣習である。
神山ラクレイの麓の森、それも最奥は、地上で最もレクライエーンに近しい場所とされている。
この世に生まれ変わって日の浅い者は、レクライエーンの死の眠りに惹かれやすいからと、古来近付くのを禁じられている。
夜明けとともに喪の装いの公爵とお子様方は、それぞれ喪章をつけた護衛官だけを従えて参列なさった。
埋葬の儀式を済ませ、午後を回って帰ってきた三人はぐったりしていた。
喪章をつけた青軍服姿で、エミルナールは夫人や屋敷の者と共に出迎える。
こわばった表情の公女は公爵に手を引かれ、公子は疲れて馬車の中で熟睡していたらしく、半目を閉じた状態で公爵に抱かれていた。
型どおり三人は玄関先で立ち止まり、執事のデュ・ロクサーノ氏が用意した清めの水に浸した白い布の上に立ち、髪や喪服、靴などをやはり清めの水でぬぐって屋敷へ入る。
「お戻りなさいませ」
出迎える夫人の姿を見て、公爵はようやく少し頬をゆるめた。
「ああ。今戻った。ミーナ、すまない、子供たちを着替えさせて休ませてやっておくれ。もし欲しがるようなら、温かい牛乳と軽い食事でも用意してやってくれないか」
御心のままに、と、タイスン夫人とお世話係の侍女たちが動く。
黒に近い紫という、アイオール・デュ・ラクレイノの貴色で仕立てた喪の上着をのろのろと脱ぎ、疲れた声で公爵は言う。
「何度行ってもあの場所は慣れないな。身体の奥からがっくりと疲れる。言われている通り、レクライエーンの眠りの力が満ちているからかもしれないね」
いたわるようにそっと手を伸ばす夫人の腕を取り、公爵は不意に、柔らかく彼女を抱き寄せた。
「マリアーナ」
呼びかける声はかすかにふるえていた。
「わがままを承知で言う。お願いだ、貴女は……私より先にあちらへ行かないでおくれ。頼むから私を置いて、眠りの国の向こう側へ行ってしまわないでおくれ。……もう嫌だ嫌なんだ、もうこれ以上こんなことには耐えられない。お願いだ。お願いだ、頼む。お願いだ……」
きつくまぶたを閉じ、くぐもったような苦しい声で頑是ない子供のように、お願いだお願いだと公爵は言う。
おそらく本当は、しがみつくように強く夫人を抱きしめたいのだろうが、おなかの子供を気遣っているのだろう、代わりのように彼は夫人の背中の服地を、指が白く色変わりするほどきつく握りしめている。夫人はなだめるように、そっと夫の頬にくちづけた。
「わかっています。わかっていますわ、あなた」
「あいつは身内の死に弱いんだ」
その夜。
寝酒に、と、この前と同じ蒸留酒を持ってエミルナールの部屋へ来たタイスンが、据わった目で言う。
寝酒というより、やけ酒めいているかもしれない。酒量も多いし、前以上にグラスの中身の減りが早い。
「実は公爵は七つの時に病気で母君を亡くして、その衝撃が耐えられずにちょっとおかしくなったことがある。結局、きちんと立ち直れたのは十四、五歳になってからだ。今の奥方に出会ったのがあいつが十七の秋、結婚したのが十八になったばかりの春だ。ようやく落ち着いて幸せになれると思っていた矢先に、王太子だったライオナール殿下がデュクラの内戦に友軍として出征して戦死なさり、そのせいでがっくり来たスタニエール陛下がぽっくり亡くなられた。俺が護衛官になってから王家の墓へ随行したのは、だから今日で三回目になる。ライオナール殿下、スタニエール陛下、セイイール陛下。ヤツの母君を含め、みんな若死になんだぜ。みんな、俺がガキの頃からお世話になってきたよく知ってる方々だ。ウチの公爵様もやり切れなかろうが、俺もやり切れねえ。なんでみんなみんな、こんなに若死になんだよ、おかしいよなあ」
くいっとグラスをあおり、タイスンを大息をつく。
「畜生、ラクレイド王家は呪われているのか?」
ぎょっとするほど不穏なことを、酔った勢いなのかタイスンは吐き捨てる。
ラクレイド王家は呪われているのか?
それは酔っぱらったタイスンの愚痴だけではなく、ラクレイドのあちこちでささやかれている不穏な噂だった。
エミルナールがそれを察したのは、翌日の午後、たまたま庭でしょんぼりしている公女を見かけた時だ。
花壇のそばの木の長椅子に、公女はポツンと座っていた。いつも一緒にいる弟君も、タイスン夫人もそばにはいない。
木の陰でそれとなく公女の護衛をしているクラーレン護衛官と目が合い、合図される。
「ポリアーナさまは埋葬の儀式があって以来、ずっと沈んでいらっしゃる」
ささやくような声音でクラーレンは言う。
「一度君から話を聞いて差し上げてほしい、君は個人的にポリアーナさまと親しいし。埋葬の儀式で何かあったのだろうが、私はその時、公爵夫人の護衛をしていたからあちらで何があったのか詳しくわからないんだ」
「人が死ぬ、ということを初めて実感して、衝撃を受けられたのではないのでしょうか?」
エミルナールは十二歳の春、上級学校の入学許可書を見せに大伯母の部屋を訪ねた日のことを思い出した。
うららかな陽射しの中、眠っているとしか思えない状態で彼女が、寝台に横たわったまま冷たく、動かなくなっていたのを見つけた時の衝撃。しばらくろくに物も食べられないほど落ち込んだ。
「それは、どちらかと言うとシラノールさまの方だろう。赤子に戻ったように母君やタイスン夫人にわがままを言って甘えていらっしゃる。でも、ポリアーナさまは少し……違う気がする。上手く言えないけど」
そこまでわかっているのなら自分で声をかけて確かめ、気遣えば良さそうなものだとエミルナールは思ったが、そういう関わり方は護衛官としての職務の範囲を超えると、自主的に遠慮している節が見え隠れする。
彼は、元々文官になる者が多いクラーレン家出身という異色の護衛官だが、こういうやや融通が利かない雰囲気の実直さ、いかにも役人にありがちだ。彼の家の人間に多い性格なのだろうとエミルナールは思う。コーリン家の誰彼の顔がふと浮かんだ。
「わかりました。ポリアーナさまのお役に立てるかどうかはわかりませんけど」
そう答え、エミルナールは公女に近付く。
「ポリアーナさま」
声をかけると、公女はおびえたように身をすくませ、エミルナールを見た。
「珍しいですね、おひとりですか?」
出来るだけのんびりとしたほほ笑みを作って話しながら近づく。長椅子のそばで膝を折り、公女と目の高さを同じにする。
「……エミーノ」
公女はぎこちなく笑い、すぐに目を伏せる。
「そろそろ冷えてきますよ、ポリアーナさま。お屋敷へ戻りませんか?」
「うん……」
生返事をするが、公女は動かない。
エミルナールは小さく息をつき、思い切って尋ねる。
「何か……お心にかかることがあるのですか?もしよろしければ、エミーノに話してはいただけないでしょうか?」
公女はやや上目遣いにエミルナールを見て、ためらうように淡い紫の瞳をゆらした。が、どこかほっとしたのだろう、少し笑った。
「あのね、エミーノ」
「はい、何でしょう?」
彼女はもう一度瞳をゆらしたが、思い切ったのか、言った。
「陛下がお亡くなりになったのは。うちの赤ちゃんのせいじゃない、よね?」
「え?」
あまりにも思いがけない、突拍子もない言葉にエミルナールは驚く。公女はところどころ詰まりながら続ける。
「あのね。レクライエーンの申し子の、妻が孕むたび、王家の命は削られる……って。えーとね、あの、昨日、森のお墓へ行く前に、春宮のフィオリーナおねえさまにお悔やみを言いに行ったのよ、わたしたち」
一度春宮にお身内が集まり、その後に王家の墓へ向かうのが流れだから、必然的にそうなるだろう。公女は再びうつむく。
「おねえさまはしょんぼりしていらっしゃったけど、わたしとシラノールを見た途端嬉しそうに笑って、こっちへいらっしゃいって手招きして、お菓子を下さったの。しばらくそこでお話していたんだけど、ちょっと離れたところで春宮の侍女たちがこそこそ、言い合っていたのよ。レクライエーンの申し子の妻が孕むたび、王家の命は削られる、これは呪いだ、海から来た魔女の、呪いだ……って」
絶句しているエミルナールへ、公女は泣きそうになって続ける。
「フィオリーナおねえさまが、侍女たちのおしゃべりを聞きとがめて、叱りつけて下さったの。だから、みんな怖がってどこかへ逃げてしまったんだけど。わたしとシラノールを、みんなお化けでも見るような目で見たのよ。わたしもシラノールも何もしてないのに。おかあさまのおなかの赤ちゃんだって、何もしてないのに……」
心ないことを。エミルナールは唇をかんだ。
春宮の侍女たちはおそらく、相手が子供だと思って油断していたのだろうが、ポリアーナ公女は年齢以上に聡く、鋭い。言われた言葉をきちんと聞き取り、それがどういう意味かもちゃんと理解していらっしゃる。少なくとも、いわれのない悪意が自分たちへ向けられたことは、十分感じ取っていらっしゃるはずだ。
「もちろんですとも。根も葉もないたわ言です」
憤りを抑えながらも、エミルナールは強く断言する。そして少し考え、こう付け加えた。
「エミーノも少し経験があるのですが。大切な人が亡くなると周りにいる者の心が乱れて、色々と根も葉もない噂が流れてしまうものなのですよ、ポリアーナさま。特に陛下はラクレイドのみんなにとってこの上なく大切なお方、沢山の人間が心を乱してしまって当然です。だけど、乱れた心さえ落ち着けば、自然とそんな馬鹿馬鹿しい噂は消えてゆくものなのです。だからあまりお気になさらないで下さいませ」
少し難しいかと思ったが、公女は聡い。すべてでなくても、言っている言葉の核心は伝わるだろう。
公女はやっと、少し柔らかい笑顔になった。
「うん。わかった。エミーノは嘘をつかないもの」
公女の澄んだ真っ直ぐな視線が、年齢相応にはずる賢くなっているエミルナールには眩しい。笑みを作り、さり気なく目をそらして立ち上がると、長椅子から降りた公女の手を引いて屋敷へ戻る。
戻りながらつぶやく、公女の言葉がエミルナールの胸に刺さる。
「でも、どうしておとうさまは、レクライエーンの申し子、なんて言われているの?レクライエーンは眠りの国の王様、闇の神様、死んだ人を裁く、怖い神様でしょう?おとうさまはあんなにお優しいのに。どうしてなのかしら」
エミルナールにはこうとしか言えなかった。
「……さあ。エミーノにもわかりません」
公女と庭で話した翌日の午後、エミルナールは公爵の書斎に呼ばれた。
セイイール陛下がお亡くなりになった日に命じられた、エミルナールが『やること』の進捗状況を確認したいということだった。
埋葬の儀式から帰った日、食事もろくに取らず公爵は寝室へ入った。
翌日もほぼ一日、寝室にこもっていた様子だ。
さながら、親に死なれた子供のような痛々しさだ。思いがけない彼の弱さに、エミルナールは本気で心配になった。王位がどうとか以前の話だ、彼の正気が果たして保たれるのだろうかとすら思った。
「調べは進んでいるか、コーリン」
少しやつれた雰囲気だったが、公爵の瞳には力があり、ほっとした。
「はい。細則まで読み込みました。相手の言いがかりにきちんと法的な根拠で対応できる自信があります。必要とされる主な法律は暗唱できる程度まで読み込むようにというご指示でしたが、それもほぼ完璧です。元々そちらは王宮官吏の登用試験で必要でしたから」
公爵は久しぶりに、フィスタ砦のくせ者将軍の顔でにやっと笑う。
「それは重畳。頼もしいねエミルナール君。こういう時にガリ勉時代の知識が活きてくるとは。人生に無駄なし、なんて言うけどまさにその通りだねえ」
国葬まであと七日ばかり。
王の遺言状があるのなら、国葬の終盤に公開されるのが慣習だ。
スタニエール陛下の場合のように、急にお亡くなりになられた場合はともかく、セイイール陛下には十分時間があった筈だ。春宮で陛下の祖父であり、フィオリーナ王女の曾祖父である老リュクサレイノがうろうろしていたことから考えても、遺言状が用意されていると考える方が自然だろう。
ただその遺言状は、老リュクサレイノが意図していたものとは違う筈だ。紛糾は目に見えている。
「どういう戦いになるか予想がつくようでつかない。出たとこ勝負な面はあるけど、考えられる対策は立てておこう。相手側にとっては不意打ちだろうから、その部分だけでもこちらは有利だ。陛下に感謝するべきだろうな」
それから二、三、互いに細かいことを確認をしあった後、エミルナールはためらいつつも、ポリアーナ公女から聞いた話を公爵の耳へ入れた。
「ああ……そういうことはちょいちょい、昔から言われたな」
さほど驚きもしないで公爵は答える。ただ、声音は冷静だったが目付きが鋭くなった。
「馬鹿馬鹿しいが、確かに私の方で慶事があれば王家の誰彼に凶事があるように見えるからな。たとえば私が結婚した年の秋、王太子でいらっしゃったライオナール兄上が戦死なされた。兄上の亡骸を見て強い衝撃を受けた父上スタニエール陛下が、心臓の発作を起こして倒れ、ほどなくお亡くなりになられた。しかし彼等は忘れているんだ、私は王族で、王家の凶事は私にとっても凶事だということ。戦いに出れば戦死という忌まわしいことも起こり得るということ。そもそも父上は四十を超えた頃から、心臓が弱っていると侍医から指摘されていたこと。確かに兄上と父上が亡くなる少し前にマリアーナの懐妊がわかったが、結婚して半年ほど経った健康な女性が妊娠して、何かおかしいことがあるか?」
公爵の頬が青ざめてきた。
「それに、セイイール陛下が病で寝付いてしまわれる少し前に今回の妻の懐妊がわかったのは確かだが。じゃあ、シラノールを身ごもった時、王家に何かあったか?何もありはしない。当然だ、すべては偶然で因果なんかない。そこに無理矢理因果を見つけ出し、恐怖を煽り立てているだけなのだから。……あのご隠居が好みそうな手だ」
ふっ……、と鼻息だけで公爵は笑った。
「私をどう思おうがどう言おうが、勝手にすればいいが。子供たちに関わるとなると話は別だ。子供たちが海から来た魔女の末裔だなどと、今後決して言わせやしない」
私が言わせない。遠くを見据えてつぶやく公爵の表情に、エミルナールはぞっとした。
彼の表情は静か過ぎるほど静かだった。
しかしその静かさの中には、押し込められた深い狂気がほの見える。
(レクライエーンの申し子……か)
彼にその不吉なふたつ名を与えた吟遊詩人はいつ、公爵のこの闇を見出したのだろうか?エミルナールは密かに思った。




